8 刀

 ドアベルの音と共にあかとき堂の扉を潜ると、珍しく梓に迎えられた。

「行くのか」

 顔を合わせてすぐに投げかけられた問いに、私は素直に頷く。

 明日になれば、かごめさんの家に向かう予定だった。託された鷹の根付と、壷の底に隠されていた鍵と、それから――それらを手にして、今度は家の中まで侵入するつもりだ。大まかな計画については、すでに伊吹との打ち合わせを終えている。

 出発の前に、一度はここに来ておこうと思っていた。何をするわけでもないが――それでも、私にあの場所へ向かうことを決意させたのは、この店――いや、店の主である梓との出会いがあったからだろう。だからこそ、事前に会っておきたかった。

 これからのことについて話をしたのは、梓を除けば母くらいのものだ。

 火事の後、ひとまず母の住まいに身を寄せていることもあって、私は今までのことも含めて、いろいろなことを打ち明けていた。もちろん、父について知ったことも。

 かごめさんの家に行って、どうなるのかはわからない。危険なのかもしれなかった。伊吹は心配ないと言うが、万が一ということも無くはないだろう。それくらいの覚悟はできている。

 そんな思いを知ってか知らずか、梓は私を店の奥へと――いつものカウンターの前へと促すと、そこで熱い紅茶を淹れてくれた。その香りが店内に広がっていく中で、私はいつも通り、売り物の椅子に腰かける。

 並べたティーカップを前にして、梓は不意にこう言った。

「私の方は、祖母に釘を刺されてしまったよ」

「釘?」

 私が首を傾げると、梓は苦笑する。

「隼瀬家から連絡があったらしい。妙なことに首を突っ込むな、だと」

「でも、梓は怪異とは無縁なんでしょう?」

 私はそう問い返しながら、梓の差し出すティーカップを受け取った。彼女は不服そうに、軽く肩を竦めている。

「だからこそ、だ。いつか足をすくわれるぞ、と脅されている。それがどこまで有効なのか、私にもわからないからな」

 今回の訪問に、彼女は同行しない。

 梓からそう告げられたとき、正直言って、私はそのことを意外に思った。怪異が潜み、物にあふれた家。何となく、意気揚々とついて来そうな気がしていたからだ。とはいえ――

 実際のところ、全てのきっかけは、私がかごめさんのことに興味を持ったからで、梓は単に巻き込まれただけだった。今回のことに彼女は関係ない。だから、梓がその選択をしたとしても、おかしくはないだろう。これはあくまでも私の問題だ。

 そのときふと、見たことのある西洋人形が目にとまる。私がこの店に持ち込んだ、盗聴器が仕込まれていたという西洋人形。

 盗聴器は破棄されたが、人形は埃もなくきれいな姿で座っていた。ただ、売るつもりはないのか、カウンターの奥まったところに置かれている。

 かつては、この存在を心底恐れていたこともあった。しかし、今にして思えば、この人形自体は人の思惑に利用されただけで、怖がるようなことは何ひとつしていない。そう考えると、少しかわいそうにも思えた。

 紅茶を口にしてから、梓はこう続ける。

「まあ、伊吹がついているなら、心配はないだろう。あいつなら、大抵のことは対処できる。私は――残念だが、行かない方がいい」

 自身の体質のせいだろうか。梓のそれが周囲にどれほどの影響を及ぼすものなのか、私にはよくわからない。同行しないことを選んだのは、彼女なりに私のことを気づかった結果なのかもしれなかった。

 彼女の言葉に、私はただ頷く。

 その後に梓と話したのは、他愛もないことばかりだ。やがて、いとまを告げる時間になると、このときは珍しく、扉の前に来てまで梓は私のことを見送ってくれた。

「無事に帰って来い」

 それが、店を去るときに梓が私にかけた言葉だ。不器用な見送りの言葉に、私はただ笑い返す。

 そうして夕日に照らされながら、私は真っ直ぐに母の住まいへと帰った。

 出発は明日の朝。私はもう一度、かごめさんの家に向かう。私が知りたいと願った――その思いから始まった、この物語の結末を見届けるために。




「で? 俺は何で呼び出されたんですかね」

 かごめさんの家の近く。その場にいたのは、私と伊吹と――そして、延坂のべさか空木うつぎの三人だった。

 延坂は、例のダンボール箱を拾ったときに相談していた寺の息子だ。今回のことも、できれば手伝ってもらおうと思って声をかけていた。

 何だかんだ言ってこの場に現れた彼に向かって、私はこう声をかける。

「送ってもらったリスト、役に立った。感謝してる。まあ、紆余曲折はあったけど、梓と知り合うことができたわけだし」

 その言葉に延坂は、はあそうですか、と気のない返事をする。相変わらずな彼の反応に、私は苦笑した。

「で、今回のことなんだけど。軽く話したとおり、ちょっと空き家に侵入しないといけなくなって。そういう経験ありそうだから、できれば手伝って欲しいんだけど」

「一宮さんは、俺のこと何だと思ってるんです?」

 うろんな目を向けてくる延坂に、私はこう答えた。

「オカルト系の記事の取材で、廃墟に無断で入ったかして、警察に注意受けてたじゃない」

 延坂は途端に顔をしかめた。

「古傷を抉るのやめてもらえませんかね。あれ、押しつけられただけなのに、結局仕事に関係なく俺の勝手な暴走ってことになったんですから」

 彼もいろいろと苦労しているらしい。しかし、そうやって不満を言いつつも、何だかんだ律儀に対応するのだから、便利に使われているだけな気もする。

 延坂は大げさにため息をついた。

「まあ、一宮さんがそんなこと言い出すからには、それなりに理由があるんでしょうけど……」

 延坂はそう言ってかごめさんの家に目を向けると、周辺を見渡した。かと思えば、唐突にこんなことを尋ねてくる。

「ところで、こっちに来るってこと、岩槻さんには連絡したんですか?」

「どうして岩槻くんに連絡しなくちゃいけないの」

 私がそう答えると、延坂は戸惑ったような表情で振り返る。

「いや、どうしてって」

 延坂はそこまで口にしておいて、何か言いたげな視線だけを寄越して押し黙った。私が怪訝な顔をしていると、肩を竦めてからこう続ける。

「俺はこれ以上、何も言いませんよ。野暮ですから。それで? 今から侵入するんですか? あの家に?」

 延坂はあっさりとそう切り替えた。しかし、そんなことを言われてしまうと、どうにも気になってしまう。全てが終わった後にでも連絡くらいはしておこうかと、私は密かに考えていた。

