私は最後にあなたの幸せを願う

今川みらい

第1話はじまり

 決して報われる事のない、はかない恋だった。

 それは分かっていたけれど、あなたに惹かれていくことを、私は止めることが出来なかった。


 ただ、そばにいるだけで幸せだった。


 あなたの事が何よりも大切だった。


 だから、私は最後にあなたの幸せを願う。



 ***



「エアリスの面倒を見てやって欲しい」


 父親であるローレル侯爵に、そう言われた女は、少し戸惑ったような顔で俺を見た。


 俺の向かい側に座っているその女は、ダークブロンドの髪を後ろで一つに束ね、分厚いレンズの眼鏡をかけた、恐ろしく地味な女だった。


「エヴェスト山の山奧の小屋にいたんだ。何か事情があるらしい」


 俺は山で一人でいた所を、見ず知らずのローレル侯爵に拾われ、ベルレアン王国にあるこの侯爵邸に連れて来られたのだった。


 俺は侯爵邸の応接室に通され、ソファに座っている。


 俺の隣に座るローレル侯爵は、短く刈り上げられた、白髪混じりのダークブロンドの髪に、落ち着いた深碧色の瞳をしていた。

 その顔には、貴族らしくない無精髭を生やしてる。


「初めましてエアリス。私はカリーナ・ローレルよ。侯爵家の一人娘なの。これからよろしくね」


 向かい側に座っている女が、微笑みを浮かべながら言った。


 知ってるよ。と、俺は心の中で言った。

 隣にいるローレル侯爵が、ここに着く間にペラペラとあんたの事を話していたからね。


 ローレル侯爵家の一人娘で、25歳の侯爵令嬢でありながら、未だに独身。

 旅が趣味で、ほとんど家にいない父親に代わって領地経営をしている、しっかり者の娘。


 ローレル侯爵はそう言っていた。


 本来、貴族令嬢の賞味期限は短く、子どものうちに婚約者が決まり、成人になる18歳と同時に結婚するのが当たり前だ。

 25歳の成人女性となれば、結婚して子どもの1人や2人いてもおかしくない。


 完璧に行き遅れている、その地味な女を俺は再度観察した。


 服装も侯爵令嬢にしては地味で、飾り気も一切なかった。

 穏やかで、落ち着いた雰囲気を纏い、いきなり知らない男を連れて来た父親を、非難する事もしなかった。


 その女は先ほどから、ニコニコしながらずっとこちらを見つめていた。


「エアリス。私はまた明日から旅に出て、家をあけるからカリーナの言うことを良く聞くんだよ」

「分かりました」


 ローレル侯爵にそう言われ、素直に返事をしたものの、俺は子どもじゃないと、突っ込みたくなる言い方だった。


 そしてローレル侯爵は「風呂に入って来るよ」と言って、出て行ってしまった。


「カリーナ様!良いのですか?こんな良く分からない奴を侯爵家で引き取るなんて。もし、何かあったらどうするのです?」


 ローレル侯爵が部屋から出て行った途端、女の後ろに立っていた、護衛騎士らしき男が息巻いた。


 その男は、くせのあるライトブラウンの髪に、夕日のような明るい橙色の瞳をもつ、日に焼けた肌をした精悍な顔つきの男だった。


「大丈夫よ。悪い人には見えないもの。えーと、エアリスはなぜ一人でエヴェスト山にいたの?」

「家出したから」

「…そうなの。ご両親は心配してないかしら?」

「俺の事なんて、誰も心配してないよ」


 あの人たちにとって、俺はどうでもいい存在だ。


「そう…じゃあ、エアリスは何が好きなの?」

「は?」

「せっかく一緒に暮らすのなら、お互いの事をちゃんと知っておいた方がいいと思うの」


 女は眼鏡越しに、俺をじっと見つめてきた。

 その眼鏡の奥の瞳は、灰色なのか、くすんだ薄紫なのか、良く分からない色をしていた。


「好きなのは寝ることかな」


 俺は至って当たり障りのない答えを言った。

 それに対し、女も「私も寝るの好きよ」と言ってニコッと笑った。


「じゃあさ、あんたは25歳なのに、なんで結婚しないの?」

「貴様!カリーナ様になんて口を利くんだ!」


 護衛騎士の男は怒鳴ると、素早く動いて俺の胸ぐらを掴み、橙色の瞳をギラつかせながら睨んできた。


 何て短気な奴なんだ。

 俺はそこの女が言ってたように、お互いの事を知ろうとして、聞いただけなんだけど…


「アル止めて。エアリスがびっくりしてるじゃない」


 女は慌てて護衛騎士の腕を掴んだ。

 護衛騎士は不服そうに、俺から手を引いた。


「ごめんなさい。エアリス。彼は、私の護衛騎士のアルフレート・イグレシアよ」


 そう紹介された護衛騎士は、今でも俺を不機嫌な顔で睨みつけていた。


「私が結婚しないのはね、侯爵家と領地が大好きだから、ここから出たくないし、結婚にもあまり魅力を感じないの」


 そう言うと、女は優雅な動作でお茶を飲んだ。


「えっと、エアリスは読み書きや、計算はできる?」

「出来るけど」


 女は嬉しそうに、顔をぱっと明るくした。


「そうなのね。じゃあ、明日から私の執務を手伝ってちょうだい」


 女は「助かるわ」と言って、一人で喜んでいる。

 俺は手伝うなんて、一言も言ってないんだけどね。


「あと、エアリスは畑仕事した事はある?」

「畑?」


 やった事あるわけないだろ、と言いたい。


「侯爵家で使う野菜やハーブを、色々と畑で栽培しているの。エアリスが手伝ってくれると嬉しいわ」


 女は手を合わせながら、嬉しそうに言った。


 いや、だから手伝うなんて俺は一言も言ってないんだけど?

