第3話 水族館デート


「暑い……」


 海の近くの大通りを歩きながら、私はそうつぶやいた。


 まだ五月だというのに凶暴な日差しが都市を襲っている。


 元気なお日様が張り切れば張り切るほど、大通りを歩く人たちの顔からは生気が失われていく。これも地球温暖化とやらの影響だろうか、年々暑くなる時期が早くなっている気がしてならない。


 時刻は午前十時頃。今日は午前中の予定が入っていなかったのだ。


 いつものようにパン屋で朝ごはんを食べたあと、不意に海が見たくなり、島の北側に歩いてきた。


 歩き始めて五分もしないうちに、暴力的な暑さが脳みそをゆでる感覚を味わい、とても後悔したが、意地を張り続けなんとか海の近くにたどり着くことができた。


「きれい……」


 つい先ほどまでは、親の仇のように憎かった日差しが海の存在感の手助けをしている。


 陽光が水面をめ、波がキラキラと輝く。透明度の高い水の中を魚たちが楽しそうに泳いでいる。


 自分ではどうしようもできないほどもやもやしていた心を、海と太陽が洗濯してくれたような気がした。


(気持ちの悪さは晴れた)


 気分転換に成功した私は覚悟を決める。


「なるようになるわよね」


 すこし頼りない言葉を残し、私は来た道を戻っていった。



 ******


 時刻は午後十二時三十分頃。午前中にかいた汗をシャワーで洗い流すために、私は一度自宅に戻ってきていた。シャワーを浴びるという一つの目標は突破したのだが、二つ目の目標が難敵であった。


 今日、着ていく服の選択である。


「こっちは派手すぎるかな……」

「これは色が寂しい……」

「無難すぎる気がする……」


「こんなことなら、小柚こゆずの言うことをもっとちゃんと聞いておけばよかった……」


 心の中で考えていることが、ひとりごととして口に出ているのを気にもせず、数少ない友人の名前を口にだす。


 ——あの日の思い出がよみがえってくる。


 安藤あんどう小柚は学生時代の一つ下の後輩である。


 一年間のほとんどをジャージと白衣で過ごしていた私を見かねて、何度かアパレルショップに連れて行ってくれた。


「先輩、素材はそこそこなんですから! おしゃれしないとダメですよ!」


「服なんか着られればそれでいいじゃない」


「かーっ! そんなこと言っていられるのは今だけですよ! いつか必要な時に後悔しますからね!」


「そんな時一生来ないわよ……」


「いいからこれ! あとこれとこれも!」


 小柚のテンションの高さにうんざりしながらも、この日、私は二時間ほど着せ替え人形にされてしまった。


 あの時の私を殴ってやりたい。小柚に心の中で謝りつつ、無理やりにでもかわいらしい衣類を買わせてくれたことを深く感謝した。



 ——時刻は朝まで巻き戻り、午前七時頃。


 顔を洗い、歯磨きをし終えた私は、ノートパソコンを起動する。


 仕事用のメールアドレスに、薬の依頼ではないメールが届いていた。



 件名:デートのお誘い  


 From: 城後 寿人  午前6:46

 To:  熊谷 沙月


 本文:


 熊谷沙月様


 おはようございます。お世話になっています。城後寿人です。


 本日午後三時、『シャウラメ水族館』でイルカショーという素晴らしいイベントが開催されるらしいです。


 私はこういったイベントを見ることが大変好きであります。もし熊谷様のご都合がよろしければ、ご一緒していただきたいと思い連絡致しました。


 お忙しいと思いますので、都合が合わない場合はご遠慮なくお断りください。


 城後寿人


 敬具



 私は件名を見て数秒固まってしまった。


 差出人を二度見し、本文を確認し、三度読み直したあと、私は寿人に両親と小柚からしか連絡の来ないプライベートのメールアドレスを添付したメールを送信した。



 件名:敬語はやめて


 From: 熊谷 沙月  午前7:23

 To:  城後 寿人


 本文:


 Kuma83tuki@alecrim_mail.???


















