第7話

 一年の中で最も寒さが厳しい頃だった。

「綺麗な子だ」

 恍惚とした表情で、前橋まえばし教授が呟く。

 美しいものを見るとき、その表情もまた美しくなる。色気すら感じる。非常に魅力的な微笑を湛えている。普段のストイックな雰囲気からは異質である。眼を奪われてしまう。心臓が波打ち、頬が火照る。視線を落とし、深呼吸。

 瞳孔が開いていく。不謹慎だとは思いながらも、にやけてしまう。

 生きているみたいに、美しかった。

 どうやら、自殺ではないらしいが、死因を特定するために解剖してしまうのが憚られてしまうほどだった。脂肪の薄い上半身は、滑らかな白い肌のすぐ下に、芸術品のような腱や筋肉の繋がりが見てとれた。しかし、胸がないわけではない。土台が痩せているから、あまり目立たないが、それでも女性特有の丸みがある。肩幅が大きくなく、腕がやや長い。やはり、骨が目立つが、成人男性ほどもある手は、ピアニストのような指をしている。上半身とバランスをとるようにして、下半身はややボリュームが感じられる。日本人女性に多い体型だ。彼女の場合、きっと骨盤自体が大きい。子供を産むにはちょうどいい安産体型だ。くるぶしが目立つ足は、手と同様、指がとても長かった。全体的に、骨格はしっかりしているが、痩せ気味だった。

 休み時間に、こっそりとご遺体にかけられた布をとってみた。

 寒いマンションの自室で発見されたご遺体は、 真っ青かと思いきや、そんなことはない。真っ白だった。作り物じみた身体に、顔。表情は読み取れない。僕は動揺した。数は少ないけれど、確かに若者を解剖したこともあるはずなのに、どのご遺体よりも彼女こそが美しいと思ってしまう。それだけではない。この感情は何だ。背後から声をかけられ驚いた僕は、躓いた。ご遺体に吸い寄せられるようにして、口付けをした。


 *


 彼女の解剖が一段落つくなり、僕は大学内の図書館へと急いだ。

 マンション内での、女子学生死亡の記事を探す。記事はすぐに見つかった。事件性はなく、病死だろうということだ。女子学生には、大学に友人がおらず、遠方に住む家族との連絡もそう多くはなく、発見が遅れたとのことだった。記事の上に、灰色の水玉ができる。大人たちがあの頃に帰れたらとこぞって願う年代。その年代の、僕とほとんど年齢の変わらない娘が、たったひとりきりでなくなっていった。彼女は、僕だと思った。僕だって、いつ、彼女と同じ目にあうかわからない。

 図書館を出ると、僕は電車に飛び乗っていた。

 四十分ほとで、彼女の住んでいた街に着く。盆地の夜は冷え切っている。日頃、よく似ていると思いこんでいた自分の住む街とこの街だったが、夜の姿は似てもつかなかった。ほとんど、人がいない。控えめな灯りが輝く。学生向けの賃貸情報誌を見ながら、彼女の住まいを探すことにする。

「問い合わせ、ナンバー1。これからだな」

 そのマンションは、一応、五階建てとはなっているが、一階部分は、駐車場で、実質的には四階建てと変わらなかった。すぐ隣には、小学校があり、日中はさぞ賑やかだろうと想像できる。目の前には、日本最古の歌集にも詠まれたという小さな川が流れる。両サイドの枯れ木は、桜並木だろうか。最上階から見ていくことにする。エレベーターの紅く塗装された扉が重そうな音をたて開く。

「ああ」僕は息を洩らしていた。

 彼女の部屋は、エレベーターの真ん前にあった。たった数歩行ったところに、花束やお菓子、ぬいぐるみなどが供えられている。しゃがみこんで見たけれど、手紙らしきものはなかった。胸が痛む。こんな、うわべだけの供え物をして、彼女が喜ぶとでも思っているのだろうか。枯れた花束を掴むと、固い廊下に叩きつける。

 一階まで降り、自販機で買ってきたコーヒーを飲み乾す。管理人室は二階らしい。今度は非常階段で、二階まで上がるとインターフオンを鳴らす。

 随分、なまりのきつい男が出てきた。

「夜分遅くにすみません。僕は、その」

 男が上を指す。つられて上を見上げる。まばたきするうちに、嘘を考える。

「はい、恋人です。部屋を見たくて」

 男は頷くと、部屋の合鍵を持ってきて手渡してくれた。僕は一礼すると、エレベーター脇の非常階段で、五階を目指した。薄っぺらな器物を踏み潰し、かじかんだ手で鍵を開ける。暗闇の中から、異臭がした。決して上品な香りではないが、甘いような懐かしいような香り。確かに、彼女は生きていた。廊下から溢れる灯りを頼りに、ブレーカーを上げる。身震いするように冷蔵庫が唸る。とりあえず、目に付いた大きなゴミ袋と壁と洗濯機の間に立てかけられているダンボールを捨ててくることにする。これは、本来なら彼女の役目なのだが、きっと、早起きの苦手な子だったんだろうな、と微笑ましくなる。万一、管理人に見つかったとしても、部屋の整理をしていると言えば、大目に見てもらえるだろう。これで、廊下は綺麗になったが、部屋の中は、廊下の比ではなかった。

「ほとんど床が見えないじゃないか」

 寂しさを埋めるように、物という物で、床中が埋まっている。あんなに繊細な体つきをしていたのに、人の見た目と性格とは、関係ないらしい。服や本、紙の山を掻き分けながら、恐らくは万年床であろう布団を目指す。彼女が最期の瞬間を迎えた場所。ご遺体によく似た部屋の温度を感じながら、僕は眠りにつく。



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