第11話 花苑にて

 小月はほっと息を吐いて、湯を張った桶に肩まで浸かる。湯には小花が散らされていて良い香りがする。とても心地よい。

 体の芯がほくほくと温まってゆくにつれ、自分はやはり夢を見ているのではないかと思えてきた。講談か芝居のあらすじではないのか。あまりに出来すぎている。


 幼馴染みが皇帝になっていて、形の上とはいえすでに二人の妃を娶っている。さらに自分に求婚してきた。しかも皇后になれという。

 両親に話したとして、信じてくれるだろうか。


 安梅と韓桜は応じるべきだと考えていて、その理由は自分たちが皇后付きの女官に出世したいからだという。わかりやすくてとてもいい。


 小月自身は──自分自身を客観的に見ることは難しい。となると、黄太監の人物評価が一番信用が置けそうだ。つまり、小月が皇后になるのは無理。

 おそらく、それは正しい。

 自分自身の感情はどうか。秀英のことをどう思っているのか。


「うう」


 湯の中で身悶えた。

 秀英は、初恋の相手だ。誰にも言ったことはない。秀英だって知らないはずだ。

 三年前、秀英の軌跡を失い、もう二度と会えないかもしれないと思ったときに初めて経験した恐怖。失ってから気づいた感情。ずっと蓋をしてきたのに、秀英の顔を見ただけで蓋が吹っ飛んだ。

 皇后にと望んでくれたことは素直に嬉しい。最高の告白だ。自分のすべてを肯定してくれている。自分を求めてくれている。だけど……。

 首を縦に振るのは簡単なことだった。でも動けなかった。


 なんで動けなかったのか、しっかりと考えなくては。


 応じるか否かに関わらず、しばらく後宮で暮らすことには同意した。彼のそばにいられるのは嬉しい。だが、まだまだ知らないことが多すぎる。


「服の着方さえわからないのに」


 のぼせそうになって、湯から出た。


「私達にお任せください。小月様自ら手を動かす必要はありません」


 小月は裸を晒すのが恥かしくてもじもじしていたが、韓桜は「すぐに慣れますよ」と言って、てきぱきと服を着せてくれる。

 寝台は大きくて蝋燭は明るくて、すべすべした衾に触れた途端、持参した麻の衣服と歯の折れた櫛とお椀が急に恥かしく思えてきた。

 小月はお椀を水瓶の中に入れた。喉が渇いたら自分で掬って飲めるように。些細な用事で侍女を起こすのは気が引ける。

 ただひとつだけ不満なのは耳をすませても何の音も聞こえてこないこと。草原を渡る風や小川のせせらぎはもちろん、虫の声さえ聞こえてこない。別室で控えているはずの侍女の気配がわずかに感じられるだけだ。



 

 翌日、小月は侍女と花苑に行ってみた。朝露に濡れる牡丹、梅や桃の木が天に枝を伸ばす足元では下生えの草花が陽の光を浴びていた。初夏の花苑は花の盛りだった。

 国中から植物を集めた、と聞いていた通り、小月の故郷で見慣れた草木があった。気候の違いからか、葉の茂りかたに精気がない。それ以前に何かが根本的に異なっている。何かが足りない。


「あ、そうか」


 小鳥や虫を見かけないのだ。花の蜜を吸う鳥がいない。樹液に群がる虫がいない。足元を見ても、蟻さえいない。だから不自然に感じるのだ。


「ねえ、安梅。ここに虫はいないの?」


「虫、ですか?」


 安梅は顔をしかめた。虫は苦手なようだ。


「あそこに花苑を手入れしている女官がいますよ。聞いてみますか?」


 安梅が指をさして先に、鋏で花を剪定している女官がいる。小月は近づいて訊ねた。


「蕾を切っているのですか?」


「ええ、蕾を減らしているんです」女官は小月の姿を見るや腰をかがめて礼の姿勢を取った。小月が誰かはわからなくても高位の妃嬪だと思ったのだろう。「余分な蕾を取るんです。その分、残った蕾は大きく花を咲かせるので」


「なるほど。鳥や虫がいないのはなぜ?」


「鳥は粗相をするので。虫は苦手な女性が多いので。見かけたら始末するように言いつけられております」


「まあ」


「とはいっても完全に防ぐことは難しいです。工夫はしているのですが。ご不快な思いをさせていたら申し訳ございません」


「いいえ、ちっとも」


 とはいえ、納得するしかなかった。絹織物に金糸銀糸の刺繍を施した豪奢な衣服や、時間をかけて侍女に結い上げてもらった髪に鳥の糞が落ちてきたら悲しい気持ちになるに違いない。


「ところで、工夫というのは?」


「虫よけの草を下生えにしています。例えばこの草などを……」


「あ……この草は」

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