 行きます。



 ******



 時刻は午後二時ちょうど。私がいたのは島の最北端に位置する『シャウラメ水族館』である。


 この『シャウラメ水族館』は世界の中でも有数の大きさを誇る水族館だ。普段はあまりにも人が多いため、付近にすらめったに近寄らない。


 そんな『シャウラメ水族館』の入り口前。


「ごめんね。待った?」


「いいえ。私も今来たところよ」


 どこかで聞いたことのあるようなセリフを城後くんが発して、私もテンプレートのような言葉を返す。


「かわいいね。ワンピース、すごく似合っているよ」


 屈託のない笑顔で城後くんが褒めてくれる。


「……ありがとう」


 結局、選ばれたのは一番無難だと思ったベージュのワンピースだった。


 そして、妙に顔が熱いのは、きっとこの天気のせいだろう。


 水族館の中に入り、はじめに目に留まったのは、ヒトデとナマコのふれあいコーナーだった。


「意外と硬いわね」


「そうだね。もっとぶよぶよしていると思っていたよ」


 ヒトデをつまみながら話す私とナマコを触る城後くん。


 次に訪れたのは、アジやイワシなど小魚が群れで泳ぐ水槽。


「美味しそうだなあ」


「えぇ……」


 まるでにぎり寿司を見るような目で、小魚たちを眺める城後くんと、呆れた声が出てしまった私。


 小さな水槽がたくさん置いてあるコーナーにやってきた。タコやイカ、クラゲなど足が多い生き物たちが泳いでいたり、物陰に引きこもっていたりしていた。


「このタコはカラフルでかわいいね、手に乗せてみたいや」


「そうね。でもその子、すごい毒があるわよ」


「えっ。本当?」


「確実に病院行きね」


 たくさんの生き物の中で、城後くんは豹の毛皮を着たようなタコがお気に入りだったらしい。私はそのタコがかなり怖い生物であることを知っていた。


 なぜかイソギンチャクとペンギンが混在している展示コーナーにやってきた。


「イソギンチャクの存在感が尋常じゃないわね」


「ははっ。そうだね。でも、ペンギンはいつ見ても元気が出るね」


「そうなの?」


「うん、飛べなくても自由に生きている感じがすごく好きなんだ」


「へぇ」


 妙にシュールな空間の前で、ペンギンの生きざまについて語る城後くんに、私は短くそっけない返事をする。


 最後から二番目にやってきたのはとても大きな水槽の前だった。大小さまざまな魚たちが優雅に泳ぎ回っている。その中でも圧倒的な存在感を放っている生き物がいた。


「やっぱりジンベイザメの迫力はすごいね!」


「ええ、実際に見るとびっくりするくらい大きいわね」


 興奮しながら話す城後くんの意見に、私もうなずいて同意する。


「あっちの青物も相当大きいはずなのに小さく見えるや」


「青物……?」


「ああ、青魚のことだよ」


「そういう呼び方もあるのね」


 聞きなれない言葉を使った城後くんは、私にその意味を教えてくれる。


 ******


 時刻は午後三時ちょっと前。いよいよ今日のメインイベントである。私たちは、前から五番目の席に座っていた。


「この会場もすごく広いね! 地元のサッカースタジアムより大きいかも」


「そうね。それに海が近いからかしら、思ったより涼しいわね」


「そうだね。風が気持ちいいや」


 すぐそばに大海原が広がっているイルカショーの会場は、平日にも関わらずたくさんの人で賑わっている。


 時計の針が直角を作った瞬間、大きな水しぶきが上がった。


「わあ!」

「ひゃあ! すごい!」

「きゃー!」


 飛んできた水の塊に観客たちが叫び出す。


 いつの間に現れたのだろうか、プールに浮かぶ小島にウエットスーツを着て、マイクを持っているお姉さんが立っていた。


「はーい! みなさん、こんにちは!」


「今日のみなさんはラッキーですよ! 当館の一番人気、ダイナミック! イルカショーをご覧いただけるのですから!」

「し! か! も! 今日のイルカちゃんたちはやる気満々ですからね! さあ、前置きはこの辺にして……」


「『シャウラメ水族館』名物イルカショーの開催をここに宣言いたします!」


 司会の女性の挨拶が終わると同時に、大きな水しぶきを携えてたくさんのイルカたちが水中から飛び出してくる。


「始まったか!」

「きゃ〜〜〜!」

「すっげええええ!」


 イルカの姿が見えた瞬間、会場は大歓声に包まれた。


 小さな水しぶきとともに、水中から笛を持ったトレーナーたちが現れる。


「ピーーー!」


 ——バシャン!


