第2話「ダイ・マイ・フレンド」

 星の煌めく夜空の下。


「………………」


 屋上――――――は諸事情により使えないので、三階の教室のベランダにて、一人の少女が景色を見下ろしていた。峠高校は一~二年生が使う「北校舎」、三年生の使う「西校舎」、職員室や特別教室が集まった「南校舎」の三つに分かれており、「C」の字に囲まれた真ん中に「中庭」があるので、今彼女の目には、闇に染まった芝生と、ご立派な一本桜しか映っていない。

 こんな年頃の娘が、夜の学校にたった一人で、今にも飛び降りそうな勢いでベランダから中庭を見下ろしている。どう考えてもおかしいが、それを指摘する人間も居ない。夜の闇は、何時だって“人外”の味方だ。


「喉、渇いた……」


 少女がポツリと呟く。


「喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた喉渇いた!」


 最初はポリポリと、徐々にガリガリと、最後は血が出るまで喉を掻き毟りながら。

 しかし、そんな常軌を逸する行動を取っていても、表情だけは変わらず「虚無」であり、見えない何かへ必死に訴えているように見えた。


『やろかやろか、水やろか』


 すると、少女の願いを叶えるように、誰かの声が聞こえた。

 だが、一体何処から?


『水が欲しいか、そらやるぞ』

「ちょうだい! 早く、ちょうだい!」

『なら、おいで。さぁ、おいで。ワタシの中に、飛び込んでおいで』


 ――――――中庭の方から。誰も居ない、筈なのに。


「うん、分かったわ」


 そう言って、少女は身を乗り出した。


 ……ぐちゃり、と嫌な音が世闇に響いた。


 ◆◆◆◆◆◆


 ここは閻魔県えんまけん要衣市かなめいし古角町こかくちょう、峠高校。長閑で平凡な田舎町に存在する、極普通な高等学校にて、その事件は起こった。


「嘘でしょ……」


 何時もなら登校する生徒たちでごった返す門前だが、今日は様子が違った。


「はい、下がって下がって!」「ここは今、立ち入り禁止です!」「先生方、誘導の方、お願いしますよ!」


 停められたパトカー、野次馬化しそうな生徒たちに立ち塞がる警察官、中庭の方から運ばれて来る“モノ”。峠高校の朝は、真っ赤な血に塗られていた。


「先生、どうしたんですか、これ!?」

「……中庭で飛び降りだ。それ以上は言えない」

「そんな……」


 丁度良く近くに居た担任の先生に事情を尋ねると、とんでもない答えが返って来た。


「じゃあ、今運ばれてるのって……」


 そして、鏡音かがみね 蓮花れんかは確信した。今し方、多目的ワンボックスカーに運ばれていった死体が、誰なのかを。


「弥生……」


 それは彼女の親友、水地みずち 弥生やよいであった。


 ◆◆◆◆◆◆


 数日後。現場も粗方片付き、一先ずの日常を取り戻した峠高校。

 誰もが事件の事など忘れて……いる筈も無く、恰好の話題となっていた。


「ねぇねぇ、聞いた? この前、中庭で自殺があったって」

「知ってる知ってる。確か、弥生さんだっけ?」

「そうそう。何でも、親が離婚寸前、家庭崩壊まっしぐらだったらしいよ」

「へー、そうなんだ」「何々、何の話ー?」「俺らも混ぜろよ」


 死んだのは、二年三組のクラス委員長、水地 弥生。クラスでも人気の優良な女生徒だったが、家庭環境に問題を抱えており、その関係で独りでストレスを溜めていき、とうとうそれが爆発した――――――というのが、クラスメイトたちの見解だった。