 とにかく、今はかごめさんの家だ。

「やっぱり、夜とかの方がいい?」

 私がそう尋ねると、延坂は首を横に振った。

「夜なんかに行ったりしたら、下手に明かりもつけられないですよ。密集した住宅街ですし、ちょっとした音なんかも案外響くでしょうね。こういう家は関係者の振りをして、しれっと正面から入るのが一番いい気がしますけど」

 何だか、もっともらしいことを言っている。やはり、ずいぶんと手慣れているらしい。とはいえ、彼の言うとおりに玄関から入ろうにも、私たちはあの家の鍵を持っていなかった。壷の中にあったそれは、おそらく違うだろう。

 ただ、千鳥は確かにこの家に侵入して、いろいろと持ち出すことができたわけなのだから、どこかに出入りできる場所はあるはずだった。その辺りは、実際に行ってみないことにはわからないかもしれない。

 そのときふと、見覚えのある人影が目に入る。そこにいたのは――隼瀬家に行く前にここへ来たときにも、同じ場所に立ってかごめさんの家をじっと見ていた――あの男だ。

「あの人……」

 私が思わず呟くと、伊吹がこう問いかけた。

「知り合いですか?」

 私は首を横に振る。

「以前も、ここで会ったことがあって。あのときも、あんな風にかごめさんの家を見てた」

 延坂はその言葉にふうんと呟くと、唐突に男の方へと歩き出した。

「え。ちょっと」

 と止める間もなく、延坂は男に近づいて行く。私たちも慌ててそれを追いかけた。

 男の背後に立った延坂は、何のためらいもなく、こう声をかける。

「どうも。少しいいですかね?」

 振り向いた男が真っ先に目をとめたのは、延坂ではなく私の方だった。

「あなたは」

 そう呟いてから、彼はすぐに延坂の方へと向き直る。

「何でしょうか」

「あの家に何か用ですかね? ここで何されてるんです?」

 延坂は矢継ぎ早にそう問いかけた。何を考えているのだろう。私は呆気にとられて、ただ言葉を失った。

 しかし、男の方はすぐにこう問い返す。

「なぜそんなことを?」

 その声は疑わしげではあったが、彼の表情は一切変わらなかった。そういえば、以前会ったときも、ずっと無表情だったことを思い出す。

 しかし、延坂はそれに気圧されることもなく、あっさりとこう答えた。

「ちょっと気になっただけです。あやしいと思うでしょうけど、それはお互い様ということで。俺たちも、あの家に用がありまして。別に盗みに入ろうってわけじゃありませんよ」

 あまりに正直な物言いに、私はぎょっとする。しかし、それでも相手の男は表情を変えなかった。しかも、思いがけずこんなことを言い出す。

「やめた方がいいですよ」

「え?」

 思わずそう声を上げると、男は私の方へと視線を向けた。そして、こう続ける。

「入るのは、やめた方がいいです。あの家、噂のせいか、あの様子だからか、おもしろがった人が勝手に入り込んだり、物を持ち出したりで問題になってるんです。だから、見回りを強化しているんですよ。不用意に近づけば、すぐに警察を呼ばれます」

 千鳥みたいなことをする人間が、他にもいたのか。話を聞いて真っ先に思ったのは、そんなことだった。

 延坂も意外そうにこう返す。

「ずいぶんとお詳しいですね」

「私も、あの家に用があるので」

 男はかごめさんの家の方を見やりながら、そう答えた。延坂はすかさず問いかける。

「なぜです?」

 男はそこで黙り込むと、私たちひとりひとりに目を向けた。さすがに警戒したのかもしれない。

 しかし、そう思って身構えていると、男はどこからともなく小さな紙片を取り出した。そして、私の方へと差し出す。

 それは名刺だった。そこには記されているのは、おそらく彼の名だろう。そして――

「私は探偵をしています。氷上ひかみようと申します」

 確かにその名刺には探偵事務所の名と、その連絡先が記載されていた。

 延坂はそれを覗き込んで、おお、と声を上げる。

「探偵というと……犯人はお前だ、の」

「何でフィクションの方なんです。もっと、現実的な方ですよ」

 氷上は冷静にそう返した。次に尋ねたのは伊吹だ。

「じゃあ、これはお仕事ってことですか?」

 伊吹はさっきまで私の後ろの方にいたのに、探偵がよほど珍しかったのか、前に出て来てまで差し出された名刺をまじまじと見ている。

 伊吹の問いに、氷上ははっきりと首を横に振った。

「いいえ。個人的なことです。でなければ、こんな危ない橋は渡りませんよ」

 危ない橋。かごめさんの家を監視していることを言っているのだろうか。私の疑問を見透かしたのか、氷上は続けてこう言う。

「実は私も一度だけ、あの家に侵入したことがありまして。どうしても知りたいことがあったので――何も持ち出してはいませんよ、一応。ただ、見当ての物は見つけられなかった。それでも、残る手がかりはあの家だけなんです。で――」

 氷上は淡々とそう話すと、私たちのことをあらためて順に見ていった。

「あなたたちは?」

 相手は名前と職業を明かしている。その上で尋ねるからには、相応の答えを期待しているのだろう。かごめさんの家を見ていたことについても、単に好奇心というわけではなさそうだ。

