第12話 懐かしい香り

 小月は顔を突っ込むようにしてくんくんと嗅いだ。


「懐かしい香り……というのもおかしいか。まだ半月しか経っていないのに。この草は私の故郷の草原にたくさん生えていたわ」


 草原を走り回ったときに、体中に汁が染みついたものだ。


「蚊や蠅はこの爽やかな香りが嫌いみたいなんです。除虫草と呼んでいます。ほかにも蚊不寄草や除虫菊を適宜間隔をあけて植えているんです」


 ということは自分が蚊に刺されにくかったのは、もともとの体質ではなく、除虫草の効果だったのだ。


「そういえば黒い虫や鼠も宮ではみかけなかったけど?」


 昨夜、宮が静かすぎて、かえって不安になったのはもしや──


「鼠や黒い虫は……この白い花がよく効きます。花を乾燥させ砕いて粉末にし強い酒で成分を溶かすんです。その汁を水で薄めて鼠や虫の通り道になりそうな場所に撒いておくと近寄りません」


「すごい」


「小月様、平寧宮でも使っていますよ」韓桜はそっと耳打ちした。少しだけ自慢げに。


「あなた、お名前は?」


 小月に名を尋ねられた女官は、顔に朱を刷いた。「あ、はい、全宝と、言います……」植物のことを語るときははきはきとしていたのに、とたんにしどろもどろになった。


「全宝さん、この草を少しわけてもらえませんか。宮に持ち帰りたいの」


 小月は除虫草を愛玩物のようにやわやわと撫でた。


「は、はい。鉢が二つ余ってますので、すぐご用意します」


「嬉しい、ありがとう。秀英にも見せてあげよう」


 鉢を持たされた安梅と韓桜は、皇帝を名前で呼ぶ小月の不遜さに身体を震わせた。


「あらあら、臭いと思ったら、山から下りてきた猿がいるわ」


 藩貴妃の声がした。振り返ると、手巾を鼻にあて、眉根を寄せて小月を見ている。


「藩貴妃、おはようございます」


「文字が読めないなんて、猿回しの猿にも劣るわね」


 藩貴妃の言葉に彼女の侍女はうべなう。安梅と韓桜がむっとした表情になるが、こちらには反撃の材料がない。材料がないだけでなく、その通りだから、小月は反撃する気にはなれなかった。


 私が馬鹿なのだから、そう言われるのは当然のこと。除虫草を指さして「除虫草だ」と言うに等しい。


「街区には大道芸人がいるんですか。見てみたいな、猿回し」小月はにっこりと笑いかけた。「私の村には滅多に娯楽がなかったんですもの。ところで藩貴妃のお召しもの、綺麗ですね。緑と青の光沢がまるで玉虫みたい」


「虫?」


 藩貴妃は心底嫌そうな顔をして小月を睨んだ。


「玉虫ですよ。見たことないですか?」


「おお、いやだ。虫に似てるなんて酷い侮辱だわ」藩貴妃は腕をさすった。「一昨日蚊に刺されたところが急に痒くなってきたわ」


「藩貴妃の玉の肌を刺した蚊は、万死に値します」


 藩貴妃の侍女が真剣な顔で言う。冗談ではなく本気らしい。思わず緩んでしまった頬を、小月は慌ててひきしめた。


「よかったら除虫草をお分けしましょうか」安梅と韓桜の持つ鉢を指さした。「この汁を肌につけておくと蚊に刺されませんよ」


「けっこうよ。肌が荒れたら困るわ。さよなら、お猿さん」


 つんとすまして、藩貴妃は反対方向に去っていった。後ろ姿を見送り、安梅が苦笑を漏らす。


「藩貴妃はずいぶんと焦っていますね、小月様」


「焦っている?」


 韓桜も首肯する。「悪意を感じました。身辺に気をつけましょう」


「そんな大袈裟な──」


 侍女の顔は真剣そのものである。どうやら自分は鈍いらしい。

 なにしろ、今一番気になるのは除虫草の爽やかな香りだったから。懐かしい日々が蘇る。


「ねえ、安梅、虫は好き?」


「え? いいえ、嫌いです!」安梅はぶるぶると首を振った。


 韓桜も呼応する。「子供のころ蜂に刺されて以来、見るのも怖いです」


「でも、ほら」小月は自身の袖を持った。「ここに蝶が刺繍されている。この生地も糸も絹でしょう。藩貴妃は蚕が吐き出した糸で織った服を着て、気持ち悪くないのかしら、ねえ」


「「…………」」


 同意を求めたが結果は虚しかった。虫をひとくくりにするのは、少々乱暴だったようだ。


「虫には益虫と害虫がいます」韓桜はさめた声で言う。「害虫は駆除します。益虫は殺さないであげます。その差です」


「藩貴妃にとって私は害虫かな」


 山猿として揶揄われているうちはまだマシのようだ。

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