第29話

 僕と諒馬がいるところに出くわした駅の近くにあるカレー専門店で、光輝と小野は昼食をとった。

 カウンター席に座ると、二人はほぼ同時に声を漏らした。向かい側のカウンター席に男女の二人連れが座っていて、光輝は長内、小野は副院長の顔を知っていたからである。

 二人はあからさまにいちゃついていたわけではないのだけど、穏やかな笑顔を交わしながら、美味しそうにカレーを食べていて、睦まじい雰囲気が伝わってきたという。


 光輝からその話を聞いた夜、僕はベッドに横になると、スマートフォンを手に取った。

 電話帳で長内のデータを表示させてはみたものの、数字やアルファベットの羅列を眺めては、暗くなった画面を再び表示させる、そんな意味のない行為を繰り返していた。

 長内が本当に不倫しているのだとしたら、僕はやめるように忠告できるのか。できたとしても、長内に交際を求められるのではないか。そして、僕が断ることによって、再び長内に嫌な思いをさせてしまうのではないか。

 あれこれと思いを巡らせ、こちらから電話はかけないでおこう、という結論に至った。しかし、電話をかける勇気がないことを正当化したに過ぎず、僕は何だか情けないような気持ちになった。天井をぼんやりと見つめたまま、深い溜め息をつくと、枕元に置いたばかりスマートフォンから着信音が鳴った。まさかと少し焦りを覚えたのだけど、電話は諒馬からだった。

