第53話 諸悪の根源

遠くから三人が、五体の獣と戦っているのを、ユリアはアヒムの肩に寄りかかって見ていた。手助けしたいのに、体が思うように動かない。


「きりがないな。獣たちは疲れを知らないようだ。あれでは消耗戦だ」


「みんな友達だったんだもの。止めを刺すような戦い方はできない……」

 

いくら人間離れした獣といえども、先程までは銀色の髪に青い目を持つ、〈白の一族〉の同胞たちだった。敵味方で分かれていたとしても、やはり同じ隠れ里に住む仲間だったのだ。

 

もとを絶つ必要があるのだ。彼らを元に戻す方法があれば。

ふいに通路付近に立つゴッドフリートの姿が目に入った。

よく見ると、彼は本を開き、それを懸命に読んでいるように口元を動かしているのだ。

ユリアは目を細め、その口元に目を凝らす。


「呪文……?」


「ん? どうした?」

 

ゴッドフリートは、時折ちらっと獣たちに目をやっては、唇をずっと動かし続けている。

ユリアは獣とゴットフリートを見、一つの考え浮かんだ。

確かめてみる価値はある。

 

戦う三人に目を移すと、三人とも動きが鈍くなっている。

それもそのはずで、彼らはこの戦いに入る前にそれぞれ力を使いはたしているからだった。カイとラルフは儀式によって、ライナルトはユリアの傷を癒すために。


今、敵と対峙できていること自体が、奇跡に等しい。

だが、それもいつまでもつのか。

ユリアはさっとアヒムを見た。


「兄様、ゴッドフリートに攻撃して」


「え? あの子供にか?」


「子供でも、〈銀海の風〉の総帥なの! 立派な悪の親玉なんだから‼」


「まあ、ちょっと脅かすくらいなら構わんが」

 

アヒムは渋々という体で、ゴッドフリートのいる方角に手を掲げ、詠唱する。


「『偉大なる地の神ボードゥエルよ、我に力を……降れ、砂の雨!』」

 

とたん、ゴッドフリートの頭上に、緑色の魔法陣が出現し、大量の砂を落とした。

ゴッドフリートから意識は逸らさずに、獣たちへと視線を走らせる。


「止まった!」


今まで何の躊躇もなく攻撃し続けていた獣たちが、一様に動きを止め、迷うように首を巡らしている。やはり、ユリアの考えは正しかったのだ。

獣たちは、ゴッドフリートの呪文で傀儡のように操られていたのだ。

糸を切れば、人形は動けない。この場合、糸はゴッドフリートの口にする呪文だ。

そうとわかれば、話は早い。ユリアは立ち上がり、まっすぐ砂ぼこりを見据えた。


「兄様、援護をお願い‼」


「え? ええ⁉」


理解できぬまま間抜けな声を上げるアヒムを背に、ユリアは駆けだした。

砂ぼこりの中のゴッドフリートの元へ。

黒曜石の床を蹴りながら、ユリアは砂ぼこりの中に飛び込んだ。


「ケホッ、ケホッ」

 

目に砂が入らぬよう薄目になったユリアは、咳き込むゴッドフリートを見つけた。

彼が両手で抱えている砂まみれの本に視線を固定し、ユリアは本に飛びついた。


「‼」

 

本が引っ張られることで、ユリアの存在に気付いたらしいゴットフリートは、口に砂が入ることも厭わず、またも呪文を唱えはじめた。

 

とたん、駆け寄ってくる大きな足音が聞こえ、ユリアは振り向く。

砂ぼこりの舞う空間に、風を切るように一体の獣が飛び込んできた。

ユリアは本を引っ張りながら、片手だけを掲げ、すかさず詠唱する。


「『聡明なる風の神ヴェンツエルよ、私に力をお貸しください——吹き荒れて! 風の輪舞!』」


出現した黄色の魔法陣から、風の鳥が現れ、砂ぼこりの中を飛び回る。

すると、砂はもっと舞い上げられ、静まりかけていた砂ぼこりがまたも、空中にばらまかれる。


「この馬鹿‼ 風を使う奴があるかー‼ 火だ! 火で燃やし尽くせ‼」

 

アヒムの叫ぶ声が聞こえる。

どうやら近づいて来てくれているようだ。


「馬鹿はてめぇだ‼ 砂ぼこりの中で火なんか使ってみろ! 俺ら全員、木っ端みじんだぞっ!」

 