 他の二人の表情をうかがってから、私は意を決してこう名乗った。

「私は一宮鹿子。私は――私も、あの家で知りたいことがあって。死んだ父の知り合いだったの。この家の人。だから」

 私が言い終えると、伊吹がそれに続く。

「僕は隼瀬伊吹です。ええと……あの家の憑きものを調べに」

 そして最後に、延坂はこう言った。

「延坂空木。俺は部外者ですけど。まあ、協力者ってことで」

 聞いていて、何てまとまりのない集まりだ、と自分でも呆れてくる。しかし、相手は怪訝な顔をするでもなく、納得したように頷いた。

「なるほど。しかし、どうでしょうね。その――憑きものとやらはわかりませんが、行っても何もないと思いますが」

「鍵があるの」

 私はそう言って、壷の中から見つけた古びた鍵を取り出して見せた。あらためて手にすると、単純な形だが、材質のせいかずしりと重い。

「まあ、どこの鍵かはわからないけど」

 私がそう言い添えると、氷上はしばらく黙り込んだ。ポーカーフェイスのせいで、何を考えているのか全くわからないが――それでも、彼の中ではそのうち、何やら決心がついたらしい。氷上は私の顔を見て、こう言った。

「見回りの時間はある程度決まってるんです。それと、あの家には一か所だけ、鍵が壊れている窓があって、そこから入れます。それをお教えしましょう。その代わり、私もついて行ってもいいでしょうか」

 私は伊吹と顔を見合わせた。

 思いがけない提案だ。しかし、彼は一度あの家に侵入したことがあると言う。ならば、案内役としては、悪くないかもしれない。

 問題は目的だが――

 盗みに入るわけではないようだし、話を聞く限りでは、私の目的とも似ていた。同行を申し出たのも、私が鍵を持っていたからだろう。さて、この人物を信用してもよいものだろうか。

 とはいえ、私はそのときすでに、彼の執念をどこか他人ごとのように思えなくなっていた。別に遺品を取り合うわけではないし、目的がかち合うということもないだろう。そう考えて、私は頷く。

「わかった。でも、約束して。あの場所は危険かもしれないの。だから、いざと言うときは、伊吹の指示に従って」

 氷上はちらりと伊吹に視線をやってから、わかりましたと承諾する。そして、今度は延坂の方へと視線を移した。

「それでは……協力者のあなたには、外で見張りを頼めないでしょうか」

 会ってそうそう、そんなことを提案するのも驚くが、言っていることはもっともだ。私は同意した。

「そうね。その方がいいかも。見回りらしき人を見かけたら、電話してちょうだい」

 急な展開に延坂は虚をつかれたように顔をしかめたが、すぐに思い直したのか、こう答える。

「了解しましたよ。一緒に不法侵入するよりかは、マシでしょうし。気をつけて、行って来てください」

 そうして、新たな同行者を加えた私たちは、延坂だけを見張りに残して、かごめさんの家へと向かうことになった。



 その家には確かにひとつだけ、何をしなくともすんなりと開く窓があった。

 おもしろがって侵入したという者たちもこの経路を通ったのか、周囲には踏み荒らされたような跡が残っている。見回りをしている人たちは、この場所のことを知らないのだろうか。何の対策もされていないのは不思議だが、ともかく私たちにとっては好都合だった。

 氷上の指示に従い、私たちは人目が避けられる時間を狙って、かごめさんの家へと侵入する。申し訳ないと思いつつも土足で上がり込み、入ってすぐに私は室内へ視線を巡らせた。

 茶の間だろうか。外にたくさんの物があふれているのと同じように、家の中もまた、あらゆる物で満ちている。生活に必要な空間を除いて、全ての場所に何かしらの物が置かれているような状態だった。いくつかの物が持ち出されたのかもしれないが、確かにこれだけあれば、ひとつやふたつ無くなったところでわかりはしないだろう。

 侵入者がいて問題になっているということだったが、思ったよりも部屋は荒らされていない。ゴミなども落ちていないし、それほど汚されてもいないようだ。かすかに異臭が漂っている気はするが。

 そのときふと――私は部屋の隅にガラスの破片らしき物が散らばっているのを見つけた。思ったよりも室内が整然としていたので、そこだけが異様に思える。そのせいで自然と目を引いたようだ。

 ガラスの破片は、何かのケースが落ちて割れた物らしい。四方と上部をガラスの面で、辺の部分を木枠で囲われたケースで、ひと抱えするほどの大きさの中に入っていたのは――日本人形のようだった。

 よく見ると、その人形は片手に何かを持っている。それは兜のようだったが――まさか五月人形ではないだろう。人形自体はどう見ても、あでやかな着物をまとった女性の人形だった。

 それにしても、どうしてこれだけが壊れているのだろう。誰かがうっかり落としたのだろうか。近くの箪笥の上には、確かにこのケースが置けるだけのスペースが空いている。

 何となく、誰かが悪意を持って――あるいはおもしろがって、かもしれないが――執拗にこれを破壊したかのような印象を受けた。ケースが横たわっているせいで、人形の顔は床を向いてしまっている。そのことがなおさら、この人形自身がその身を嘆いているかのようにも見えた。

 同じように壊れたケースの存在に気づいたのか、伊吹がぽつりとこう呟く。

「人形は人の災厄を引き受ける物ですからね」

 氷上はというと、始めから見るべきものはないと判断していたのか、早々にこの部屋からは出て行ったらしい。

 茶の間から去り難い気がして、私はもう一度だけ周囲を見回した。かごめさんが日常を過ごしていた場所。物に囲まれた部屋の中で、ぽっかりと空いたその中心にはちゃぶ台があって、急須や湯のみなどの生活の品がきちんと仕舞われている。よく見ると、かごめさんが愛用していたのかもしれない裁縫箱もあった。

