第2話
松尾に髪を切ってもらったヘアサロン『ラウレア』から部屋に戻ると、僕はそのまま洋室のベッドに横たわった。
いつもだったら、シャツの胸ポケットに忍ばせたスマートフォンの音声レコーダーで録音した松尾との会話を、オーディオシステムのMDに落とし込み、音声レベルを上げる作業に取りかかるのだけど、店に入る直前の操作で間違いをしてしまったようで、今日は全く録音されていなかった。
来年の春には会えなくなり、秋には結婚してしまう、もはや恋心を抱いてはいけない相手になったのだから、松尾の声を聴いたところで余計に虚しくなるだけ、そう頭では分かっているのに、僕はオーディオシステムの電源を入れ、前回の会話が録音されているMDを再生した。
基本的に少し高いと思われる声の調子、早口になると舌足らずになる物言い、抑え気味でも嬉しさは伝わってくる笑い方、ふいに茶目っ気を感じさせる言葉の選択、そして、沈黙を埋めるように聞こえてくる、髪を切るハサミの音までもが、僕を愛おしい気持ちにさせる。
「松尾君……」
その気持ちを少しでも逃がしてしまわないと、じんわりと滲んできた涙がいよいよ溢れてきそうに思えて、僕は愛おしい人の名前を呟いた。しかし、涙が引いていく気配はなかったので、僕は身体を起こしてから両方の目尻を拭い、泣いてしまったことを自分で認めた。
ふと意識した途端、無性に喉が渇いてきた僕は、ベッドから起き上がると、照明を点けることもせず、薄暗い中をキッチンへと向かった。そして、五百ミリリットルのペットボトルに半分ほど残っていた緑茶を冷蔵庫の前で飲み干してから、玄関に飾ってある紙袋に入ったお守りを持って洋室に戻った。
いつからだろう、僕は胸の内を明かしたくなったときに、お守りに向かって話すようになった。
僕は座布団の上で三角座りをすると、お守りを紙袋から引っ張り出した。お守りには鷽の目が描かれていて、その鋭い眼差しが不思議と安心させる。手にしたお守りに小さく頭を下げると、僕はゆっくりと息を吐きながら気持ちを整えた。
お久し振りです。
いつも、ありがとうございます。
今日、髪を切ってきまして……、切ってきたんですけど……、松尾君、結婚することになったみたいです。
結婚……。
松尾君から、直接聞いたわけじゃなく、隣のお客さんとの会話が耳に入って……、会話から知ったことでして……。直接、松尾君から知らされなかったことが、その、まだ、救いだったと言いますか……。もし、直接聞かされてたら……、どんなリアクションをしてたんだろう、って思うと……。でも、間接的に知るのも、それはそれで……、いや、直接か間接かっていうのは、そんなに重要じゃない……、重要じゃないですね。
松尾君が、僕の知らない、一人の女性の、女性にとって、これ以上のない……、特別な存在になってしまう、その事実だけで、僕をこんなに……、僕はとてつもない喪失感に、喪失感を覚えています。
胸にぽっかりと穴が開く、っていうのは、こういうことなんですかね……。
左胸、左胸の少し下に……、うまく言えないんですけど、空気が緩やかに流れているような……、不思議な感覚があるんです。
こんなことって、今までになかった……、やっぱり、今までになくて、初めてのことなんじゃないかと思います。
報われるはずのない片想いを、完全に諦めなきゃならない、そういう状況に陥ったことは、これまでに何度もありました。
でも、この喪失感は……、胸のぽっかりは初めてで……、さっきまでは、泣いてたりもしました。
すごく好きになって、どうしようもなく好きだった、僕にとって、僕の人生において、特別な存在であり続ける人は、何人かいますけど……、ここまで気持ちが滅入ってしまうことはなかったと思います。
僕は、松尾君のことを、こんなに好きだったなんて……、今になってやっと、痛感させられました。
こんなこと、思ってはいけないことは、頭では分かって……、いや、口先で言えるだけなんですけど、何かの間違いであってくれたら……、そう願っている自分がいることは否めません。
これから眠って、次に目が覚めたら……、松尾君には結婚の予定がない、そんな世界になっていてほしいです。
そんな世界になっていてくれますように。
僕はこたつの敷き布団の上に転がると、お守りをそっと包むように持った右手を左胸の少し下に当て、両膝を折り、背中を丸めた。こたつに入らなければ、もしくは、毛布をかけなければ、恐らく風邪をひいてしまうだろう、そんな考えが頭をよぎったのだけど、今の自分にふさわしい惨めさだと思えたので、僕はそのまま目を閉じた。
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