3-4


 家に帰ってからは、何かをする気力が沸かなかった。乾ききっていない衣服でバイクを走らせたせいか、妙に身体が冷えている。日曜の昼間だというのに僕は追い炊きボタンをポチッと押して、しばらく待ってから浴室に向かった。

 三十九度のお湯に浸かると、凝り固まった神経がほぐれていく感覚があった。僕はこの段になってようやく平静を取り戻し、今日のできごとを振り返る余裕を得る。

 僕は告白に失敗した。自分の決意に、目を背けてしまった。……それだけじゃあない。

 僕は、全てをさらけ出してくれたなるみもに対して、何も言うことができなかったんだ。

 ――藤吉くんが見ている私って、藤吉くんの中での私……でしか、ないんじゃないかな――

 あのとき僕が、彼女の台詞を否定することができたら、何かが変わったのだろうか。

 ……否定? そもそも彼女の言葉は、間違っているのか?

 僕は彼女が負っている大きな心の傷を、肩代わりする覚悟を持っているのだろうか?

 結局、僕が恋をしていたのは、僕が勝手に作り出したマイペースで無邪気な『なるみも像』に過ぎないのか?


 ゾッ――と寒気を覚えた。浴槽に浸かっているというのに全身から鳥肌が立ち、思わず僕はバシャリと顔面に湯を浴びせる。

 ……そんなはずない。

 僕はなるみもが好きだ。僕はなるみもが好きだ。僕はなるみもが好きだ。僕は――

 ……だったら、だったらどうして――

「どうして僕はあの時、告白できなかったんだよ」

 やり切れなさがこみあがり、耐えがたくなった僕は水面を思い切り拳で叩く。暴れる感情を抑止することができず、そのまま髪の毛をぐしゃぐしゃに撫でまわした。

 ……クソッ、クソッ、クソッ……クソッ……!

 行き処のない怒りがただ空回りする。イレギュラーな感情を処理する術を僕は持たない。

 いっそこのまま消えてしまいたい。そんな懇願させ脳裏によぎった時――

 視界に違和感がよぎった。僕が浸かる湯舟の前方にブクブクとあぶくが浮かび上がっている。

 そしてザバリ、大仰な音と共に僕の眼前、湯舟から『何か』が飛び出した。

 ――もとい、よく見知った『彼女』が水面から顔を出した。

 僕は唖然としている。あまりのできごとに声を失っている。そして、

「……さっきの台詞、どういうことだ? 藤吉玲希」

 浴槽の中。真っ黒なローブを着たまま立ち上がったシレネが、全身から水滴をボタボタと垂らしながら、素っ裸の僕を睨み下ろす。

「だっ……やっ……どっ――」

 ようやく声を取り戻した僕は、震えた手で彼女の顔面を指さした。

「どっ……どっから現れたんだよお前!? ここ、風呂場だぞっ!?」

「そんなことはどうでもいい。それより質問に答えろ」

 自身の奇行を一切省みないシレネは相変わらず淡々とした口調で、しかしその声はすこし怒気を帯びているように聞こえた。僕は彼女の気迫に気圧され、思わず視線を逸らして口をつぐむ。質問を返さない僕に彼女は声を重ねて、

「鳴海美百紗に告白しなかったのか?」

 心臓が握りこまれるような引け目を覚えた僕は顔をあげることができず――僕の沈黙にシレネは全てを察したらしい。この世の理、全てに嫌気するような溜息を彼女が漏らして、

「……お前、何、考えているんだ? この期に及んで、何をしり込みする必要がある?」

 やはり僕は返事を返さなかった。ただただ押し黙って、シレネの言葉を聞き流すばかり。

 いよいよしびれを切らしたのか、彼女が苛々しく語気を強めた。

「わかっているのか? お前が鳴海美百紗に想いを告げるチャンスなど、そうそうやってこない。お前は自らの愚行で、積み上げてきた努力を一瞬で無に帰したんだぞ? 自らの弱気が、誰にとっても最悪な未来を呼び起こすのだぞ? お前は――」

「うるさいっ!」

 感情の赴くまま、金切り声が口から飛び出した。僕はシレネの声を聞いていられなかった。その言葉が耳の中に入っていくのを、脳が明確に拒否したんだ。

「そんなの。僕が一番わかっている。……わかってるよッ!」

 目頭が熱く、まぶたの周りがジンジンと痺れる感覚を覚える。僕は両手で頭を抱えながら、力なくかぶりを振っていた。ギュッと目を瞑っている僕の頭上からシレネの声が降りる。

 いつも通り淡々と、そしてその口調には一切の色味が感じられない。

「藤吉玲希。私は何度でも言う。『やらない理由』を考える前に、『やらなかった時にどうなるか』を想像しろ。……自らの意志で行動しない奴は、誰を救うこともできんぞ」

 ふいに、彼女の気配を消える。

 恐る恐る僕が顔をあげると、目の前のシレネが忽然と姿を消していた。

 頭にやっていた腕を降ろすとチャポン、無自覚に歪む水面の音がエコーがかって、

 静寂すらも、僕を嘲っている気がした。

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