本の虫

スズシロ

本の虫

「本の虫」という言葉がある。三度の食事よりも本が好きで四六時中本を読んでいるような人間を指す言葉だ。私の知り合いにまさしく「本の虫」と呼ぶのに相応しい物好きが居た。

 そいつは所謂「普通の本」も読むが、特に古書と呼ばれる云十年も前の本を読むのが特段に好きだった。


「上質とはいえない茶色く変色した紙、持ち主の書き込み、本に染みついたなんだかよく分からない臭い。本そのものというよりはこの本がどういう過程を経て自分の手元に来たのか。想像するだけで興奮するんだ」


 ある時彼が私に言った台詞の一つである。


「あいつは変態だ」


 読書好きで知られる別の知人が彼の話をすると決まって「変態」という二文字が出る。しかし決まってそれを否定する人間は居なかった。


 彼の休日は古本屋巡りから始まる。神田の古書街を回るのが趣味らしく、暇な時は「面白そうな本」を探して神田を徘徊しているのだと専らの噂だった。そんな風だからいつからか「神田の主」というあだ名が生まれ、そこから派生して「神田の変態」などと不名誉な呼ばれ方をするようになってしまった。

 ある日「そんな呼ばれ方をして嫌じゃないのか」と聞いたことがある。当の本人はそれを否定することなく、「その通りだ」と笑った。


「古本って今時インターネットでも買えるんだぜ。そこで『良い本』を探すコツを教えてやろうか。わざと状態が『悪い』本を探して買うんだ。すると極たまに想像もつかない汚れ方をした本が届く。そういう『当たり』を引いた時の快感が忘れられなくてつい注文してしまうんだ」


 私は思った。彼は変態だと。


 そんなある日のこと、彼――仮に「神田」と呼ぶことにする――と連絡が取れなくなったととある学生から声を掛けられた。


「君は神田君と親しいんだろう。連絡してみてくれないか。本を返せなくて困っているんだ」


 神田はマメに連絡を返すタイプではない。本に熱中している時は二、三日返事が無いなんてざらだ。今回もそれだろう。私は「分かった」と返事をして神田に電話を掛けた。


「……」


 出ない。ならばメールを入れよう。


「連絡を待つ」


 とメールを入れ、その学生には「連絡が取れたら教える」と伝えて分かれた。普段ならば数日経てば「すまない」という謝罪と共に返事が返って来るはずだ。しかしこの時は何日待っても返信が来ることは無かったのだ。


「まさか飯も食わずに本を読んで倒れているのではなかろうか」


 そんな不安が胸を過ぎる。神田の事だ。十分にありうる。心配になった私は神田の家を訪ねることにした。確かそれこそ神田の近くにある学生用アパートの一室だったはずだ。

 早速大学帰りに足を運ぶ。下町にある古びた……趣のあるアパートで、外から見ると本が山積みにされている部屋が一部屋だけ見える。あれが神田の部屋に違いない。すぐに分かった。


「神田。居るのか?」


 部屋の外から声を掛ける。返事は無い。ドンドンと戸を叩く。やはり返事はない。留守にしているのだろうか。


「おい――」


 念の為ドアノブに手をかけて回してみると「カチャ」と音を立てて扉が開いた。推理小説の一節が頭に浮かぶ。もしかして、この中で、既に神田は――


 ドクンドクンと心臓が音を立てる。恐る恐る扉を開くと薄暗い室内が見えた。リビングに続く廊下には古書がうず高く積まれていて足の踏み場もない。本のジャングルだ。怖い。しかし、ここまで来たら神田の安否を確認せずには帰れない。


「神田ー」


 リビングに向かって声を掛ける。無論、返事はない。掃除をしていないのか、汚れた廊下を見て靴を脱ぐ気にはなれずそのまま足を踏み入れる。床には湿気に当てられてカビにまみれた古本が積み重なっており、そこにいるだけで身体を壊しそうだ。

 本の山の隙間を縫うように歩を進める。積み本を崩さないように慎重に進み、ついにリビングに辿り着いた。


「うわっ」


 異様な光景に思わず声が出る。カーテンが閉められて薄暗い部屋の中には廊下と同じく大量の古書が積まれている。古書に押されて開いたカーテンの隙間から日光が入っていてかろうじて何が何処にあるのか分かる状態だ。


 本当にここに神田が?