 しかし、ざっと見る限り、鍵が使えそうなところは見当たらない。そのことを確認してから、私は氷上の後を追ったらしい伊吹に続いて行く。

 どこもかしこも物だらけで、室内は人ひとり通れるほどの余裕しかない。周囲の物にうっかりぶつからないよう慎重に進んでいると、先行く伊吹がこう呟いた。

「あ。刀がある」

 その言葉と共に、彼が引き寄せられていったのは仏間だった。そこには氷上もいて、気になることでもあるのか、何をするでもなく立ち止まっている。

 刀に釘づけになっているらしい伊吹を横目で見ながら、氷上はこう言った。

「こういった物って、それなりの値になるんじゃないですか。盗られずに残ってたんですね」

 伊吹はそうですねと相槌を打っている。

「所持するのに登録証が要りますから。高くても、そう簡単には売れないかと。それに、こんなの持ってその辺りを歩いてたら、それだけで捕まっちゃいますよ」

 氷上はなるほどと頷いている。

 二人は仏間には入らずに、その手前に立って中を覗き込んでいた。刀がある――ということだが、二人にさえぎられていて、私からはよく見えない。とはいえ。

「ちょっと。ふたりとも何の話をしてるの」

 話を聞く限り、どうも関係のないことに気を取られているようだ。刀ひとつで話が弾む二人に呆れながらも、私は彼らの後ろ姿越しに仏間を透かし見る。しかし――

 そこにあった光景は、単に刀がある、だけのものではなかった。

 仏間には、確かに伊吹の気にしているだろう刀が、鞘に収まった状態で台の上に置かれている。問題はその周囲だ。

 真っ先に目を引いたのは、無数に散らばっている和紙だった。墨で文章がびっしりと書かれたそれらが、ばらまかれたように広がっている。よく見ると、埋もれるようにして硯と筆があり――それらは完全に乾いていた――近くには、束になった無地の和紙も添えられていた。

 仏壇の前には台が――祭壇だろうか――据えられていて、そこには何かの像――仏像に見える――が置かれている。それに向き合うように座布団が敷かれ、その中間にはガラス瓶と麻糸と、奇妙な形の紙切れがきちんと一列に並べられていた。お供えのように小皿に盛られている物は――豆、だろうか。

 物にあふれた部屋も異常ではあるが、仏間のこの様子は、輪をかけて異様であるように思われた。どこか儀式めいた感じがすることもそうだが、何よりこの現状が――あたかも時が止まったかのように――ここにいた人が、突然いなくなったかのようにも見えたからだ。

 茶の間にあった道具はきちんと仕舞われていた。だから、かごめさんは決して片づけを怠るような人ではないだろう。この仏間の惨状は、明らかに何かしらの異変が起こったことを物語っていた。

 壁と壁の隙間だかで亡くなっていた――だったか。しかし、この現状を見る限り、彼女は死の間際までこの場所にいたのではないだろうか。だとすれば、ここではいったい、何が行われていたのだろう――

 呆然としている私の方へ、申し訳なさそうに伊吹が振り返る。

「すみません。つい気になったので――」

 ほとんど同時に氷上も半身をこちらに向けた。伊吹と違って氷上の方は特に悪びれる様子もない――が、単に顔に出ないだけかもしれない。

 それにしても、真っ先に刀に反応した伊吹は、これらを何とも思わなかったのだろうか。彼の場合、こういったものは見慣れているのかもしれないが。

 あるいは、氷上の方こそ、この状況に驚いてもよさそうに思える。とはいえ、彼はおそらく、以前に侵入したときには、すでにこれらを見ていたのだろう。だからこそ、伊吹が憑きものなんて単語を口にしたときも、動揺しなかったのかもしれない。

 私は二人ほど冷静にはなれず、戸惑いながら呟いた。

「これは――?」

 私の不安を見透かしたように、伊吹はこう話し始める。

「紙製の人形ひとがたに入れ物に――それから、この祈祷文……もしかしたら、封じようとしたのではないかと」

 私はその言葉を聞いて、思わず伊吹を見返した。

 封じようとした――やはりトウビョウを、だろうか。あるいは、他の怪異という可能性もあるかもしれないが――

 伊吹はあらためて仏間を見やりながら、こう続ける。

「ただ、刀だけちょっと奇妙な感じなんですよね。何だろう……うまく言えないんですけど。何か意味があって、ここにあるんだとは思いますが」

 私の目には、刀も含めて全てが異様に思えるのだが、伊吹からすると、刀だけが突出して気になるものらしい。よくわからない感覚だ。

 言葉を失った私の代わりに、それを尋ねたのは氷上だった。

「こういったことに刀を使うのは、珍しいんですか?」

 彼はこの会話にも全く動じていない――というより、早くもこの場になじんでしまっている。

 伊吹は氷上の問いにうーんと唸りながらも、こう答えた。

「いえ。むしろ魔を祓う物ですから。でも、何か違和感があるんですよね。どうだろう。そもそも、うちでは使わないからな……昔の話ならわかりませんけど、現代ではいろいろと扱いが難しくて」

 伊吹はそこでなぜか、はっとして私たちの方を見ると、照れ隠しのように軽く笑った。

「まあ、うちは少し変わってますからね。そこまで詳しくはないんです。他の系統から取り入れてる部分も、あるにはあるんですが……適当なことを言ったら、叱られますね」

 ここまで語っておいて、詳しくないも何もないと思うが。氷上は首を傾げながら、こう問いかける。

「変わってる……神道や仏教ではない? 陰陽道とか修験道とかでしょうか。あるいは密教?」

 伊吹は大きく首を横に振った。

「いいえ。もっと特殊で。元は隼人はやとの」

 そのとき、不意に大きく、みし、と家が軋むような音が――家鳴りだろうか――聞こえた。私たちは思わず口を噤む。

 それ以上は何も起こらないことを確認すると、伊吹は室内を見回しながら、声を潜めてこう告げた。

「気配を察して隠れてはいますけど。いますよ」

 隠れている――おそらく、例のトウビョウのことだろう。

 私は大きく息を吐き出した。心を落ち着けるように。それを見て、伊吹が気づかわしげに声をかける。

「あの――」

 そう呼びかけられて、私は伊吹を見返した。彼は心配そうな表情を浮かべている。

「一宮さん。気をつけてくださいね。もしも、そのトウビョウが――例えば誰かの姿を借りていたとしても、それはもう、そのものではありませんから。それだけは、どうか忘れずに」

 どういう意味だろう。よくわからないが、ひとまず心にとめておく。

 とはいえ、私の目的はあくまでも日記帳だ。儀式の痕跡を横目に見ながら、私は――できることならその恐ろしい蛇とは会うことのないよう、そして目的の物を見つけることができるように――ただ祈っていた。



