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 秒針の音が耳に障るので、置時計の電池は抜いてしまった。スマホはかばんの中に入れっぱなしにしてある。暗幕カーテンで窓を閉め切っているため陽の光が入ってくることは一切なく、私の部屋からは時間という概念がなくなっていた。私と外の世界を繋ぐのは、部屋に食事を持ってきてくれる両親と、一日に一回鳴るマネージャーからの電話だけだ。

 私と藤吉くんのツーショット写真が流出したあの日から一週間くらい経ったと思うけど、正確なところはわからない。あの後私は事務所に向かい、待ち構えていたマネージャーから質問責めを受けた――と言っても、私の愚行を叱責するというより、単純に事実を確認されただけ。杓子定規に本当のことを喋った私はそのあと、無期限の自宅謹慎を言い渡された。

「エゴサだけは絶対にするなよ。メンバーにはしばらく連絡を取らないように言っておくから」

 わざわざ言われなくとも、私は怖くてネットの検索トップ画面すら開くことができなかった。世間からのバッシングで心がボロボロになっていく同僚たちの姿を、何人も目にしていたから。

 アコだけはこっそりメッセージをくれた。性格的に彼女がマネージャーの言いつけを守るとも思えないので、独断の行動だろう。

『うちはな、アンタがしたことに関して、同情も軽蔑も別にせぇへん。ただな、これだけは覚えておき。うちはどんなことがあろうがアンタの味方や。元気出たら、連絡ちょーだいっ』

 安寧と罪悪感が、胸の中でいっしょくたに広がった。情けないと思う反面どうすることもできない自分がはがゆかった。ありがとう、ゴメンね。心の中で漏らした言葉を直接伝える勇気は湧かなかった。私は彼女に返事を返せていない。

 とにかく私はベッドの上で身を縮こませていた。まどろんでいるような状態がずっと続き、自分が寝ているのか起きているのかもよくわからなくなっている。

 袖口から覗き見える切り傷だらけの左腕をジッと見つめていると、ムラムラと衝動がせりあがった。時折、呼吸がおぼつかなくなり、私はそのたびに爪を立ててギュッと手首におしこんでいた。

