第8話 彼の部屋


 ——心臓の音がうるさい。


 入学試験のときも、論文発表のときもここまで緊張することはなかった。今、脈拍を測ったら、私は即座に、精密検査行きが決定するだろう。


 二人きりになることなんて、今まで何度もあったのに。くだらないことを考えていないと、叫びだしそうになる。


「お茶とコーヒーどっちにする?」


「……コーヒーデオネガイシマス」


「……? 了解」


 まるでロボットのようなカタコトで話す私の答えを聞き入れた城後くんは、不思議そうにしながらキッチンへ向かっていった。


 そう。私が今いる部屋は、城後くんの部屋であった。



 ——昨日のことである。


『バイクルヤンナ』の屋上を後にして、宏太さんに別れの挨拶をした私たちは、帰路についていた。


「他に楽しかった思い出はある?」


 私はダメ元で聞いてみる。『感情不全』の症状は人によるのだ。私は悲しいと思ったことは覚えていても、悲しさ自体を思い出すことはできない。城後くんの楽しさに関しても同じなのかもしれない。


「うーん。【サカレンジャー】の撮影のときはずっと楽しかった気がするけど」


 城後くんは答えをひねり出してくれた。


「それは……、この島で再現するのは難しそうね」


「そうだね。あっ、でも」


「……?」


 城後くんが何かを思いついたように笑った。


「『サカレンジャー』のビデオなら全部、俺のパソコンで見られるよ」


「そうなのね」


 城後くんの発言に、私は相槌をうった。ここでは、特に深く考えていなかったのだ。


「だから、一緒に見ようよ。俺の部屋で」


「ふぇっ」


 不意を突かれた私は、素っ頓狂な声を出した。


 ——そして、時刻は現在に戻る。


 私は男の人の部屋に入ったことがない。なぜなら父の書斎は入室厳禁であり、父の寝室は夫婦兼用だったからだ。


 すごくどうでもいい。そんなことを考えて気を紛らしていると、城後くんがキッチンから戻ってきた。


「どうぞ、熱いから気をつけてね」


 城後くんがコーヒーを目の前の机に置いてくれる。


「あ、ありがとう」


 私は噛みながら感謝を伝える。


「それじゃあ、さっそく見始めようか」


「そ、そうね」


 動揺しながらも、私は城後くんの提案に同意する。


 城後くんがノートパソコンを操作すると、テレビからけたたましい声が聞こえてきた。映像が流れ出し、ナレーションが語り出される。


「第一話 初回二時間スペシャル!

『【蹴球戦隊サカレンジャー】! 始まりのキックオフ!!』

【サカレンジャー】! キックオフ!」


『私たちの住む星とは遠く離れたどこかの星、<ラフプレー星>。

 そこに住む<ラフプレー星人>はサッカーを侵略の道具に使っていた——』



 ******



「——面白いわね」


「だよね! 嬉しいよ」


 二時間があっという間に過ぎてしまった。


 正直こういうものは男の子が見るものだと決めつけていた。しかしながら、ストーリーや演出、アクションなど大人でも素直に楽しめる。少なくとも私はそう思うことができた。


「懐かしいなあ……」


 城後くんがしみじみとつぶやく。


「最初は、『マニアックなサッカー用語を使いすぎだ』って批判もあったんだ。けど、段々とみんな慣れてきてさ」


 城後くんは話し続ける。


「SNSとかでサッカー用語をひたすら解説するアカウントかもできて。みんなすごく盛り上がってくれて。嬉しかったなあ」


 そう語る城後くんの目はどこか寂しそうである。


「……何か変化は感じられる?」


 いたたまれない。そんな空気を感じていた私は、城後くんに尋ねる。


「うーん……。ごめんね。『懐かしいなあ』ってくらいかな」


 城後くんが申し訳なさそうに言う。


「謝る必要なんてないわ。とりあえず、続きを見てみましょう」


「そうだね。ありがとう。そうしようか」


 城後くんが再びノートパソコンを操作する。すると、印象的な声がまたナレーションを始めたのだった。


「第二話

『【蹴球戦隊サカレンジャー】!

 まさかのタイムアップ!? ロスタイムでの奇跡!!』

【サカレンジャー】! キックオフ!」


『……っ! あいつらトリカゴを始めやがった! 逃げ切る気か!』


 サカレッドが悔しそうに叫ぶ。


『あたしに任せて! 考えがあるわ——』


 サカピンクには秘策があるようだ。


「——ここの逆転シーン、何度見ても胸が熱くなるんだ!」

「すごい作戦ね」

「そうでしょ! これ考えた人天才だよ!」


 城後くんは興奮しているようだ。そんな彼を見ながら、私は素直に感想を言う。


「第三話

『【蹴球戦隊サカレンジャー】!

 新たな仲間!? 【助っラビット】を使いこなせ!!』

【サカレンジャー】! キックオフ!」


『【助っ兎ラビット】!? なんやねんそれ! 博士!』


 サカグリーンが驚いて、質問する。


『本来サッカーは11人でやるもの。人数合わせををしてくれる【お助けアニマル】なのじゃ』


 博士はしたり顔で説明していた。


『かなり今更であるな……』


 サカブルーは若干呆れているようだ。


『わ、忘れていたわけではないのじゃよ——』


 そんなサカブルーを見て、博士は慌てて言い訳を始める。


「——兎。可愛いわね」

「そうだね。でも、このときイエローラビットが逃げちゃって、大変だったんだ」

「……そんなハプニングもあったのね」


 兎たちの可愛さに注目した私の発言に、城後くんが苦労をした思い出を語る。本物のウサギを使っているという裏話には驚かされた。


「第四話

『【蹴球戦隊サカレンジャー】!