 俺は非難する目で女を見たら、すぐ向かい側に立っている護衛騎士に、殺気だった眼で睨まれた。


「明日からは忙しくなるから、今日はゆっくり休んでね」


 そう言って女はにっこりと微笑んだ。



 ***



「エアリス。いつまで寝てるんだ。起きろ」


 翌朝、客室のベッドで寝ていた俺は、護衛騎士のアルフレートに叩き起こされた。


「もうちょっと寝かせて…」


 俺はアルフレートに剥がされた毛布をたぐり寄せた。


「お前、斬られたいのか?」


 仏頂面でそう言うと、アルフレートは腰に差した剣を抜こうとした。


「うわっ、やめろよ!起きるから!」


 俺は焦って飛び起きた。


 なんなんだこいつは。

 こんな奴がいたら、おちおち寝てもいられない。


「さっさと支度をして、食堂に来い」


 そう言い捨てると、アルフレートは部屋の窓のカーテンをサッと開けて出て行った。


 朝の眩しい日差しが、一気に部屋に差し込んでくる。

 外は快晴だった。





 俺は支度を済ませると、食堂に向かった。


「エアリス。おはよう。良く眠れた?」


 食堂には既にカリーナが座っていて、食事をとっていた。

 その大きなテーブルには、使用人達も一緒に席について食事をしている。

 俺はカリーナの隣の席に案内された。


「ここでは、なるべくみんなで食事をするのよ。その方が効率的だし、みんなで食べた方が楽しいでしょう?」


 カリーナは笑顔でそう言った。


 俺は一人で気楽に食べる方が好きだが、そんな事言えた立場でもないので、黙って食事を食べた。


「エアリスは好き嫌いとかあるの?」


 昨日から質問ばっかりだ。

 食事くらい静かに食べさせて欲しい。


「特にないけど」

「そう。良かったわ。このスープにはね、ここの領地でとれる、フロランと言う珍しい野菜を使っているの。香りが良いから、スープにとても合うのよ」


 そう言って、カリーナはその後も領地でとれる食材について、ずっと一人でしゃべっていた。


 そして、俺の食事が済んだ頃「じゃあ、畑に行きましょうか」と言って、カリーナは立ち上がった。

 良く見たら、カリーナはズボンを履いていた。


「えっ?あんたも畑に行くの?」


 俺は驚いて思わず問いかけた。

 畑仕事をする侯爵令嬢なんて、聞いた事がない。


「そうよ。私は時間がある時は、なるべく畑に出るの。身体を動かした方が気持ちが良いでしょう」

「いや…俺は身体を動かすのは面倒くさいんだけど」

「エアリス。あなたはまだ若いんだから、今のうちに身体を鍛えないと、丈夫な身体になれないわよ」


 カリーナは母親のような物言いで言うと「ほら、早く立って」と言って、無理やり椅子を後ろに引いた。

 俺は溜め息を吐いて立ち上がると、カリーナの後について行った。





 侯爵邸から少し離れた場所にある広い畑は、種類ごとに綺麗に区画整理されていた。

 そこに、トマトやきゅうりなどの知っている野菜から、俺が全く知らない野菜まで、朝日を浴びて色鮮やかに光っていた。


「ノア。エアリスを連れて来たわ」


 カリーナがノアと呼んだ相手は、まだ10歳くらいの小柄な少年だった。