 伊吹が一階の方をもう少し見て回りたいと言うので、私たちは別れて行動することになった。氷上は鍵が使えるところに心当たりがあるらしく、共に二階へと向かう。

 その途中、私はどうしても気になって、先行く氷上にこう尋ねた。

「その――あなたがこの家で探している物が何か、聞いても?」

 答えを渋るようであればすぐに引き下がるつもりだったが、ちらりと振り返った氷上の表情は変わらない。いや、いつ見ても変わらない気がするが――ともかく、彼は平然とした顔でこう口にする。

「私の父はクズなんです」

 何かの聞き間違いかと思った。なので、私は思わずそれを聞き返してしまう。

「く、くず?」

「そうです。クズです」

 と氷上はくり返した。

 真顔で言うから、何ごとかと思ったが――どうやら冗談ではないらしい。彼はさらに、こう続ける。

「私の父はクズなんですよ。ろくに働きもせず、酒に溺れる、ギャンブルはする、家のことは何もしない。とにかくクズなんです。もう死にましたが。それで――」

 そんな風に、氷上は自分の父親の死をさらりと流した。

「父の死は突然のことだったので、アレが残したものは私が整理することになりました。その中で、私はあることを知ってしまったんです」

「な、何を?」

 私は恐る恐るそう尋ねた。氷上は淡々と続ける。

「出所のわからない大金を、父が受け取っていたことです。正直言って、大して仕事もしていないのに、どこから金を得ていたのか、長年の疑問だったんですが――親子と言えど、面と向かって問い質すような間柄でもなかったので」

 氷上はそこで大きくため息をつく。

「それで、いろいろと調べていくうちに、この家に辿り着きました。どうも私の父は、この家を監視して、金を得ていたようなんです」

 その言葉に、私は、はっとした。監視――それを聞いた途端、例の西洋人形のことが思い出される。

 とはいえ、すぐに結びつけるのは短絡的だろう。私は黙って、話の続きに耳を傾けた。

「まあ――どういう約束でそうなったかまでは、まだわかっていませんが、私にはそれが真っ当なことをして得た金には思われません。書類のたぐいは全て処分するように――と指示された文章まで残っていましたから。父はおそらく――単にそれを怠ったのでしょう。一時期を境に、妙に無気力になっていたので。そうでなくとも、自分が死ぬとは思っていないようでしたから。とにかく――」

 彼はそこで階段を上りきると、私を近くの部屋へと促した。

「私は、父が何をしていたのかを知りたいんです。そういうことをうやむやにしておけないたちなんですよ。お陰で、こんな職に就くまでになりました」

 氷上は戸口の側に立って、私がその部屋へ足を踏み入れるのをじっと待っている。しかし、中へ進むその前に、私は氷上と向かい合い、思い切ってこう言った。

「私は――」

 軽く首を傾げる氷上に、私は苦笑いを浮かべる。

「私も父の影を追って、ここまで来たの。父はかごめさん――この家に住んでいた人と交流があって。父が死んだときのこと、かごめさんが知っていたかもしれないから」

 相手の事情を聞いたからには、こちらも伝えないことには不公平だろう。

 そんな私の心情が伝わったからか、氷上はただ無言で頷いた。それを確かめてから、私は彼の示すその部屋へと向かう。

 そこは三畳ほどの小さな部屋だった。畳敷きだが、書斎のようなものだろうか。室内は、当然のように物であふれている。

 それらの中でも、この部屋のほとんどを占め、特に目立っていたのは大きな和箪笥だった。

 ひと目見て、私はすぐにそれを理解する。氷上がなぜ私をここまで連れて来たのかを。初めてこの部屋に訪れたなら、真っ先に目を引くだろうその箪笥の引き出しには、確かに鍵穴があったからだ。

 私は例の鍵を取り出すと、その箪笥へと近づいた。鍵を差し込んでみると、それはその穴にぴたりと嵌まる。

 私はゆっくりと鍵を回していった。

 かちりと仕掛けが動く手応えがあったので、引き出しに手をかけてみると、閉じられていたそれはあっさりと開く。覗き込んだその中に入っていたのは、私の元にある物とよく似たノートの日記帳だ。

 一冊ではない。軽く見ても十冊以上はある。氷上はすぐにその中の一冊に手を伸ばすと、ものすごい早さでページを繰り始めた。

 出遅れた私は、残りの日記帳のうち、一番古そうな日記帳を手に取る。表紙を開けると、日付を確認するまでもなく、それが自分の目当ての日記帳であることを知った。

 そこに書かれていたのは、こんな文章だ。


 ――新しい生活を始めるにあたって、日記を書くことにした。

 まずは、この家に来るまでのことを書き残しておこうと思う。


 私はひとつ大きく息を吐いて、その続きを読み始めた。


 ――私は父には会ったことがない。

 物心がつく前にいなくなってしまったからだ。

 だからこれは、母から聞いた話となる。

 私が父について知っていることはそれほど多くはない。

 どうも、父はどこからか逃げて来たらしく、それを母がかくまっていたこと。

 いつも手のひらに収まるほどの瓶を持っていて、少しでもさわろうとするとひどく怒ったということ。

 父のことでよく聞かされたのは、そんなところだろうか。

 そんな父は、ある日突然姿を消してしまった。

 父が去った後、母の元に残ったのは、木で作られた真四角の箱と、これを決して開けるな、とだけ書かれた置き手紙だけ。

 父の人となりについても、私はよく知らない。

 父が消えたのは、私がまだ赤子だった頃のことだ。

 母から聞いた父の印象は、ときにやさしく、ときにおそろしく、どうもはっきりとしなかった。

 ただ、母はたまに父のことを懐かしむことがあったから、悪い人ではないのだろうと思う。

 きっと何か事情があったに違いない。


 私は思わず小さくため息をついた。

 ここにある、父とされる人物は、明らかにトウビョウを持ち出して逃げた者のことだろう。

 触れてはならない小さな瓶。一階で見たガラス瓶のことを思い出す。もしかしたら、この瓶にはトウビョウが封じられていたのだろうか。

 それから、もうひとつ気になったのは、木で作られた真四角の箱という記述だ。これはもしかしたら秘密箱のことではないだろうか。トウビョウを追って来た鷹をこれに封じた上で、その人物は母娘と共にこれを捨て置いた――

