死を選べない男

そうざ

A Man who can't Choose Death

 微かな刺激があった。それは線状に伸び、俺の右頬から鼻先を通って左頬へと走り、皮膚をひりひりとさせている。薄いカーテンの隙間から穏やかな午後の陽光が差し込んでいる――そんな想像が二度寝の最中のような頭に瞬いた。

 恐る恐る瞼を開く。幾多のダクトが交差する天井と、周囲には俺を見守るように四角い機器が取り囲んでいる。

「一命を取り留めた気分はどうかね?」

 不意に白衣の男が俺を覗き込んだ。その周りに、同じく白衣を着た人間達が慇懃な様子で控えている。その様子から、俺は初めて病院特有の臭いが鼻腔を擽っている事に気付いた。

 医師がペンライトを近付けると、眼球の裏側を小突かれたような鈍い痛みがじわっと広がった。さっきの刺激は陽射しではなかったようだ。

「最先端医療と、我々医師団の懸命な努力、君の生還を祈願した数多あまたの人達、そして神のご加護に感謝し給え」

 そう言って、医師は柔らかな笑みを湛えた。

 すると、背後の誰かが間髪を入れずに言葉を継いだ。

「民主主義にも!」

 一同に笑いが起きた。


 記憶は、古いフィルムのように細かなコマに分断され、退色している。

 罵声と嬌声との化かし合い、人々の思い上がりが狂瀾する街区を擦り抜けて行く。

 夏の熱波と湿り気と、何かが俺を突き動かしていた。疑念も、罪悪も、逡巡も、羞恥もなかった。その駆動する力を一言に訳するならば『正義』だろう。

 突然、始まった鬼ごっこ。否応なしに参加者になった人間共。俺の形相は、鬼のそれではない。破顔だったろう。

 流石に息が上がった頃、誰かが俺に呼び掛けた。揃いの服と権力とを笠に着た奴等だった。

 俺には使命がある。お前達の職業的倫理観とは次元が違う。それでもゲームに参加したければ、すれば良い。

 ビルの谷間に続け様に銃声が響いた。 

 ほぼ同時に腿が熱くなり、俺は舗道の硬さと夏の太陽を知った。俺を生け捕りにしたかったのか、射撃の腕が三流だったのか、急所を外したようだった。

 残念ながらもう動けそうにない。

 己の人生に見切りを付けた俺は、喉元にあてがった血染めの刃物を刺し込んだ。


 ――それなのに、こうして助かった。否、助けられてしまった、と言うべきなのだろう。


「脳への酸素供給が滞ったからね、後遺症は残ったが、意識はしっかりしているだろう?」

 そう言われてやっと気が付いた。首から下の感覚がない。指一本、真面まともに動かせなかった。俺は、自らの命を自由に出来ない現実を悟った。

 医師は、俺に顔を近付けて囁いた。

「治療費の心配は無用だ。君の命を救った私達は充分な名声を得られたし、病院の良い宣伝にもなったからね」

 俺の眼前に号外が広げられた。『医師団の偉業』『奇跡的生還』『快挙に歓喜する民衆』等の文言が躍っている。

 一様に笑みを浮かべた看護士達が寄ってたかって俺の身体を抱え上げ、車椅子に乗せた。何かが始まる気配に、俺は苦い唾を呑み込んだ。


 長く冷たい廊下を直進し、突き当りの両扉が全開された。

 そこには残暑の気配と、俺が自らの命をしても避けたかった現実が在った。

 喝采のような、悲鳴のような、得も言われぬ声が熱風になって降り注ぐ。明滅するフラッシュの合間から、無数のテレビカメラや携帯カメラが俺を狙っている。あのレンズの向こうで、ショーの始まりを心待ちにしていた輩が舌舐めずりをしているのだ。

 罵声や怒声に混じり、何かが飛んで来た。生卵やパイだった。警官共は立ち位置を崩さない。制服に汚れが飛び散る事を気にするだけだ。

 一思いに俺の眉間を打ち抜けよ、と願ったが、存分に愉しまなければショーではない、と言わんばかりに民衆は一線を越えない。不気味な程、身の程をわきまえている。

 俺は覚悟を決めた。

 今日の主役は俺なのだ。

 主役には主役に相応しい器量うつわがある。

退け退けぇ、無差別殺人鬼様のお通りだっ! 逃げも隠れもしねぇ! 公開処刑場で待ってろぉい!」

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