カイの声もする。


「水を使え、ユリア! 雨で砂を鎮めるんだ‼」


ラルフの声もする。

だが、粉塵をものともしない獣は、飛び上がるとユリアに三本の鋭利な爪を向けて、思い切り振り下ろそうとした。


それを避ける為、横に飛びのこうとしたその時、ユリアの耳に、何かが破れるような音が飛び込んできた。ユリアは目を細めながら手元に目を落とす。

開かれた魔導書の上部が、わずかに裂けている。

真新しく見えた革張りの表紙だったが、やはり経過した年月が、強度をだいぶ落としているようだ。


ユリアは獣の魔の手が迫っていることも忘れ、両手でがしっと本を掴み、全体重を使い、背中を地面すれすれになるくらい、引っ張った。

その瞬間、獣の狙いがわずかに逸れ、鋭利な爪は魔導書のど真ん中に振り下ろされ、べりべりべりと聞きようによっては子気味良い音が響いた。


「っ‼」

 

ユリアはそのまま、すてんと背中から落ちる。

手には魔導書の片割れを掴んだまま。

だが、獣は赤黒い目を見開き、避けた口を嬉しそうに大きく開けると、仰向けになったまま動けないユリアに突進した。

 

ユリアは思わず目を瞑る。

瞬間、左頬にかすかな風を感じた。

その直後、「うぎゃあああああ!」という絹を切り裂くような叫び声が上がり、周囲を舞っていた粉塵の流れが変わった。


「大丈夫? ユリアちゃん」

 

降って来た声に、ユリアは目を開けて、顔を上げる


「ライナルト……」

 

薄らいだ砂ぼこりの中、ライナルトが立っていた。

手には彼の背よりもある十文字槍を構え、肩越しにこちらを振り返っている。

いかにも穏やかそうな垂れた目を、優し気に細めている。

ユリアは胸の奥から何かが込み上げそうになって、持っていた本の片割れを胸に抱き込んだ。


「よくもやってくれたね。でも、いいや。いずれ、取り返しに来るよ。またね、ユリア」

 

囁くような声が聞こえ、ユリアは周囲を見回した。

けれど、薄らいでくる砂ぼこりの中に、白装束のゴットフリートの姿が見えない。

敵の気配が消え、ライナルトは槍を背中に回し、腰帯に差す。それから、ユリアの傍に片膝をつくと、ごく自然な動作で、右腕を首から肩の下に、左腕を膝の下から差し込んで、ひょいっと持ち上げた。


「俺、絶対安静って言わなかった?」


すぐ近くでライナルトの声がして、ユリアは俯むいた。

あまりに近すぎて、気恥ずかしい。


「絶対とは言わなかった」

 

照れ隠し半分で、口をとんがらせて言うと、ライナルトは苦笑した。


「あれぇ。そうだっけ? じゃあ、今から絶対安静で。言ったからね?」


「聞こえませーん」


「うわ、ひどいな。こんなに近いのに」


「ち、近くない!」


「えぇ? これ以上、近づけないってくらい近くない?」

 

つんと澄ましたようにそっぽを向いてから、ユリアは静けさを取り戻した、青の広間に目を向けた。

 

黒曜石の床には白い砂が巻き散らされているし、おそらく後方には、ユリアの血のりがべっとりだ。けれど、それだけだ。それ以外は、来た時と何一つ変わっていない。神々しいまでの青い光。それに満たされた、封印を守る部屋。

 

ユリアは胸に目を落とす。

引き裂かれた魔導書の半分は、今ユリアの手の中にある。

そう、もう一つ違うことと言えば、この魔導書だ。

広場の中央に鎮座する黒曜石の卓には、もう封印された書物は載っていない。


それと、もうひとつ。


「ライナルト、向き変えて。くるりと反転!」


「んん?」


「いいから」

 

ライナルトは不思議そうな顔をしながら、くるりと回転する。

目に入ったのは、銀の縁取りと青のビロードが見事な空の玉座だった。

儀式の間、そこでほくそ笑んでいた総帥はもういない。

ユリアは魔導書の片割れを強く抱きしめた。


——よくもやってくれたね。でも、いいや。いずれ、取り返しに来るよ。またね、ユリア。

 

囁かれた言葉が、耳から離れない。

この先、何度も木霊して、ユリアの耳に刻み込まれるだろう、呪いの言葉。


(渡さない……これは絶対渡さない‼)


ユリアは碧い瞳に強い光を湛え、玉座に座る幻影に宣戦布告した。

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