第11話

 菅沼すがぬまくんが大学に来ない。そればかりか、連絡も取れない。

 しろさんは毎日、菅沼くんのためにとお弁当を作っては持ってきたが、気づくと涙が出てくるようなことが度々あった。この研究室に来て、ようやく笑い方を思い出したようだったのに、無表情の城さんは学部時代の姿と重なった。

「城さん、大丈夫? 無理をしないで」

「先生? 菅沼くん、彼女のところじゃないかな。だって、ほら、これ」

 城さんが差し出したのは、献体の登録の書類だった。息を呑む。

「菅沼くんは、先生になら解剖されたいと思ったからこれを残していったんじゃないでしょうか」

 俯く城さんの足元を、涙が滴り落ちる。

「本当に、ふたりは恋人同士じゃなかったんですか?」

 僕は肯定も否定もできないでいる。

「菅沼くんは、ただ一方的に彼女に想いを募らせていた。解剖をして、たまたまキスをして、勝手に家を探し出して、遺品を持ち出して」

「それでも、菅沼くんは本当につきあっているのと同じだと思ったのならきっと」

 僕は首を振る。

「一緒にしないでくれ」

 菅沼くんの罵倒が思い出される。彼女が自ら死を選んだのは、僕のせいなのか。

「先生、お願いです。菅沼くんを迎えに行ってあげて下さい」

 城さんが強い瞳で見返す。

「冗談じゃない。城さんが行けばいい」

「私は」城さんがすぐさま目を逸らす。「菅沼くんの内面なんて、何も知らないから迎えに行く権利なんてないはずです」

 城さんが白衣の袖で、顔を拭く。「お願いします。先生しかいないんです」深々と頭を下げる。

「生きている人間の中で、菅沼くんが一番親しいのは先生だから」

 そう言われたならば、行くしかあるまい。気が進まないが、了承の意を伝える。


 *


 久方振りに、あの人の嫌っていた街を訪れる。

 相変わらず、この街は、良くも悪くもただそこに在った。しかし、よくよく考えてみると、日本という国において、「変わらない」ということは、とても難しいことである。この街でだけ過ごす分には、他と比較してうんざりすることもあろうが、その他から憧れの目で見られることもあろう。

 一浪してやっと合格した大学。僕は不満だらけだったが、さすがに二浪する気にもなれなかったし、お金もなかったしで、重苦しい感情を押し込めて、母とふたり、この地にやってきた。あの、初夏と言っても差し支えのない温度の中、桜並木は満開で僕は初めて桜に香りがあることを知った。あまり好きにはなれないと感じた。ただただ、真っ暗闇にいる心地がして、感情すらも麻痺しているのに、涙だけは一日中流れた。いっそのこと、死んでしまったらどんなにか楽だろうと思った。僕は確かに悪夢の中に生きていた。そんな中に、彼女が現れた。

 小学生なのに、制服を着ている。

 ただ、それだけのことが珍しくて、目がいった。僕の出身地にも私立や国立大附属の小学校はあることはあるが、市内には存在しなかったので実際に見たことがなかったのだ。それもあるが、制服姿の小学生は圧倒的に目立つ。中高生ならば普通に街に溶け込むところが、小学生の制服姿は黄色い帽子のように悪目立ちする。その制服のデザイン性の高い私立のものならなおさらだ。意識せずとも、自然に目で追ってしまう。

 そのうち、とても美しい少女がいることに気づく。古風なおかっぱ頭が似合っている。さすがに後を付回すようなことこそしなかったが、少女見たさに決まった時間に外を出歩くようになった。自分でも苦笑する。初めは、こちらの方言が耳に入るだけで憂鬱になったものだから、めったに外出なんてしなかったのにと。いつのまにか、涙は止まり少しずつではあるが、気持ちが上向いてきていた。一方で、中高、浪人時代と見続けてきた闘いにも似た悪夢の内容が変わってきていた。人間関係だとか、偏差値のことで悩んでいたことから、次第に少女が姿を現すようになったのだ。その内容は、少女が大人の女性に成長し、自分と交わるというものだった。これはまずいことだと自分でも自覚し始めた。ついには、夢を見ている最中だけではなく、日中にもその妄想が意識を支配するようになった。それこそ、四六時中、少女とのことだけを考えていた。とうとう、自分は朦朧してしまったのだと己をせせら笑う。ああ、それでも、この激情が止められない。犯罪者になってもいいとすら思える。僕は全てをかなぐり捨て、そして、少女に想いを告白した。

 どうせ変質者、痴漢と罵られるのが関の山であろうと思っていたところに、大人びた雰囲気にはとても似合わない間の抜けた返答。こちらが決死の覚悟であるのに、随分、のんきなものだと因縁をつけたくもなる。緊張しつつもいくらか言葉を交わして、そして、彼女は言った。関係を持ちたかったら、私を殺せ、と。何を言っているのか、理解はできなかったけれど、奇跡的に少女は僕と言う存在を受け入れてくれた。いつも、とびっきりの笑顔で僕を迎えてくれた。なのに、僕は彼女を殺してしまった。彼女は自ら死を選んだのだけれど、きっと、ふたりが出会った日の約束を僕が忘れてしまっていたから、本当にあんなに大切な約束だったのに、だから、結局は僕が全て悪い。

 僕は自分のことしか考えていなかった。彼女は最後の最後まで、僕のことを考えてくれていたというのにだ。死ぬのは痛いだろうに、恐ろしいだろうに、彼女は死ぬことで愛を示したのに、僕は彼女との約束を最後まで果たせなかった。何故か解らないけれど、おかしな格好をしてきて、だから、僕は怒鳴りつけて、ましてや殴ってしまったりして混乱していたんだ。血塗れの彼女の周りには、気持ち悪いほどに桜が咲き誇っていて、忌々しい香りをぶちまけて、薄紅色の花びらまで使って空間を支配しようとしていて、息を引き取っていく彼女を彩るには本当に腹立たしいけれど、最高の状況だと思う自分もいた。


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