 日記の内容から考えを巡らせつつも、私はその先を読み進めていく。


 ――母が病で亡くなってからしばらくして、突然知らない人たちが私の元にやって来た。

 いろいろ話していたが、よくわからない。

 よくわからないが、慈善事業だかで、簡単な仕事をすれば、私に住まいと給金をくれるのだと言う。

 その仕事とは、捨てられる物を拾うことらしい。

 どうにもあやしい話ではあるが、これは父の計らいではないかと思う。

 この提案をしに訪れた人が、私があの箱を持っていることを確かめたからだ。

 もしかしたら、母のことを探しているのかもしれないと思ったが、その人は箱さえ持っていれば、そこにこだわりはないようだった。

 とにかく、父が関連していることは間違いない。

 箱のことを知っているのは父以外にあり得ないのだから。

 私はいつか父に会えるのだろうか。


 かごめさんの淡い期待に反して、これを読んだ私の気持ちは沈んでいった。私はこの提案の意味を知っている。そして、それが彼女にどんな結末をもたらすかを。

 かごめさんは父親の計らいだと信じているようだが、この条件についてはおそらく、誰が受けてもよかったのではないかと思う。こだわらなかった、というのも、誰でもよかったからだろう――災厄を引き受けてくれさえすれば。あえてかごめさんのところへやって来たことに理由があるとすれば、秘密箱に封じた鷹の根付のことを気にしたからではないだろうか。

 しかし、そんな思惑など、このときのかごめさんは知る由もない。だから、父親が自分のために計らってくれたものだと信じたのだろう。

 とにかく、これで謎がひとつ解けた。かごめさんが、なぜ災厄を呼ぶかもしれない物を引き受けていたのか。それは、彼女が父親との繋がりを求めていたからではないだろうか。

 そう考えた私は、その先の日記をいくつか流し読んでみた。

 何か大きなできごとがあったわけではない。かごめさんが初めて怪異に出会った驚きなどはあったが――私がすでに読み終えた日記帳と比べても、特別なことが記されているわけではなかった。

 その代わり。


 もしかしたら父が――

 父はきっとこれを――

 おそらく父なら――


 そんな風に、日記にはたまに父という言葉が記されていた。それは、私が読んだ日記の中には全く見られなかった言葉だ。

 そのことを察して、私は思う。もしかして、かごめさんは父親への思いを断ち切るために、この日記帳を仕舞い込んだのではないだろうか、と。

 きっと、ここにある日記帳の分だけ、かごめさんは期待に満ちた日々を過ごしていたのだろう。しかし、彼女はそれが叶わないことを知ってしまった。彼女にとっては、日記帳を目にすることすら、つらかったのかもしれない――

 私が大きく息をつきながら、日記帳から顔を上げたとき、珍しく顔をしかめた氷上と目が合った。かと思うと突然、彼は深々と頭を下げる。

「申し訳ありません」

 私はぎょっとして、ただ目をしばたたかせた。

「どうしたの。突然」

 氷上は無言で日記帳を差し出した。私はそれを受け取って、そこにあった文章を読む。


 ――フクチさんが亡くなったのは、私のせいだ。


 その一文を見て、私は大きく目を見開いた。


 ――フクチさんが亡くなったのは、私のせいだ。

 彼に父のことを話さなければよかった。

 いや、そもそも親しくなどしなければよかったのだ。

 そうすれば、こんなことにはならなかったのに。


 これは――どういうことだろう。

 私は逸る気持ちを抑えながら、先を読み進めた。父が死んだのは、やはり怪異のせいなのか。それとも。


 ――私のことを見張っているらしい男を捕まえた。

 いろいろ聞き出したかったが、どうも取り乱しているようで、話にならなかった。

 しかし、その男は、フクチさんが余計なことをするから、こんなことになったのだと言っていた。

 私と父を会わせようとしたからだ、と。

 父のことを話したとき、フクチさんは言っていた。

 親の業を子に背負わせるものではない、と。

 きっと、フクチさんは父のことを調べたのだ。

 しかし、そんなことをしてはいけなかった。

 私も、とうに諦めていたことなのに。

 こんなことになってしまうなんて。

 私なんかに関わったばかりに。

 彼にはこの先、娘さんに会える未来が、きっとあった。

 そんな未来を閉ざしてしまった。

 娘さんに、何てお詫びすればいいのだろう。

 こんなことになるくらいなら、私はもう、誰とも関わるまい。

 このまま、私はここでひとり


 文章はそこで終わっていた。

 書けなかったのか、書かなかったのか。

 しかし、これではっきりした。かごめさんは、父親との繋がりを断っただけではない。全ての人との繋がりを諦めてしまったのだ。ここに日記帳を仕舞い込んだのは、その証。

 このできごと以降、彼女はずっとひとりだったのだろうか。誰も側にいてくれる人はいなかったのか。

 やえさんは――とも思ったが、この協力者はもしかしたら、かごめさんの父親が亡くなった時点で、彼女の側からはいなくなっているかもしれない。トウビョウを持ち出した者が、自分の死に際してどのような後始末を行ったのか――あるいは、行わなかったのか。それもわかっていなかった。

 だとすればやはり、かごめさんはたったひとりで死んでいったのだろうか。誰とも関わることなく。全てをひとりで抱え込んで。

 もっと早く、会いに行けばよかった。取材でも何でもいい。私は彼女に会うべきだった――

 知らず流れた涙に気づいたと同時に、不意に氷上がこう言った。

「すみませんでした。ここに書かれている方は、あなたのお父さまではないですか」

 私が無言で頷くと、氷上は静かに泣いている私の顔から、そっと目を逸らした。

 氷上の父親はかごめさんを監視していたと言う。かごめさんもそのことには気づいていたようだが――それが本当だとすれば、ここに書かれている、見張っているらしい男、というのが氷上の父親なのだろう。そして、これを読む限り、この男も私の父のことを知っていたらしい。それでも――