 くせのあるライトブラウンの髪に、明かるい橙色の瞳…


 ――あれ?

 誰かに似ているような…


「初めまして。エアリスさん。僕はノア・イグレシアです。ここの畑の管理をしています。アルフレート兄さんの弟です」


 アルフレートには、こんな歳の離れた弟がいたのかと、俺は少し驚いた。


「はい、エアリス。これどうぞ」


 カリーナはそう言って、長靴と帽子を俺に渡した。

 いつの間に、カリーナもそれらを身につけていた。


「ダサいね」


 侯爵令嬢には、とても見えないその姿に、俺は思わず言ってしまった。


「ダサいも何もないわ。この格好が一番良いんだから」


 カリーナは気を悪くした素振りもなく、真面目に答えた。

 俺も仕方なく、素晴らしくダサいそれらを身につけた。


「ノア、今日は何をするの?」

「玉ねぎの種を撒くために、畑を耕しましょう」


 そう言って少年は鍬を差し出した。


「なんだこれ?」


 俺が初めて見る道具だった。


「鍬を知らないの?エアリスってもしかして、箱入り息子だった?」


 カリーナは驚いたように問いかけた。


 箱入り息子ってなんだよ。

 まあ、あながち間違ってないけど。


 俺は初めて持つ鍬を、適当に振り上げてみた。


「きゃあっ!危ないわよ!エアリス!」


 いつもは冷静なカリーナの、慌てる姿が新鮮だった。

 なんだ。面白い反応も出来るじゃないか。


「エアリスさん。鍬はこうやって持って、周りに人が居ないか確認してから振り上げて、後は力は入れずに鍬の重さで振り下ろす感じで…」


 ノアが真面目に、あれこれと細かく教えてくれる。


「じゃあ、実際にやってみましょうか」


 ノアはそう言うと、耕す予定の畑まで移動した。


「これ、全部やるの?」


 良く分からないが、耕す面積が広くないか?


「そうよ。さっさと終わらせましょう」


 カリーナは気合いを入れて、腕まくりをした。

 俺は小さくため息をつくと、教えられた通りに鍬を振り上げた。


 ザクッ。

 良い感じに土が…


「うおわぁぁっ!」


 俺は土の中から出てきたものに飛び上がった。


「エアリス?!どうしたの?」


 カリーナがびっくりした様子で走って来た。


「ミ、ミミズが…」

「へ?ミミズ?土を耕したら、ミミズなんていくらでも出てくるわよ」


 カリーナは拍子抜けしたようにそう言うと「エアリスはミミズが嫌いなのね」と可笑しそうに笑った。


 笑うことないだろ。

 俺は本当に苦手なんだから。

 見ただけで、鳥肌が立つくらいなのに。


「ミミズって、国によっては貴重なたんぱく源として食べられてるみたいよ」


 カリーナは真面目な顔でそう言った。


 ここで無駄な博識を披露しないで欲しい。

 本当に気持ち悪くなるから。


 そして俺は、びくびくしながら鍬を土に振り下ろした。

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私は最後にあなたの幸せを願う 今川みらい @imagawa-mirai

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