「もしもし」

「あっ」

「えっ?」

「すぐに出ましたね」

「枕元に置いてたから」

「寝ようとしてました?」

「まぁ、歯も磨いたし、このまま寝てもいい状態ではある」

「僕もそんな状態です。今日は早めに寝ようかと思って」

「明日は仕事だもんな」

「今回はどうでした?」

「えっ?」

「見合い話ですよ」

「あぁ……、今回はなかったな。いや、今のところないな」

「今日ないなら、今回はないんじゃないですか?」

「それもそうだな。あっ、それでかけてきたのか」

「そうですよ。この前みたいに、日付が変わってからだと、起こされることになるんで」

「すいません、心配おかけしまして」

「いえいえ。じゃあ、今回は重い内容の話にならないで済みそうですね」

「あぁ……。ごめん、そうでもない」

「えっ?」

「長内さんがさぁ……」

「えっ、また会ったんですか?」

「いや、今回は会ってないんだけど、光輝が見かけたらしくて……。僕たちとばったり会う前に」

「あぁ、光輝君が」

「副院長と二人きりだったんだって」

「えっ、それって……?」

「そう思うよなぁ……」

「貴史さんから高校時代の話を聞いてる僕としては、そう思わざるをえないですね」

「そうだよなぁ……」

「もしかして、長内さんに確認して、本当にそうだったら、やめるように説得しようとか考えてます?」

「実行する勇気はないくせに、そんなこと考えて悶々としてた」

「まぁ、貴史さんなら、そうなりますか」

「はぁ……、どうしたものか」

「僕がもし、貴史さんの立場だったら……」

「だったら……」

「それって、石井さんが高校時代に付き合ってた人とそういう関係でいる話を、他の誰かから聞いたときにどうするか、ってことですよね」

「そうなんだけど……」

「えっ、何ですか?」

「いや、仮定の話だとしても、何か、石井さんに申し訳なくて……」

「そこを気にしますか」

「諒馬から色んな話を聞いてる僕としては、そこは気にせざるをえないですね」

「真似しないでください」

「ごめんなさい」

「恐らく、僕からは何もしないと思います。貴史さんと同じように、あれこれ考えて悶々とはするでしょうけど」

「何もしないかぁ……」

「もし、本人からその話をされたら、やめた方がいいんじゃないか、とは言うと思いますけど」

「まぁ、それはそうだよな」

「長内さんからその話をされたら、でいいんじゃないですか?」

「そうだなぁ……」

「何か、すっきりしてない感じですね」

「諒馬の言う通りでいいと思うし、当人同士の問題なんだから、僕がとやかく言うことじゃないとは思うんだけど……」

「人生を狂わせちゃったかもしれない、っていう罪悪感ですか」

「そもそも、僕が一度振ったくらいで相手の人生を狂わせるような人間なのか、っていう問題があるんだけど」

「濱本君に振られたくらいで狂っちゃうような人生じゃないから、って思ってるかもしれませんし」

「そう思っててほしいよ」

「それは、本人にしか分からないことですけどね」

「そうだよなぁ……」

「でも……」

「何?」

「こんなこと言ったら、貴史さん、余計に考えちゃうと思うんですけど……、僕と付き合うようになってから、長内さんと再会したのって、何かあるのかもしれませんね」

「あぁ、それは、何となく思ってるよ。諒馬にとっての石井さんと同じような……関係、って言えばいいのかな?」

「そうですね」

「そういう関係の長内さんと再会して、しかも、まだ結婚してないなんて、単なる偶然として片付けられないんだよなぁ……。考え過ぎだとは思うんだけど」

「その……、恋愛感情っていうのは、全くないんですか?」

「あぁ……、ないと思う」

「じゃあ、大袈裟な言い方になりますけど、人間として好き、尊敬できるっていう……」

「諒馬が石井さんとじっくり話をしたみたいな、そういった機会もなかったし、そこまでの感情を持つほどの付き合いじゃないんだよなぁ……」

「そうですか……」

「何で、諒馬が落ち込むの」

「いや、貴史さんにも、僕にとっての石井さんみたいな存在の女性がいるんなら……」

「結婚したらいいのに、って思ってる?」

「まぁ、そう……、そうですね」

「親からの見合い話がないと思ったら、諒馬から結婚を勧められるとはな」

「いやいや、そんなつもりは……、いや、ないこともないですね」

「あるのかよ」

「すいません」

「まぁ、謝ることじゃないけど」

「貴史さんも来年の秋に結婚することになったら、なかなかドラマチックな展開だなぁ、ってちょっと思っちゃいました」

「春まで諒馬と付き合って、その秋に結婚なんて、急展開過ぎるよ」

「さすがに急展開過ぎますか」

「本当にそうなったら、かなりドラマチックな展開だけど」

「でも……、貴史さんには、素敵な人と結婚して、幸せな家庭を築いて……、ありきたりなのかもしれないですけど、そういう人生を送ってくれたらなぁ、って思うんですよ」

「ありきたりかもしれないけど、それが意外と難しいような気もする。特に、僕みたいな人間には」

「そうですよね……」

「でも、諒馬がそう思ってくれるのは嬉しいよ。ありがとう」

「いえ、そんな……」

「諒馬が言ったように、長内さんから話をしてきたらにするよ」

「そうですか」

「ごめんね、今回も重い内容の話になって」

「今回もなかなかでしたね」

「でも、こうして話せる相手がいることに、ささやかな幸せを感じられるから、こういう時間も悪くないなぁ、とも思う」

「あぁ、なるほど」

「付き合わせた方の勝手な言い分だけど」

「僕は、貴史さんの声を聞けるだけで、勝手に幸せになってますから」

「あぁ……、会いたいな」

「まだ、別れてから半日も経ってませんよ」

「何かさぁ……、諒馬と付き合うようになってから、弱くなったような気がする」

「えっ……」

「いや、諒馬のせいで、っていう意味じゃなくて、僕が諒馬に依存してしまってる、ってことね」

「あぁ……。でも、それは、お互いさまじゃないですか。僕が依存されてるのを意識してないのと同じで、貴史さんも意識してないだけで、僕に依存されてると思います」

「そうなのかなぁ……」

「極端な話、付き合ってる時点で、お互いに依存し合ってるんですよ。逆に、依存し合わないんだったら、付き合う必要なくなるじゃないですか」

「そうだなぁ……。適度な依存だったら、むしろ必要、ってことか」

「そうですよ」

「うん、そうだな」

「あぁ、何か、すっきりした感じですね」

「諒馬のおかげだよ」

「いえいえ、そんな」

「じゃあ、諒馬には、明日に備えてゆっくり休んでほしいんで……」

「そうさせてもらいます」

「電話してくれてありがとう。おやすみ」

「おやすみなさい」

 僕は電話を切ると、スマートフォンの画面に諒馬と二人だけの写真を表示させた。諒馬がかねて希望して泊まった老舗旅館の建物を背景に、旅館の若旦那が撮ってくれたものだった。右にスライドさせると、同じアングルの写真がもう一枚あり、そこでは、若旦那を真ん中に三人が並んでいる。