 そんな疑問を頭に浮かべながら地面に目をやった時、カサカサ、と何かが動いた。何かいる。頭の中に黒い虫が思い浮かぶ。これだけ汚いのだからいてもおかしくは無い。しかしそれは私が思い浮かべているそれとは少し違った。


 長細いフナ虫のような虫。紙魚だ。


 ただし妙に大きな紙魚だ。今まで「紙魚」という生き物を見たことはないが、恐らくこんなに大きな虫ではないだろう。馴染みのある黒いアレの1.5倍ほどはあろうかという大きさの紙魚は、目の前の古書の隙間から這い出て来たかと思うとまた別の古書の隙間へと消えていった。

 妙な見間違いかと思い目をこする。その紙魚が這い出て来た場所をおもむろに覗くと、肌色の何かが見えた。どきりとして顔を上げる。まさか――


 後片付けのことなど考えずに目の前の古書の山を崩す。


「あっ」


 目の前の「壁」が無くなり、ぽかんと開けた場所が現れた。そこで私が見たものは間違いなく「神田」だった。


 神田は死んでいた。机の上に伏せるような形で動かなくなっていたのだ。机の上には山積みの古書。そして神田の手元にも――恐らく死ぬ瞬間まで読み続けていたであろう本が置かれている。


 まさか、本を読むのに夢中になって食うのも忘れて死んだのか?


 そんなまさかと思いつつ、神田ならば十分にあり得ると私は思った。とりあえず警察に連絡しなければ。そう思って携帯電話に手を伸ばす。しかしふと、神田が読んでいる本が気になった。神田が食う暇も忘れるほど魅了された本とは一体どんな物なのだろう。

 恐る恐る神田の背後に回り、手元の本を覗き込む。開きっぱなしのページの一文が目に入った。それは――


 ◆


 目を覚ますと、そこは病院の一室のようだった。訳が分からずに体を起こす。腕には点滴が繋がっていた。おかしい。たしか私は神田の家に居たはずだ。

 ナースコールを押すと看護師が駆け付け、私が起きているのを確認すると医者を呼びに行った。


「どうしてここに居るのか分かりますか」


 医者に問われる。


「いいえ」


 私が答えると医者は二人の男を連れてやってきた。男たちは刑事だった。

 刑事の話によると、私は神田の家で発見されたらしい。私に神田と連絡を取るよう依頼した学生が、私とまで音信不通になったのを心配して警察に連絡したそうだ。駆けつけた警察は神田の死体と、その横で本を読み耽っている私を発見したらしい。

「らしい」と言うのは、私にはその記憶が一切無いからである。


 神田は学生と連絡が取れなくなった頃には既に死んでいた。やはり死因は餓死だそうで、幸いにも私に疑いがかかることは無かった。そして発見時の不可解な状況にも関わらず、不思議なことに神田を発見してすぐに通報しなかったことを咎められることも無かったのだ。


になった警官が居てね」


 と刑事は苦い顔をして言った。証拠品として押さえたあの本を手にした警官が私と同じようになったのだという。


「あの本は今どこに?」


 私がそう問うと、


「君は知らない方が良い。困るだろう」


 と刑事は言った。確かにその通りだ。その通り?


 聞いた話によると、私は例の本を夢中で読み耽っていたらしい。横たわり変わり果てた神田の変死体の横で、立ったまま本に釘付けになっていたそうだ。最初に発見した警官が声を掛けたが反応が無く、ふざけているのかと思って声を荒げても決して本から目を逸らそうとしなかったらしい。

 恥かしい話だが私の足元には汚物の水たまりが出来ており、ようやく警官は異常事態に気づいた。そして本から引きはがして病院送りにされたという訳だ。


「君まで連絡がつかなくなったから焦ったよ」


 私に依頼をした学生から連絡があったのは私が退院してすぐのことだった。学食の片隅で落ち合い、無事を確かめ合う。


「流石におかしいと思ったんだ。一週間も連絡が取れないなんて」


 どうやら私は丸々一週間、その本を読み続けていたらしい。立ったまま飲まず食わずで。そりゃあ衰弱して入院もするだろう。


「神田君の横に立っている君を見た時はぞっとしたよ。異様だった」


 そう言って学生はぶるっと身震いをした。


「何はともあれ、無事で良かった」

「助けに来てくれてありがとう。感謝しているよ」


 学生が通報してくれなかったら今頃神田と仲良くミイラにでもなっているところだっただろう。


「ところで、君たちをそんなに夢中にさせたアレは一体何の本だったんだ?」


 興味深げに学生が尋ねる。


「それが、良く思い出せないんだ」


 神田が抱きかかえるようにしていた読みかけの本。その一節は確か――


「本の虫」


 私がそう呟くと学生はぷっと噴出した。


「本の虫? まるで神田やあの時の君みたいな話だな」


 そう、「本の虫」だ。その単語が目に入ったのが最後の記憶。「本の虫」か。私はあの「紙魚」について思い出していた。神田の居た場所からゴソゴソと這い出て来た妙にでかい「紙魚」。もしかしてあれは神田自身だったのではなかろうか。そんな妙な妄想をしてしまう。

 そして、あのままあそこに居たら私も――


「忘れよう」


 私がそう言うと学生は「それもそうだな」と言った。本に埋もれた死体と紙魚。なんとも薄気味悪い結末だが、これ以上追求するのも良くない気がして話を打ち切った。


「結局返し損ねたよ」


 学生は神田から借りたという古書を何気なしに開く。そこには紙魚の食い痕がびっしりとついていて、私はなんとも表し難い心持になったのだった。


(完)

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