 トレーナーの笛の音とともに、イルカたちは背ビレだけを水上に残して、水中に再び潜水した。


「ピーーー!」


 トレーナーが再び笛の音を轟かせると、イルカたちの背ビレが多数の星を描く。そして、背ビレたちは星形を維持したまま移動すると、トレーナーが投げ込んだゴムボールをキャッチした。さらには、そのゴムボールを空中に持ち上げて、近くの星たちとキャッチボールを始めだした。


「すごいわ!」

「ヒュー! ヒュー!」

「パチパチパチパチパチパチ!」


 観客席から大きな歓声と拍手が沸き起こる。


 イルカたちは背ビレにも目がついているのだろうか、本気でそう思うほど見事な連携である。


「ピッ!」


 続いて、トレーナーが短く笛を鳴らすと、イルカたちは星形を崩して、水上へと大きく跳ね上がる。跳ね上がった水滴がキラキラと光っている。


「ピ! ピ! ピ!」


 トレーナーが短く三回続けて笛を吹くと、イルカたちが一列に並び始めた。


 水中からそれぞれ大中小のリングを一つずつ持ったアシスタントたちが現れる。大きなリングを持ったアシスタントは持っているリングを頭上に高く投げる。


「ピー! ピ!」


 トレーナーの笛の音を聞き、先頭のイルカが飛び跳ね大きなリングを通過した。


「素晴らしい!」

「ブラボー!」


 歓声が沸き続ける。


 ——ばっしゃっ。


 大きなリングが水面にたどり着いた瞬間に、アシスタントたちは残りのリングを空中に投げる。


「ピ! ピー!」


 二番目、三番目のイルカたちが高く飛び出す。イルカたちは減速することなく、リングを通過して見せた。


 残りの他のイルカたちも同様に空中の大中小のリングをくぐっていく。


「ファンタスティック!」


「最高よ!」


 観客たちは大いに沸いている。


「……凄い」


 私の口からは、自然と感嘆かんたんの言葉が漏れ出していた。


「凄いね……」


 城後くんが優しい笑みで頷く。


 その後も、イルカショーは続き、ジャンプ競争や回転跳躍ちょうやく、ダンスや歌などの素晴らしい演目が発表されていく。私はそれらを見ることで、大満足することができたのだった。



 ******



 イルカショーを見終わった私たちは、水族館の中にあるカフェで一休みをしていた。


「いやー、来て良かった」


「そうね。素晴らしい体験だったわ」


 私は、心からそう思っていた。今も興奮が冷めていない。


「楽しめてもらったようで何よりだよ」


「……今日は誘ってくれてありがとう」


「どういたしまして。少しはお礼になったならいいんだけど」


「気にしなくていいって言ったのに」


「俺が、お礼したかったんだ」


「……そう」


 城後くんの言葉に、私は小さい声で返事をする。


「熊谷さんには元気をもらったから」


「……たいしたことはしていない気がするのだけど」


「そんなことはないよ。薬を受け取っていた人たち、本気で嬉しそうだった。心の底から熊谷さんに感謝しているように見えた。そういう人たちの顔を見るのが好きなんだ、俺」


「……そうなのね」


「うん、だから熊谷さんは俺の中ですごい人なんだよ」


「ありがとう。でも、その理屈なら城後くんも凄い人だわ」


「えっ——」


「今日のショーと同じくらい、ううん、それ以上にあの日の、あの屋上のヒーローショーは私を元気にしてくれたから」


「……ありがとう、嬉しいよ」


 柄にもないセリフを言ってしまい、顔が熱くなっているのを私は感じていた。城後くんはどこか寂しそうに笑って感謝を伝えてくる。


 ペンギンを見ていたときも、イルカショーの時にも感じていた。どこか寂しそうな表情。


 城後くんの言葉は、私に勇気をくれた。今の私がすごい人だと、素敵だよと言ってくれた。


 でも私は変わりたい。手に入れたいもののために頑張りたい。


 ——だから。


 この居心地のいい関係が壊れるのは怖いけど。私は逃げないために、言葉を紡ぐ。


「城後くん」


「ん、どうしたの?」


「……あなたは何を抱えているの?」



 ——ここは、『医療都市アレクリン』。

 病を抱える人々が訪れる島。


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