 乱打戦! ストライカーの嗅覚!!』

【サカレンジャー】! キックオフ!」


『ひー、疲れるよー』


 サカイエローが弱音を吐く。


『頑張れ! サカイエロー! 最後まで走りきるんだ!!』


 そんなサカイエローをサカレッドが鼓舞する。


『貴様もである! サカレッド!』


 サカブルーはサカレッドに対して、対抗心を燃やしているようだった。


『ああ! サカブルー! 俺は最後の長い笛まで! 絶対に諦めない!!』


 サカレッドは熱く応える。


『一番下手くそのくせに、生意気である——』


 そんなサカレッドを見てサカブルーはどこか楽しそうであった。


「——ここのアクションシーン、めちゃくちゃやり直したなあ。監督にすげえ怒鳴られた」


「厳しいひとだったのね」

「そうなんだよ! でもすごくかっこいい人なんだ!」

「尊敬しているのね」

「うん!」


 笑顔で怒られた思い出を語る城後くん。その様子で、私は監督さんの人柄の良さを予測できた。



「第五話

『【蹴球戦隊サカレンジャー】!

 新戦術? 奇策? 【ゲーゲンプレス】の可能性!?』

【サカレンジャー】! キックオフ!」


『このまま何もできないまま終わってしまうの……?』


 サカピンクは絶望を表情で表していた。


『あかん! 何か、何か策はないんか!?』


 サカグリーンは嘆きながらも、なんとか打開策を探そうとする。


『あるにはあるのである。だがしかし、練習なしでやったとしても……』


 サカブルーは消極的である。


『サカブルー! 聞かせてくれ! ぶっつけ本番でも俺たちならやれる!』


 サカレッドの目は死んでいない。


『らび! らび! (そうだ! そうだ!)』


 助っ兎ラビットが同調するかのように飛び跳ねている。


『……。【ゲーゲンプレス】である——』


「——相手の【カテナチオ】もすごいわね」

「最初の絶望感がすごいよね」

「でもそこからの逆転はすかっとするわ」

「そうだよね! あの角度からのシュートシーンとか最高なんだ!」

「分かるわ」


 相手の手強さもさることながら、サカブルーの作戦はお見事であったと私は感じた。城後くんは、興奮気味にお気に入りのシーンを語っていた。



 ******



 最初の緊張感はどこへやら。結局、私たちは【蹴球戦隊サカレンジャー】の第五話までを、一気に見終わってしまった。


「この話の撮影が終わったあと、結束力を高めるために、ってメンバー同士、下の名前で呼びあうようにしたんだ」


「効果はあったの?」


「うん! なんとなくだけど、距離感が近くなったっていうか、『俺たちはチームメイトなんだ』って思えるようになったんだ」


「……仲がよかったのね」


「うん! 蘭さん、憲剛さん、智章さん、保仁さん、それにもちろん監督も! みんなすごく優しいし面白い人たちだったよ」


「……そう」


 みんなの中に女性が含まれることに、私は少しだけもやっとする。


 何ともおこがましいことである。この女性と私の女子力の間には、天と地ほどの差がありそうだ。もちろん、私が地面である。


「毎日、すごく充実してたなぁ……」


 私の脳内で、完敗宣言が行われたタイミングで城後くんがつぶやく。


「……もしその頃に戻れるなら、あなたは戻りたい?」


 少し不安になった私は、城後くんに意地の悪い質問をしてしまった。


「どうだろ……。俺は、今度は逃げないっていう選択肢を選べるのかな……? まだ、自信ないや」


 後悔してももう遅い。私の言葉は城後くんから笑顔を奪ってしまった。


「ごめんなさい……」


「大丈夫。どれだけつらくても、俺はあの日々を後悔したりしない。忘れようなんて思ったことはないから」


「……強いのね。私はつらかったことは思い出したくもないわ」


「そんなことないよ。一人じゃないから、強く見えるんだよ。熊谷さんがもし、どうしようもなくつらくなったら頼ってよ。俺、頭悪いから薬とかについてのアドバイスはできないけど、体はでかいから。いくらでも寄りかかっていいよ」


 城後くんの優しい言葉に救われる。そうだ、簡単に弱気になってはだめなのだ。


 私も逃げない選択肢を選べるように頑張る、と誓ったのだ。だから、すこしだけ欲張ることにした。


「……沙月」

「えっ」

「沙月って呼んで」

「……いいの?」


「わ、私たちも今は、えっと、そう! チ、チームメイトみたいなものでしょう。

『感情不全』を倒すための! だから、私も、ひ、寿人くんって呼んでいいかしら……?」


 めちゃくちゃである。私の恥じらいによって生み出された支離滅裂しりめつれつな発言に、寿人くんがほほ笑む。


「よろしくね。沙月さん」


「よろしく。寿人くん」


 体がすごく熱い。心臓が急に働き者になったようだ。今すぐ走りだしたいような気分になる。


 それでも、私は今日、逃げなかった。


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る