 ……ちょっと刃先をあてるくらいなら、いいかな――

 半覚醒状態でフラリと立ち上がった私は、机の引き出しからハサミを取り出し、椅子に腰をかける。刃が開いた状態でハサミの柄の部分を持ち、ゆっくりと左腕に近づけ――

「……あっ」

 ハッとなった私は思わず身を引いて、慌ててハサミを机の上に放り出した。そのまま椅子の上で膝を立てて、体育座りの恰好で顔をうずめる。

「何、やってんだよ。これじゃあ、昔の私と一緒じゃん――」

 限界だった。自分をずっと責めつづけていたせいか、自尊心などとうの昔に擦り切れてしまっている。私は今、私の存在価値を一つも見出せない。

「藤吉、くん――」

 私の自意識はギリギリのラインでリアルと繋がっている。

 私は藤吉くんに会いたかった。会って、確かめたいことがあった。

 メッセージアプリに言葉を打ち込み――しかし送信する前に全消去するのを繰り返している。

 あのSNSの投稿は本当に、彼が自分の意志で行ったものなのだろうか。

 私が思い上がっていただけで、藤吉くんは、私のことを想ってなどいなかったのだろうか。

 自分から彼を突き放しておいて、虫が良いのは百も承知だ。

 でも、それでも私は――


 ふいに、かばんの中からブーブーとスマホが震える音。……電話かな。

 今日のマネージャーからの定期連絡は済んでいる。一体誰だろう。もしかして――

 重い腰を上げ、かばんを開けてスマホを手に取り画面を覗き込むと、時刻は0時過ぎの深夜。そしてデジタル表示されたその名前は、私が想像した相手ではなかった。

 少し逡巡したのち、私は恐る恐る通話ボタンを指で押し込んで、「犬塚くん?」その人の名前を呼ぶ。

『おっ……よかった。出てくれた』

 デジタル信号の向こうにいる彼が、ホッと柔らかい声を漏らした。

『元気? ……なワケないか。用事ってワケじゃないんだけど、心配でさ』

「うん……ありがと」

 家族やマネージャー以外と会話をするのは久しぶりだ。覇気のない声で返事を返すと、

『……実は今、なるみもの家のすぐ近くにいるんだよね』

「えっ?」犬塚くんの発言に私は声を詰まらせる。

「……なんで私の家、知っているの?」

『それは、まぁ。ちょっとした魔法を使って』

 子を担ぐ両親みたいなコトを言い出す犬塚くんに、私の片眉が吊り上がるのは必然だった。しかし彼は補足説明をする気はないらしい。

『話しない? ……ちょっとだけ外、出れないかな?』

「ダメだよ。私、事務所に自宅謹慎を言いつけられてるんだ。今度また、別の男の子と一緒にいるところなんて見られたら――」

 尻すぼんでいく私の声に対して、しかし犬塚くんが、

『でも、ずっと家にいるのも、辛いだろ? ……頭、おかしくなっちゃわない?』

 その言葉に、私の心がグラリと揺らいだ。

 先ほどの自らの愚行が、脳にフラッシュバックする。

 ……確かにこのままだと、私は、私自身の身体をまた――

『今は夜中だし、帽子でも被ってればさすがにバレないって。ちょっとだけ息抜き……な?』

 幾ばくか悩んだ私だったが――やがてはぁっと嘆息して。

「……わかった。ちょっとだけね。着替えるから待ってて――」


 寝静まっている両親を起こさぬよう忍び足で廊下を抜け、恐る恐るマンション玄関の自動ドアをくぐると、いつもの爽やかな笑顔を浮かべる犬塚くんが私に手を振り、出迎えてくれた。私たちは誰もいない道路を並んで歩いて近くの公園へと向かう。秋虫の音と湿った風が私の五感をくすぐり、凝り固まった皮膚がたゆんでいく感覚があった。

 公園に到着すると犬塚くんは木造ベンチに私を座らせて、自分はフラッと近くの自動販売機へと向かう。軽快な衝突音が二つ遠くで鳴り、彼は両手に缶コーヒーを持ちながら再び私の元を訪れた。

「ホラ、これ。昼休みにいつも飲んでるやつ」

「あ、ありがと……」

 プシュッ。プルタブが軽快に弾かれる音と共に、トロリ溶けだすような甘味が私の喉奥に流し込まれる。はぁっと息を吐き出すと、夜の景色が少しだけクリアになった。

「おいしい。一週間しか経ってないのに、なんか久しぶりだわこの味。生き返った気分」

「ハハッ……百二十円で命を救えるなら、安いもんだよ」

 軽口が私の口から転がり落ちて、頬が自然に綻んだ。

「ひどい顔してるな。寝れてないのか?」

「まぁ、ね。睡眠薬使って無理やりって感じ。ハハッ。昼夜逆転して吸血鬼になった気分」

「そっ、か――」

 私の自虐に対して、犬塚くんは釣られて笑うことも大袈裟な同情もしない。適度な距離感を保とうとする彼らしいコミュニケーションが今は無性にありがたかった。その後しばらく、犬塚くんは学校で起こった出来事などを私に話してくれた。あの事件には触れず、いつもの昼休みの雑談タイムと同じような調子で。

 緊張していた私の神経が次第に綻んでいった。少しの沈黙が間を縫ったタイミングで私は、「……あのさっ」意を決したように口を開いた。

 私が彼に目を向けると、「何?」犬塚くんもまた、私に視線を寄せていた。

「藤吉くん、元気してる?」

 犬塚くんはすぐに返事をしなかった。前屈みの姿勢になった彼が、虚空を見つめながら、

「アイツ、あの日から学校に来てないよ」

「えっ……?」

「表向きは、体調不良ってことになってるけど。……まぁ、あんなことがあった後じゃ、アイツも来づらいんだろう」

「そう……なんだ」

 私は土くれの地面に目を伏せながら、ジーンズの裾をぎゅうっと握りこむ。

「私……藤吉くんに、ひどいこと言っちゃった」

 ポツリポツリ。水たまりにしたたる小雨のように、私は言葉を紡いで、

「SNSの投稿。冷静になって考えてみるとやっぱり……藤吉くんがあんなことするとは思えない。なんか、ハメられた……みたいなこと言ってたし。それなのに、私――」

 そのまま静かに口を結んだ。その先を継ぐことが、なんだかできなかったから。

 やもすると右隣から、やけにハッキリとした口調で犬塚くんが、

「でも、それこそ、藤吉がその場ででっちあげた言い訳かもしれないだろ?」

「それは、そうかもしれないけど……」

「アイツさ、前にも似たような騒ぎ、起こしたことあるんだよね」

「えっ?」

 思わず私が顔をあげると、先ほどまで前方に目をやっていた犬塚くんが私に顔を向け、もの哀しそうな微笑を浮かべている。

「クラスの女子が告白しているところたまたま目撃したみたいで、それをアイツ、SNSに投稿してさ、ちょっとした問題になったんだ。その子ショック受けて、しばらく学校来れなくなっちゃって」

