第51話 特命長官

「蚊……だと。蚊の対策を、まじないと呼んでいたというのか!?」


 秀英の声が「かかかか」と木霊する。音がよく響くように、政堂には仕掛けが施されているようだ。


「蚊が疫鬼の乗り物になっているなど、俄かには信じがたい」


 藩右丞相が腰を摩りながら疑念を唱えると、藩貴妃がふいに宙を見上げた。


「そう言われれば、私も刺されてたわ」


「偶然だろう」


「では、お父上も刺されてみるといいですわ。あの病がどれだけ辛いか、身をもって体験なさるといいのです」


「ぬぬ」


 娘の反抗が意外だったのか、藩右丞相はこめかみをひくつかせた。


「まずは確認が必要だ」


 掛け合うなら今だ。小月は声を張り上げた。


「南街区に典弘という者がおります。李医師と同じ日に、数か所蚊に刺さました。この目で見ています。彼が発症していたら信じていただけますか!?」


 語尾が「かかかか」と反響する。

 命じられた禁軍の一人が確認に走り、南街区を封鎖していた衛士の隊長を伴って戻ってきた。

 小月の言ったとおり、典弘も発症しているという。追加の報告は、持っていった食料は大歓迎されたこと、小月のまじないは継続されていること、発症者は必ず蚊に刺されていたこと、李医師と小月の抜けた穴を住民が懸命に埋めていること、意外なほど秩序が保たれていたこと、などであった。


「死に至る者が減少傾向にあり不安の声はありません。むしろ、封鎖柵の前に、中に入れろと並ぶ者が数多いたくらいです。そのほうが助かると信じている様子で、困りました」


 隊長の報告を聞いた秀英は大きく頷き、小月をまっすぐに捉えた。澄んだ瞳で小月を見つめ、称えるように力強く頷いた。


「後宮につきましては、おまかせください」


 胡貴妃が請け負うと、藩貴妃も頷いた。


「はい、私達におまかせください」


 具体策が話し合われた。張左丞相は皇都中の池や沼、貯水桶に対策を施すように兵に指令を出した。皇都に居住する庶民や貴族には『蚊を発生させてはならない』という新しい触れが出された。右丞相は国庫から必要な予算を捻出することを約した。

 秀英の指示は一片の迷いもなく、迅速だった。小月が提案した対策を、皇都全体の施策にすることを決定した。さらに、


「小月、お前を流行り病対策長官に特別に任命する」


「は……?」


 難しい漢字が連なった紙に大きな判子が押されたものを、その場で「勅書だ」と手渡された。同じような書付が張包にも用意された。

 てっきり彼が上司になるのかと思っていたら、


「張包、一時的に禁軍副総統の任を解く。小月の指示に従え」秀英はそう言い放った。「小月が陣頭指揮を取る。異論はないな」


 異論の声は誰からも上がらなかった。

 陣頭指揮を任された小月は、後宮はもちろんのこと、あらゆる場所に出入りできる符を与えられた。手足として使えと張包の他に禁軍の半分をも与えられた。


 ここまで、わずか半刻。そして次の半刻では──


 胡貴妃が描いた極彩色の絵が触れ書きの横に掲示することが決まった。天帝の加護の下、皇帝が蚊の化け物を一刀のもとに斬りふせている図絵だ。皇帝の姿が芝居の英雄のように勇ましい。素晴らしい出来栄えを前にして、小月と藩貴妃は感動して泣きそうになった。


 牢内の呪術師を赦免した。解放するときに『皇帝が夢で天命を得た』おかげだと吹きこんだ。役所の触れ書きや図絵を見に来た市井の民に、解説をすることで小銭を稼ぐ許可を与えた。


 ものの半日も経たずに、皇都は虫除けの煙に包まれた。油と漏斗と金魚が高騰し、胡貴妃の絵を真似た護符が何種類も市中に出回った。


 翌日もてんてこまいの忙しさだった。

 南街区からは新たな発症者がほぼいなくなったという報告がもたらされた。蚊が疫病に関わっていることはもう疑いようがない。

 封鎖用の木柵を取り払うよう小月は命じ、張包がすぐに実行した。目抜き通りに新たな診療所を設け、栄の町と近隣の町を調査させて対処させた。対策は小月の指揮の下、順調に施行されていた。小月は現場を駆け回った。


 宮廷に戻る途中、通りかかった妓楼で、いつぞやの妓女の息災を確かめた。御礼に歓待をしたいという申し出を丁寧に断る。李医師がいたら喜んだことだろう。

 正悟殿の階段を駆け上がる小月に、藩右丞相が「無駄な支出は抑えてくれ」と念押しをしてきた。「国庫の予算は無尽蔵ではないからな」


「ごめんなさい。今は急いでいるので」


 走り去る小月を窘める者はもはやいない。正悟殿の控室に駆け込んだ。そこにはぐったりと身を横たえた李医師がいた。傍には、看護を命じられた南岩医師が付き添っている。


「容態はどう?」


「牢で腐った水を飲んだのでしょう。腹を下しております。高熱に脱水が重なっていて、危険な状態です」


「そんな……」


 南岩医師はふいに柔和な笑みを浮かべた。


「死なせはしませんよ。宮廷医としての意地があります。これも用意してありますから」


 卓上には黒い水がある。


「……これは?」


「下痢に効く煎じ薬に細かく砕いた炭を入れてみました。炭は毒素を吸い取ってくれるそうです。巷間の民間医療を試して見たいと思っていたのです」


 この宮廷医は思っていたよりも思考が柔軟だ。小月は目を瞠った。


「それにこれも用意しました。斬新すぎて不安ですが……」


 黒い水の傍らには漏斗。小月は不謹慎にも笑声を漏らした。


「私が代わりましょうか」


「まさか、そんなわけには。まずは……口移しで試そうかと思っております」

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