 私は首を横に振った。

「あなたのお父さんが、何をしたのかは、わからないでしょう」

「何らかの関わりがあったこのは、明白ですよ」

 そうだろうか。そうかもしれない。

 しかし、私はもはや、父の死について誰を責める気もなくなっていた。ましてや、かごめさんのせいではない。だからこそ、このことに怒りも憎しみも感じなかった。

 ただ、その責をひとり負ってしまったかごめさんにだけは、深い悲しみを抱く。

 氷上は私に背を向けると、こう言った。

「ただ、知ることができて、よかったと思います。何も知らずにいるよりは」

 負わなくてもいいものを、この人も負わずにはいられないのだろうか。彼の言葉を聞いて、私はそんなことを思う。

 流れる涙を拭うため、軽く俯いた――そのとき。

 和箪笥の奥――物影に隠れた狭い隙間に、小さな書きもの机があることに気づく。その上には、まだ新しいノートが――日記帳が置かれていた。これは、もしかして――

 私はどきりとしながらも、引き寄せられるようにそれを手に取った。ぱらぱらとめくってみると、ほとんどが白紙だったが、数ページだけ書き込まれていることがわかる。

 私はその記述を読んだ。


 ――壁の中を這う音がする。

 もう時間がない。

 人の身で全ての厄を背負おうなどと、なんて愚かなのだと、やえさんには言われました。

 それでも私は、誰かが悲しむくらいなら、私が引き受けた方がいいと思うのです。

 私はあれを封じようと思います。

 うまくいくかはわかりません。

 できることなら、これで終わりとなってくれることを願います。

 もしもこれが失敗して、この後の日記が書かれずに、この文章を読んでいる人がいるのなら、どうか気をつけて。

 目には見えない蛇の化けものに。


 ふと、氷上の言葉を思い出す。

 壁と壁の隙間だかで亡くなっていたそうです――

 一階にあった儀式のような痕跡は、やはりトウビョウを封じるためのものだったようだ。これを読む限り、このことにはやえさんも協力してくれたのだろう。しかし。

 かごめさんは亡くなった。トウビョウの封じ込めに、失敗したのだろうか。だから、彼女は――

 そのとき、がたん、と大きな音が鳴り、地震のように家が揺れたかと思うと、突然――視界が暗転した。






 真っ暗だった。

 黒以外は何も見えない。

 動かせる左手をどうにか目の前にかざしてみたはずだが――

 視界にあるのは、墨で塗り潰したかのような真の闇。

 ただそれだけ。

 体は硬直したように動かない。

 後ろを振り向こうとしたが、それも難しい。

 どこか狭いところに押し込められているようで、身じろぎすらまともにできなかった。

 私は混乱する。

 ――その人、壁に埋まってたそうですよ。

 ――壁と壁の隙間だかで亡くなっていたそうです。

 私はちゃんと生きているだろうか。

 呼吸はしている。

 頭も体も手足も確かにここにあった。

 それに何か――匂う。

 しかし、恐怖からか声は出ない。

 すぐ側にいたはずの氷上はどうなったのだろう。

 伊吹は、どこにいるのだろうか。

 誰か。

 そう思った、そのとき――

 闇の中、何かが動く気配がした。

 何か、いる。

 それに気づいた瞬間、それは私の右腕にぺたりと触れた。

 思わず体を震わせる。

 いつの間に、こんな近くにいたのだろう。

 見えなかっただけで、ずっとそこにいたのだろうか。

 それとも、音もなく近寄って来たのか。

 いったい、何がいるというのだろう。

 その何かはそろそろと私の腕を撫でたかと思うと、唐突に右手首に掴みかかった。

 ぎりぎりと締め上げるように、強く。

 恐ろしさのあまり反射的に腕を動かすが、肘をしたたかにぶつけただけで、それを振りほどくことはできなかった。

 打ちつけたところが、ひどく痛む。

 いったい、どうすれば――

 掴まれた手をぐいと引かれ、恐怖に息を飲んだ。

 悲嘆に暮れて、抗う気力も無くしかけた、そのとき。

 ふと、周囲の闇が揺らいだ気がした。

 かと思えば、耳許で突然――鳥が羽ばたく音がする。

 それに怯んだかのように、手首を掴む力が弱まった。

 この羽音は――鷹の根付!

 それに気づいた瞬間、一条の光が差す。

「一宮さん!」

 氷上の声だ。

 どうにか身をよじって視線を巡らせると、左手の方――闇の中にぽっかりと光の穴が空いていた。そこから氷上が手を伸ばしている。私は必死になって、そちらへと身を乗り出した。

 しかし、それを押し止めるように、掴まれた右手首に力がこもる。光の届かないところには、まだそれが潜んでいて、私をこの場に引き止め――あるいは、闇の中へと引きずり込もうとしていた。

 私は必死になって叫ぶ。

「奥に何か――何かいるの!」

 どこからか犬の遠吠えが、いや――伊吹の鳴き真似が聞こえてくる。

 そのうち、ひたひたと足音を立てながら、獣の気配が近づいて来るのがわかった。独特な匂いに、呼吸音。暗がりの方から、低い犬の唸り声が聞こえてくる。

 伊吹の犬が、闇の中の何かに食らいついた。

 争う気配と同時に手首を掴む力が緩まったので、私は逆の手で氷上の手を握った。そのまま手を引かれ、どうにか今いるところから抜け出す。

 しかし、私が闇から抜け出し切る直前、その何かは――今度は私の足首を掴んだらしい。思わずよろけて前屈みに倒れたが、必死の思いでどうにか暗がりの外へと這い出していく。

 と同時に、私の足首を捕らえたまま、それは闇の中からずるりと姿を現した。

 私がいたのは、階段下の納戸だったようだ。そこの壁が一部破られていて、壁と壁の間に人ひとりがどうにか体を捩じ込める程度の空間があった。そして今、その隙間から――何か得体の知れないものが半身を現している。

 それは――枯れ枝のように痩せ細った老婆のような姿をしていた。

 ずるずると長い白髪、黄色の虹彩に黒く細長い瞳孔のある、蛇のような丸い目。開いた口の中はあざやかな赤で、よく見ると頭には角のようなものが生えている。腰から下は、闇に飲まれていて見えない。