 それを涙ながらに……ではなく、極普通の、日常の一環として、半分笑いながら話し合う辺り、生徒たちの本性という物が窺える。

 子供の心が純真だと思うのは人間の大人だけだ。本当は誰もが知っている。人は、悪魔なのだと。天使や神を気取る事は出来ても、心根までは変えられない。

 しかし、優しい人間が居るのも事実。現に、弥生の死を話の種にする生徒たちを快く思わない者も少なからずいるし、面と向かって注意する子も、居るにはいる。


「アンタたち、いい加減にしなさいよ! それでも人間なの!?」


 それが弥生の親友、鏡音 蓮花である。

 彼女は、弥生が悩みを抱えている事を薄々感付いていたが、どうこうする前に弥生が自殺してしまい、ここ数日の間ずっと悩んでいた。

 だからこそ、弥生が死んだ事を笑い話にする生徒たちが許せないのだ。


「はいはい、分かりましたよ」「何よ、真面目ぶっちゃって」


 もちろん、言われた方は唯々面白くないだけで、反省などまるで無いのだが。


(何よ、どいつもこいつも! 何時も頼りにしてた癖に、死んだらハイお終いって訳!?)


 怒り心頭のまま、廊下をズンズン歩く蓮花。今は昼休みなので、誰も彼もがグループを作ってお弁当タイムと洒落込んでいるが、そこへ混ざる気にはなれない。一部とは言え、人の醜い本性を垣間見てしまったから。

 自分が一番の心友だったからと、周囲に当たり散らすような態度を取る、彼女も彼女にも問題はあるのだが。

 何れにしろ、今の蓮花は孤独で、独り善がりな義憤に駆られていた。


 ――――――何としてでも、弥生の死の真相を突き止めてやる、と。


 確かに家庭環境に不備を抱えていた弥生だが、自分に何の相談も無く自殺に至るだろうか。つい先日まで、そんな雰囲気は微塵も感じさせなかったのに。むしろ今度一緒に映画を見に行こうとまで言ってくれていた。

 その弥生が、突然死ぬだなんて……絶対に有り得ない。

 この世に絶対など絶対に無いのだが、友人の死が蓮花の目を曇らせ、思考能力を奪っていた。

 だから・・・、だろうか。


 ――――――ふと見掛けた、蛇口の水が生き物のように蠢いて見えたのは。


「えっ……!?」


 瞬きをする間に水は元通りになっていたが、間違いない。確かに、動いていた。


「いや、気のせいね……」


 それでも、その時はそう思った。疲れてるのよ蓮花、と。

 だが、彼女は思い知る事となる。今日この日、自分が見てしまった異常事態が、現実の物であると。


「……嘘でしょ?」


 またしても、飛び降り自殺が発生した。それも、蓮花の目の前で。


「こいつは……」


 それは弥生の死を面白おかしく語っていた、生徒の一人だった。

 さらに、現場検証が終わり数日経った頃にまた一人、それが片付くともう一人と、断続的かつ連鎖的に続く投身自殺。どいつもこいつも、二年三組のクラスメイトだった。例の馬鹿共はもちろんの事、弥生とそれなりに仲良くしていた者や、関りの薄い者まで、見境なく次々と死んでいく。

 弥生の死から約半月で、七人もの生徒が自らを殺してしまった。


「次は……私……?」


 事ここに至って、蓮花は恐怖心を抱いていた。

 初めこそざまぁ見ろくらいに思っていたが、関連人物が粗方死んでしまい、関係の無い人間まで死に始めた事で、次は自分の番が回って来るのでは、という考えが過ぎり始めたのである。

 弥生と自分は心友同士。恨みを持たれる筈など無いのだが、悪霊は見境が無くなるとも聞く。


 それに、何時ぞやに見掛けた、あの水だ。


 思い返せば、死んでいった生徒たちは、死ぬ数日前くらいから、おかしな行動が目立っていた。

 突然何かを恐れるような態度を取ったかと思えば、異様なまでに水を欲しがったりする、など。


 ――――――そう言えば、自分も最近無駄に喉が渇き始めた。


(嫌だ! 死にたくない!)