「そんな……藤吉くんがそんなこと」

「俺も信じられなかったよ。アイツ、あんまり愛想がいいタイプじゃないけど、そういう、人の気持ちを無下にするようなことは、しない奴だと思っていたから」

 犬塚くんがやるせないようにかぶりを振った。私は再び視線を落とし、考え込んでしまう。

 にわかには信じがたい事実だ。でも……私だってピエロを演じて、根暗な自分を必死に隠しているワケで。藤吉くんとて私に見せない裏の一面があってもおかしくはない。

 やっぱり、簡単に彼に心を許してしまった私が甘かったのだろうか――

「藤吉のこと、好きだったの?」

「……へっ?」

 核心をつくような犬塚くんの質問に、私は思わずお間抜けな声を漏らした。彼はというと、少し気まずそうにしながらポリポリと頬をかいている。

「いやだって……デートの誘い、受けたんだろ? 気のない相手にはそんなことしないだろうから」

 私は少しだけ逡巡して、でも、力強い発声でハッキリと。

「そう……だね。少なくとも嫌いではなかったよ」

 私たちの視線が交錯し、犬塚くんはいやに真剣な目つきを私に向けていた。そして、

「俺じゃ、ダメ?」

 その発言はあまりにも突飛で、呆気に取られた私はポカンと大口を上げながら沈黙してしまった。少したゆんだ彼の黒目が私の顔面をまっすぐに捉えており、耐えがたくなった私は逃げるように彼から視線を逸らした。

「あ……アハハッ、私が落ち込んでるからって、変な冗談で気、使わなくてもいいよ」

「冗談なんかじゃないよ」

 でも、犬塚くんは私を逃がしてくれない。恐々と彼を横目で捉えると、大きく綺麗な瞳に私は吸い込まれそうになってしまう。

「俺、なるみものこと好きなんだ。転校してからずっと一緒にいて……どんどんお前を、好きになっている」

「や、やめてよ。犬塚くん。私の過去を知らないからそんなこと言えるんだよ。私の本性知ったら、きっと幻滅する――」

「中学の時、いじめられてたこと?」

 虚を突かれ、私は顔の下半分をひきつらせたまま固まってしまった。

 その表情のままか細い声を、かすれるように、

「……なんで、知っているの?」

 今度は犬塚くんの方が私から視線を逸らし、斜め下の地面を見つめながらボソボソと覇気のない声を漏らし始めた。

「……実はさ。なるみもと同じ中学だった奴が俺のツレにいて、色々聞いたんだ。なるみもはそのころも男から大人気で、でも反面、女子からの反感もすごくて、嫌がらせみたいなことされてたって噂、あったって――」

 ばつの悪そうに目を伏せていた犬塚くんが顔をあげる。

 私たちの視線が今ひとたび交錯した。

「俺はそのことを知って、ますますなるみものことを好きになった。いじめにもめげずに、立派なアイドル活動をやってるなるみもを、さ」

「……私なんて、そんな立派なモンじゃ、ないよ」

 罪悪感に耐えられなくなった私がしおれた声を吐露した。

 そのままボタボタと、私の本音が胃の奥から漏れ出ていく。

「アイドルも、学校生活も、全部中途半端だよ。みんなから見えている私なんて、仮面を被った嘘っぱちの姿、本当の私じゃないんだ。……中学の時だって、私のことをいじめる子たちみんな、不幸になればいいって思ってたし――」

「そんなの、当たり前だと思うぞ」

「――えっ?」

 街灯に照らされた彼の表情がおぼろげに揺らぐ。幻想世界に迷い込んだような心地に、張りつめた私の神経がグニャリとたゆんでいった。

「素の自分でずっと生きてる奴なんて、一人もいないよ。みんなどこかで嘘の自分を演じている。嫌なことされた時、ソイツに対して同じ目に遭えばいいって思うのなんて、普通だと思うよ。むしろ――」