 諒馬より一つ年上で、今年の春から本格的に旅館で働くことになったという若旦那は、穏やかな笑顔と優しい口調、そして、滑らかな動作で、とても気持ちがいい接客をしていた。その仕事ぶりに感心しながらも、自分はそこまでできるか少し不安になっていた諒馬に、僕は「一年後が楽しみだなぁ」と笑い混じりに言いながら、やんわりとプレッシャーをかけた。

 一年後、僕と諒馬はどんな関係になってるんだろう。

 少し頬をふくらませた諒馬が軽く肩をぶつけてきたので、そのときは考えないでいたことが、じんわりと僕の頭を占めてきた。

 恋人同士ではない、ということだけは確実である。じゃあ、お互いが気持ちを引きずらないように、赤の他人になって一生会わないことになるのか。それとも、お互いが気持ちを割り切って、友達のような関係になって付き合いが続くのか。結婚する諒馬のことを考えたら、前者の方がいいのかもしれない。しかし、僕が望むのは後者の方で、諒馬も同じように思ってくれているのかもしれない。

 付き合いが続くのなら、僕は諒馬の実家である旅館へ行き、若旦那として立派に働く姿を見ることができる。ただ、僕一人で行くのは、どうなのか。諒馬への気持ちを引きずったまま、一人の状態から抜け出せていない、そう思わせてしまうのは避けなければならないし、できることなら、新しい恋人を連れて行き、僕が幸せでいることを知らせて安心してもらいたい。その新しい恋人が藤田であったら、この上ないことなのだけど、とても叶いそうにない望みである。

 考えることに少し疲れたので、僕はぼんやりと開いたままだった目を閉じた。すると、三人の写真に似たような構図の映像がちらりと頭をかすめた。それほど鮮明ではなかったものの、その三人が誰なのかは分かった。僕の位置には僕、若旦那の位置には法被を羽織った諒馬、そして、諒馬の位置には、長内がいた。

 僕はベッドの上で伸ばしていた右手に握っていたスマートフォンを顔の正面に持ってきて、三人の写真を再び表示させた。写っている三人に変わりはないという当たり前のことに、僕はどこか安堵感を覚えたのだけど、諒馬と話をした余韻に浸りながら、すぐに眠らなかったことを後悔し始めた。

 諒馬と二人だけの写真に戻すと、諒馬からのメールが届いた。


 起こしちゃったら、ごめんなさい。

 電話を切ってからすぐに眠るつもりだったんですけど、貴史さんの声で聞いた、「会いたいな」っていう言葉が、ずっと耳から離れなくて、旅行で撮った写真を眺めてました。

 会いたいです。

 僕も同じ気持ちでいることを、どうしても伝えておきたかったんで。

 それでは、おやすみなさい。


 その文章をじっくりと何度も読み返したかったのだけど、諒馬を起こしてしまわないよう、すぐに返信メールを送ることにした。


 起こしちゃったら、ごめんなさい。

 ちょうど、若旦那さんに撮ってもらった、諒馬との写真を見ていたところだったから、ちょっと驚いた。

 そして、諒馬が同じ気持ちでいることを知って、とても嬉しくなったよ。

 ありがとう。

 おやすみ。


 送信ボタンをタップすると、僕は再び二人だけの写真を画面に表示させた。

 また諒馬のことを、もっと好きになっちゃったよ。

 写真の中で微笑む諒馬を見つめながら、僕は心の中で呟いた。

 またその分、別れるときに、もっと辛く悲しい気持ちになってしまうのだろうか。

 つい頬が緩んだそばから、そんな考えが頭をよぎってきて、僕は思わず目を瞑った。

 このまま起きていても、後ろ向きなことばかり考えてしまうだけなので、僕は眠ることにした。しかし、部屋の照明を消しても、目が冴えていたため、なかなか寝付くことができず、子どもの頃に昼寝のせいで眠れなかったときと同じような、えも言われぬ不安を覚えるのだった。

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