 最早、蓮花は弥生の死の真相など、どうでも良くなっていた。

 何故だか、どういう訳だか、自分は弥生に呪い殺され掛けている。さっきから、水の滴る音が、這う音が、流れるように聞こえてくる。上から、下から、前から、後ろから。


 ……自分の中から。


『やろか、やろか、水やろか。オイシイ水を、たらふくやろか』


 歌が聞こえる。弥生の声が。


《死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね》


 見える視える、差し迫る死が。赤黒い手形となって。


「いやああああああああっ!」


 数々の死と、自身に起き始めた異常により、蓮花は錯乱状態に陥っていた。まるで、死んでいった生徒たちのように。

 蓮花は恐慌しながら、弥生たちが飛び降りた、自分の教室へと続く階段を上りだし、


「えっ……?」


 その途中で、妙な物を発見した。


「何、これ?」


 それは、壁に埋もれるように設置された、立体パズルを思わせる木組みの小箱。それがポストのように口を開いて、こちらを視ている・・・・。今すぐ手紙を書け、と言わんばかりに。お誂え向きに、紙と鉛筆まで用意されていた。

 こんな物、今まで無かった筈だが……。


「………………」


 その非現実的かつ不気味な現象に、蓮花は恐れを抱きつつも、筆を走らせた。これを見たおかげで、自分は死地へ突っ走らずに済んだのだと、思えたから。

 もしも、この箱を見掛けなけなかったら、あるいは――――――、


「………………!」


 別の恐怖に駆り立てられた蓮花は、来た時以上の速さで、階段を下りて行った。

 同時に、その奇妙な箱も、忽然と姿を消した。


 そして、誰も居なくなった。


 ◆◆◆◆◆◆


 屋上に広がる森の奥。


《おはこんばんにちは~☆彡♪ 迷える生贄こひつじちゃんから、お手神様のお届けだよ~ん♪》

「手紙な?」「遺影☆彡」『ビッバビ~ビ~♪』


 悪魔たちの囁きが響く。


 ◆◆◆◆◆◆



 ――――――ゴポゴポゴポ。



 闇の中で、何かが蠢く。次なる獲物を求めて。

 それは水によく似た、透明な細胞を持つ液体状の生き物。人の生き血を好み、肉身を味わい、最後は骨すら溶かして殺してしまう、正真正銘の化け物。

 しかし、今は長い年月から目覚めたばかりで、“餌場”に獲物を誘き寄せる事ぐらいしか出来ない。

 だからこそ、彼(もしくは彼女)は、殺す。水のフリをして、自らの分身を飲み干した人間を、自分の本体目掛けて飛び降りさせる。自殺に見せ掛けているのは、単に怪しまれない為。自分という存在を悟らせないように。

 とは言え、立て続けに生徒が自殺すれば、どう頑張っても怪しまれるのだが。怪物はまだ寝惚けているのかもしれない。

 事実、最初に飲み干した生き血の持ち主の影響を受けている事にも、気付けていないのだから。

 しかし、その怪奇な大作戦も今日が最後。そろそろ良い感じに目が覚めて来た化け物は、自分が今どういう立場に居るのかを理解し始めていた。

 このままでは自分は見付かり、再び封印されてしまう。

 いや、封じられるだけならまだしも、退治されては堪らない。

 だが、流動体である化け物が移動出来る範囲は限られている。早く丁度が良い器を作らねば。

 幸い、材料は結構手に入った。自殺した人間たちの一部を少しずつ取り込み、一つの身体オリジナルがもうすぐ完成する。後は顔と声を奪うだけ・・・・・・・・

 最後の獲物は決めてある。


 一番大好きで・・・・・・一番大嫌いな・・・・・・あの子だ・・・・


 さぁ、殺そう。

 さぁ、食べよう。

 さぁ、おいで、私の下に。


「………………」


 分身体に指令が届き、お気に入りのあの子――――――蓮花が、教室への階段を上がる。

 時刻は既に夜。草木も眠る丑三つ時。当然、全ての扉には鍵が掛かっているのだが、そんな常識的な事情など今の蓮花には関係なく、人間離れした馬鹿力で南京錠を破壊し、地獄への扉を解放する。限界を超えた力を発揮したせいで手が壊れてしまったが、どうせ頭以外はいらないし、この後グシャグシャになるのだから、どうでも良い。


