第一章⑦ 呪い

 獲物を狙う魔獣の唸り声が静かな森に響いていた。


 失敗した、一人で来るべきでは無かった。

 本で読んだ知識しか持ち合わせていない俺には“魔獣は森の外にしか居ない”という勝手な思い込みが有った。

 完全に森の中は安全だと過信していた。


 魔女様は言っていた、「魔力の弱い者は森へ入って来られない」と。

 人以外にも、おそらく魔力を持たない虫や魚すらもこの森へは不可侵だ。


 だが、それは裏を返せば“強い魔力を持つ生き物は森への侵入が可能”という事。

 その可能性を、俺は失念していた。


 もしも、ここに居るのが俺ではなく魔女様だったなら、偶に森に迷い込む魔獣の一匹や二匹、どうって事は無く処理しただろう。


 それに、人間なんかは魔力の強弱に関わらず、馬鹿じゃなければそもそも魔女様を恐れて侵入してくる事自体まず無いだろう。


 つまり、今回のイレギュラーは俺なのだ。

 異世界から来て、知識も無く、ろくな攻撃魔法も使えず、本来この森に居るはずのないイレギュラー。


 俺が安全圏である家を離れて、のこのこと一人、ここまで来てしまった。

 魔獣たった一匹にすら自衛の手段を持たない俺は、こいつにとっては恰好の餌だ。


 取れる手段は一つ、この場を離れなくては。


 記憶はなくとも分かる、俺は運動が得意な方ではない。

 それに、仮に俺が陸上選手並みの走力が有ったとしても、普通の人間の足ではこの四足歩行で疾走する獣と速さ比べをしても敵わないだろう。


 しかし、幸いまだ俺と奴の間には距離が有る。

 道は分からない。

 それでも、傷を辿って元の場所へ戻る事は出来る。


 そして、きっと魔女様はもう時期帰りの遅い俺を心配して、探しに来てくれているはずだ。

 少しでも家の近くまで逃げる事が出来れば、魔女様の助けを期待できるだろう。


 俺は高鳴る胸の鼓動を抑え、魔獣に背を向けて、走り出す。

 俺が背を向けて走り出すと同時に、魔獣も得物を目がけて、地を蹴った。


 俺は傷を付けた木の幹を辿りながら、肩で風を切る。

 不幸中の幸いだろうか、周囲の木々が邪魔をして魔獣も全速力を出せないのか、背中で感じる気配にすぐに追いつかれる事は無かった。


「はぁ……はぁ……」


 息が上がる、胸が苦しい。

 それでも。

 走って、走って、走って、走って、走っ――


「――しまっ……」


 丁度木の幹に付けた目印の道が途切れ、最初に迷子を認識した辺りまで戻って来た頃。

 俺は焦りから木の根に足をもたつかせ、転倒してしまった。


 このまま地を這う姿勢で居ては俺はすぐに魔獣の腹の中だ。

 急げ、立ち上がり、逃げなければ。


 しかし、転倒で打った四肢の痛みと、襲われる恐怖で身が竦む。

 身体は鉛の様に重く、そして鈍く、俺の身体は望んだ反応を返してはくれない。


 そして、そんな俺が立ち上がるよりも早く、魔獣が地を蹴り、飛びかかる。


 俺は自分の運命を悟り、目を閉じた。

 ああ、俺は、ここで――、


「もう、探しましたよ?」


 ――聞き慣れた、優しい声音がした。


 俺はその声に呼応して、目を開く。


 まだ家までは距離が有るだろう。

 しかし、彼女はここに居る。

 他の誰でもない、魔女様だ。


 おそらく、何かしら高速移動系の魔法を使ったのだろう。

 飛びかかってきた魔獣が俺に喰らい付くよりも早く、目にもとまらぬ速さで魔女様が俺と魔獣の間に飛び込んだ。


 そして、俺を庇った魔女様の左腕に、魔獣が喰らいつく。


「魔女様――!!」


 魔獣のその鋭利な牙が食い込み、肉が割け、骨の砕ける嫌な音がする。

 その傷口からは大量の血が溢れ出て、身体を伝い滴り、足元に赤い水溜まりを作っていた。


 俺は、その凄惨な光景から目が離せない。


「つかまえた」


 それでも、魔女様はまるで痛みを感じていないかの様に不敵に笑う。


 そして、左腕に喰らい付いたままの魔獣に向かってもう片方の無事な右腕を伸ばし、その手の平を広げ、魔獣の首を掴んだ。


 そして――、


「ばあーん」


 魔女様がのんきな効果音を発する。

 すると、たちまち魔獣の身体が沸騰した様にぶくぶくと泡を立て膨れ上がり、爆発。


 そして、その身体は森の暗闇へと弾け飛び、霧散した。

 魔獣の肉片が辺りに散らばり、木々を汚し、森に赤黒い血の雨を降らせた。


 俺はその狂気的な光景に圧倒され、その場を一歩も動けず、呆然とその様子を眺めていた。

 そんな俺に対して、血塗れの魔女様は向き直る。


「大丈夫でしたか?」


 なんて平然と、俺を心配する声をかけてくる。

 大丈夫? 俺は魔女様のおかげで無傷同然だ。

 しかし、


「魔女様、その怪我……」


 彼女の長い黒髪と、白い肌には斑に血の赤が付着している。

 いつもの白いワンピースなんて、もう元の色が分からない程にぐっしょりと赤黒く染まっている。


 魔獣に嚙みつかれた左腕の傷口からは、血が止めどなく流れ続ける。

 その左腕はもう動かないのか、まるで人体とは別パーツかの様にぷらんと垂れ下がっている。


 そんな状態で、彼女は自分の傷の痛みを訴えるわけでもなく、涙を流すわけでもなく、ただいつもの様子で優しく俺の心配をするのだ。


 素人の俺でも分かる、この出血量はどう見ても普通は致命傷だ。

 俺の所為で、魔女様は死ぬのだろう。

 俺の無知が、俺の無能が、魔女様を殺すのだ。


「ご心配ありがとうございます。でも、大丈夫ですよ」


「大丈夫って、そんな訳……」


 しかし、そんな俺の思いとは裏腹に、彼女はいつもの調子で、穏やかにそう言うのだ。


「わたしには、『永遠』の魔法が――“不老不死の呪い”が、有りますから」


 魔女様は“左手”で髪を掻き上げながらそんな事を言う。


 気づけば、いつの間にか魔女様の左腕の傷口は塞がり、出血も止まっていた。

 まるで元から、そこには何も無かったかの様に。

 傷なんて最初から負っていないかの様に。


 この日、俺は改めて彼女のその異常性に気付かされた。


 普段を平和に、穏やかに、共に暮らしていて忘れかけていた。

 魔女様は“普通”ではない。

 

 ――彼女は、世界を滅ぼす“災厄の魔女”だ。

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