 犬塚くんが一介の女子高生――鳴海美百紗の顔面に張り付いたペルソナを、そっとはがそうとする。私はそれをただ受け入れていた。母親に全てを委ねる、赤子のように。

「辛い思いをしているのにそれを表に出さず、みんなの前で笑顔を見せているなるみもは、偉いよ。少なくとも俺はそう思う」

 ……ダメ、だ――

 心が決壊しそうだった。私は思わず口元を掌で覆った。そのまま、嗚咽をかみ殺して、

「……こんな時にやめてよ。そんな優しい言葉、かけないで」

「――なんで? 泣きたい時は、泣いていいんだよ。誰もなるみもを責めたりなんかしない」 

 一度あふれ出た涙はもう止めることができない。私はそのまま、情けない泣き声を漏らしはじめた。犬塚くんの手がそっと私の肩に触れる。私は安息の地に導かれるがごとく、彼の胸に顔を埋めてまた泣いた。

「俺だったらさ。なるみものその腕の傷も含めて、全部受け入れてあげるから」

「うっ……ううっ――」

 私は自制心を手放していた。十七年間蓋をしつづけた感情のゴミ箱を、盛大にひっくり返していた。ワンワン、ワンワンと、すべてを忘れて泣いていた。

 アイドルとか、藤吉くんとか……もう、どうでもいいや。

 今は犬塚くんの胸の中で、ただ泣いていたい――

 ……。

 ……あれ。

 ――ちょっと、まって。


 一抹の疑念が脳裏をかすめ、投げ出された自制心がギリギリで引き留められる。

 ムクリと身体を起こした私は滲んだ瞳のまま、ボーッとした顔つきで犬塚くんを眺めてみた。彼もまたキョトンと、不思議そうな顔を私に向けている。

「なるみも……どうか、した?」

 得も言われぬ不安感が私を襲う。

 身体が底冷えするような違和感を覚えた私は、それをそのまま、

「犬塚くん、なんで私の腕の傷のこと、知っているの?」

 犬塚くんの顔面が硬直する。

 彼のこめかみのあたりがピクリ、少しだけ動いたのを私は見逃さなかった。

「……いやだからそのことも、中学の時のツレに聞いて――」

「ウソ」

 自分でも引くくらい、冷淡な声。

「私の腕にリスカの跡があるのを知ってるのは、両親とマネージャーと……藤吉くん、だけ。学校ではバレないように夏でも冬服だったし、体育の時ですら長袖のシャツを中にずっと着ていたから」

 犬塚くんは押し黙っている。彼の沈黙が灰色の疑惑をゆっくりと漆黒に染め上げていった。私は追及の手を緩めない。

「……藤吉くん、言ってたんだよね。スマホに盗聴アプリ入れられてたって。……もしかして、犬塚くん――」

「あ~あ」

 犬塚くんがのん気な声をあげる。

 先ほどまでの優しい口調とは一転、いたずらに失敗した子どものような声。

 私はゾッとした。

 彼は前屈みの姿勢になり、顎に手をのせながら嘆息する。ひどく、つまらなそうな表情で、

「……なんでわざわざハズレルート引いちゃうのかなぁ……。ちょっと、痛い目見てもらうことになっちゃうね。これじゃあ」

 恐怖が皮膚の表面をなぞっていった。犬塚くんの台詞の意味が理解できない。わからないという事実が、私が覚えた不安感に加速度をかけていった。

「いぬ、づか……くん? 何、言って――」

 私の発声は遮られる。ふいに伸びた彼の掌が、私の口元を覆ったからだ。

 犬塚くんはいつのまにか湿った布きれを右手に隠し持っていた。ツン――と強いアルコールのような刺激臭が私の鼻を刺す。条件反射で抵抗を試みた私もまた両手で彼の腕を引きはがそうとしていて――しかし、遠慮のない男子の力に私のひ弱な腕力が勝るはずもなかった。

 人工的な香りが口内に広がり、呼吸もままらないまま私がむせ返る。涙で滲んだ瞳が捉えた犬塚くんの表情、嫌らしく口角を吊り上げている彼は、しかし目元が笑っていなかった。

 やがて頭がボーッと、思考がままならなくなる。四足に力を入れることすらできなくなった私はだらんと脱力してしまい、気づいたら意識さえ手放していた。

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