 さぁさぁ、いらっしゃい、いらっしゃい。

 私と同じように、そこから一歩踏み出して、飛び込んでいらっしゃい。


「………………」


 フェンスを引き裂き、死の淵に立つ蓮花。その眼に光は無く、何も見えてはいない。自分が死のうとしている、という現実さえも。


「ハーイ、そこまで」


 だが、まさに今から飛ぶ鳥が後を濁そうとした時、待ったが掛かる。いつの間にか白衣の少女がすぐ隣にいて、蓮花の肩をポンと叩いたのである。


 ◆◆◆◆◆◆


「……っ、あっ!?」


 肩を叩かれた瞬間、蓮花の中を電流が走り、曇っていた意識が晴れ渡った。


「いっ……!?」


 同時に壊れた手の痛みが襲い掛かって来たが、死ぬよりはマシだろう。


「とりあえず、これでも飲んでな」


 さらに、白衣の少女――――――デカデカと「りお」と書かれたブルマーの体操着に、黄×黒という警告色のハイソックスと真っ赤なヒールを履き、その上から白衣を纏っている、妙ちくりんな格好の少女が、懐から取り出した、奇妙な小瓶に入った謎過ぎる液体が注がれると、あっという間に治癒してしまった。これで大丈夫だ、問題ない。


「……あ、あなたは?」

「私か? 私は香理かり 里桜りお。屋上住まいのマッドサイエンティストさ」

「それってどういう……」


 しかし、詳しい話を聞く間も無く、事態は急変する。


《邪魔をするなぁあああああああっ!》


 眼下に咲き誇る桜がザワザワと蠢き、唸り声を上げ始めたのだ。そこは弥生を含む多くの生徒が叩き落ちた死溜りで、無数の骨や皮を蓄えたゲル状の生物がドバドバと溢れてくる。


『カァアアアアアアアアアアアアッ!』


 そして、それらが整理整頓され、顔の無い継ぎ接ぎだらけの死体になったかと思うと、壁に爪を立てながら、こちらへ向かってよじ登って来る。それはまさしく学校の怪談に出て来るホラーな一場面そのもので、蓮花は声も上げられずに腰を抜かした。


「うわー、気色悪っ! おい、ありゃ何だ、説子?」


 だが、里桜は気持ち悪がりこそすれ、逃げる気配は微塵も見せず、左隣の虚空に話し掛けるばかり。


「あれは「水霊みずち」。「水神みずがみ」とも呼ばれる、液体状の妖怪さ」


 否、虚空などではない。そこには闇色のセーラー服を着た、不健康そうな別の少女――――――天道てんどう 説子せつこがいて、吐き捨てるように呟いた。

 「水霊」とは、その名の通り水……というか淡水域に潜む霊的な存在を差し、竜や蛇のような姿から全くの無形であるなど伝承も様々で、まさしく流水のように変幻自在な特徴を有する怪異である。

 実際は“それっぽいモノ”の総称であり、同じ水霊なまえでも、正体はまるで違ったりするのだが。

 今回現れたモノは、水に化けて獲物を襲うタイプの、所謂“妖怪”の類。神使としての「みずち」とはまた別なので、その辺は留意して貰いたい。



◆『分類及び種族名称:液体超獣=水霊ミズチ

◆『弱点:不明』



「……ちなみに、あの桜はどっかの御神体だった木を枝継ぎした物、らしいぞ」

「へー。つまり、あの木に“吸い上げられてた”って事?」

「そういうこった」


 とどのつまり、そういう事だ。

 遥か昔、この辺一帯を餌場にしていた水霊が、何処ぞの陰陽師が持ち込んだ御神木の分身に吸い上げられる形で封印されていたとか、そんな感じだろう。

 それが現代に弥生の生き血が染み込む事で蘇り、活動を再開した。そんな流れだったに違いない。水だけに。その辺りは「本人」に聞いてみないと分からないが、実によくありそうな怪談話である。


「まぁ、水は水でも、見た感じゾルって言うよりDNタイプのゲルだし、“ゾルとゲルを自在に変えられる、半透明な細胞を持った高等生物スライム”って所かね? ……なら、火には弱いよなぁ?」


 だが、どんなに常識外れな特徴を有していても、水霊は生き物だ。水のように透明な姿をしていても、それは“フリ”に過ぎない。呼吸もすれば、眠りもするし、きちんと細胞もある。