 そして何より、その顔に、首に、腕に、体に――びっしりと鱗が生えていた。その一枚一枚が半透明の白に淡い紫をにじませて、まるで藤の花のような色合いをしている。

 トウビョウを連れて隼瀬家から逃げ出した者は、それに魅入られたのだ、と言う話だった。これが、その――

 私は思わず、その姿に目を奪われた。

 その化けものは白日の下に晒されてもなお、私の方へとじりじりと近づいてくる。時折、背後を気にしているのは、伊吹の犬がいるからだろうか。闇の中にちらりと見えたのは――巨大な蛇の尾。その下半身に、犬が食らいついている様だった。

 疾風――と犬を呼ぶ伊吹の声。それをきっかけに、トウビョウは痛みにのたうち回ったが、その怒りに任せて、トウビョウは鱗だらけの手を私の首へと伸ばした。そうして私の首を絞め上げたと思うと、トウビョウはさらにその身を寄せて、背後の棚へと押しつけてくる。

 氷上は近くの箒を手に取り、トウビョウに向かって振り下ろしたが、たやすく振り払われてしまっていた。私が苦しみもがいていると、上着のポケットに押し込んでいた小さな鹿のぬいぐるみが――不意に転び出る。

 端切れで作られたらしい、小さな鹿のぬいぐるみ。父の元にあった、父には不似合いな、かわいらしいその遺品。

 私がそれに手を伸ばすと、トウビョウの視線はゆるゆるとそちらへと向かった。それを見て、私は、はっとする。声は出ない。しかし、心の中で祈るように叫ぶ。このぬいぐるみは。

 これは、私の父のために、あなたが作ってくれた物ではないの――

 そう思った途端、トウビョウの動きが止まった。

 誰かの姿を借りていたとしても、それはもう、そのものではない――伊吹はそう言っていた。しかし、このトウビョウはぬいぐるみに反応している。ならば、ここには彼女の心があるのではないだろうか。それとも、私がそう感じているだけか。

 そんな感傷を振り切って、私はこの隙にトウビョウから逃れようと、身をよじった。

 視線の先に仏間が見える。そう思った、そのとき。

 ふと、信じられない光景を前にして、私は目を見開いた。

 仏間にある刀が浮かび上がり、ひとりでにゆっくりと動いている――

 それはやがてすらりと鞘から抜け出すと、その刀身をあらわにした。かと思うと、その鋭い切っ先を私の方へと向ける。

 じりじりとこちらへと近づいてくる刀に、私の目は釘づけになった。何が起こっているのだろう。

 刀はやがて狙いを定めたように静止すると、ものすごい速さで飛んで来て――その刃をトウビョウの首へと突き立てた。

 トウビョウはもがき、声なき声を上げる。しかし、刀が容赦なくその首を切り落とすと、鱗の一枚一枚はぽろぽろと剥がれ落ち、全て小さな蛇へと変わっていった。美しい紫色だったそれらはすぐに茶色へと変わり、かと思うとぐずぐずと崩れていく。そうして、やがては土くれのように散らばった。

 体にかかるそれらを振り払いながら、鹿のぬいぐるみを拾い上げつつ、私はどうにか自力で起き上がる。私と氷上と、そして伊吹は、呆然としてその残骸を取り囲んだ。暗がりからは、犬の甘えるような鳴き声だけが聞こえている。

 飛んできた刀は床に突き刺さったまま、動く気配もない。伊吹はそれを見下ろして、こう呟いた。

「この刀――もしかして、怪異切りの刀だったんでしょうか。この家のトウビョウは、もう……いなくなったようです」

 信じられないことが立て続けに起こったせいで、伊吹の言葉もすぐには実感できなかった。しかし、どうやら危機は去ったらしい。お互いの無事を確かめ合ったところで、私たちはひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。



 私が閉じ込められた隙間へと続く壁は、すでに一度取り払われた跡があったのだという。だとすれば、かごめさんもまた、この場所に連れて来られて――亡くなってしまったのだろうか。

 どうやって、こんな場所に入り込んだのかはわからない。私が直前にいた二階には当然のように、その場所に続くような穴も何もなかった。隙間を覗いてみても出入りできるようなところはなく、見つけたのは、いつの間にか落としてしまった鷹の根付くらいだ。

 とにかく、これで全ての目的は達成された。ここに長居をしても仕方がない、と私たちは早々にこの場を去ることを話し合う。

 しかし、引き揚げようとする二人を前に、私はあることを言い出せずにいた。

 それに気づいたらしい氷上が、あっさりとこう言う。

「日記帳でしょう。持って行ってもいいんじゃないですか」

 確かに、私はここに残される日記帳のことを気にしていた。

 彼女の最期の思いをこの場所に残していくのは忍びない。とはいえ、他人の家に忍び込み、あまつさえ、そこにある物を持ち出すことには、やはり抵抗があった。ここまで来て今さらという気もするが。それでも、自分なりの線引きはある。

 しかし、氷上は私の戸惑いにかまうことなく、さっさと日記帳を回収しに行ってしまった。そうして彼は、箪笥に隠されていた日記帳と、最後の一冊をまとめて私に差し出す。

「これは、あなたが持っていてこそ、意味のある物だと思いますから」

 私はその勢いに押されて、日記帳を受け取った。

 受け取ってしまえば、何となく手放し難くなる。だから私は、それらを持って、かごめさんの家を後にすることになった。

 私たちのことを出迎えたのは、うんざりしたような表情をした延坂だ。

「何をやってたんです? 電話しても出てくれないし。大変だったんですよ?」

 そう言えば、彼には見張りを頼んでいたのだ。完全に忘れていた。

「もしかして、見回りの人が来てたの? 何かあった?」

 私が軽い調子でそう尋ねると、延坂は憤慨した様子で捲し立てる。

「何かあった? じゃないですよ。あやしまれるわ、いろいろと尋ねられるわで――言い繕うのに大変だったんですから。仕方ないので、延々と自分の身の上話をしてしまいましたよ。そのお陰で、相手は呆れて帰って行きましたけどね!」

 私と氷上と伊吹は、思わず顔を見合わせる。それから苦笑を浮かべながら、彼に労いの言葉をかけた。

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