 だから、火を付ければ燃えてしまう。


「なら火葬してやるか。そーれ、汚物は消毒だ」

『ぎゃあああああああああああああああああ!』


 と、説子が“口から吐いた炎”に晒された水霊が、幾人もの声が混じり合った断末魔を上げて焼死した。死体はすっかり消し炭となり、射線上にあった枝垂れ桜もついでのようにバチバチと燃え上がる。きっっったねぇ花火だ。

 水霊の居た痕跡は、こうして土台ごと消え去ってしまったのである。


「あ、あなたたちは一体――――――」


 と、我に返った蓮花が話を聞こうとするも、二人の姿はそこには無く。

 全てが未消化のまま、水霊事件は幕を閉じた。


 ◆◆◆◆◆◆


 それからそれから。

 人が死ななくなり、ついでに言えば不謹慎な阿保共もいなくなった事により、二年三組は落ち着きを取り戻していた。

 喉元過ぎれば何とやら。熱に浮かされていた峠高校も、一度事件が沈静化すれば、誰も何も気にしなくなっていた。

 その代わり、ある噂が今まで以上に取り立たされていた。


“学校の屋上に何か居る”

“何時もは会えないが、奇怪な事に悩まされた時に、忽然と現れる”

“頼み事をしたいのなら、「コトリバコ」に手紙を出せ”

“そうすれば、そいつらはやって来る”

“その後、どうなるかは知らない”


 「屋上のリオ」「闇色のセツコ」などと呼称される、その摩訶不思議な二人組は、怪異に巻き込まれた者の前のみ現れる「コトリバコ」という木枠のポストに手紙を入れるとやって来て、どんな化け物が相手だろうと退治してくれるという。

 実に荒唐無稽で意味不明な噂話であるが、実際に会ったという者や、悩みが解決したという者もおり、“集団自殺事件”に代わる暇潰しとして、校内に蔓延していた。

 しかし、一部の者は知っている。それが噂などではなく、本当の事であると。化け物はいるし、それ以上もいると。

 蓮花もまた、その一人。

 だからこそ、一見興味なさそうに聞き流し、実際は興味津々に聞き耳を立てている。


(結局、アレは何だったんだろう……?)


 化け物は居た。その焼け跡はもう無いが、確かに存在していた。噂のセツコ曰く「水みたいな姿の妖怪」らしいが、とっくに消え失せて久しい。

 今では、あの時のアレは全て夢だったんじゃないかと考える事もあるが、あの悍ましい光景と味わった痛みと恐怖は本物だった。

 蓮花は今でも思い悩む。

 弥生は自分の事をどう思っていたのか。彼女とは本当に親友だったのか。自分がそう思っていただけで、与り知らぬ所で恨みを買っていたのか。だから最後の最後に自分を狙って来たのか。はたまた弥生は一切無関係で、単なる偶然だったのか。

 分からない。何もかも。

 だが、一つだけ分かっている事がある。

 それは、屋上のリオと闇色のセツコ――――――もとい、香理 里桜と天道 説子は、確かに存在していて、自分は運良く救われた、という事。


(助かっただけ良かった……のかしら?)


 そう、命があるだけ運が良い。それ以上の何があるというのか。

 結局、何のかんの言っても、自分の命が……我が身が一番可愛いのだから。

 そうだ、もう悩むのは止めよう。弥生はもういないし、自分は今を生きている。過ぎた事は忘れて、精一杯今を生きよう。それが亡き者に対する、最大の手向けであろうから。

 蓮花はそう自分を納得させ、一連の事件を忘れる事にした。単なる言い訳と謗られようが、知った事か。一度殺され掛けてみればいいのだ。そうすれば分かる。


「大丈夫かしら?」


 と、クラスメイトの一人が、心配そうに声を掛けてきた。名前もうろ覚えな彼女だが、本当に今更である。


「だいじょうぶ」

「そうは見えないけど?」

「ほうっておいて」


 もういい、誰も構うな、話し掛けるな。皆みんな、大嫌いだ。死んでしまえ。


「はぁ……」


 それにしても、


「……喉、渇いたなぁ」




 ――――――その日を境に、蓮花は姿を消した。

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