最終話 自由とエピローグ

「ねえ、ヨウ。私も愉しかったですよ。多分、一生忘れられない思い出になりました。……でも、今日でお別れです。ヨウ、幸せになってくださいね」


 こんな時にもシノはきれいにわらう。透明な笑顔にヨウの中では様々な感情が渦巻く。これで終わりなんて、呆気なさすぎる。本当にこれでおしまい? また、あの孤独な生活に逆戻り? 


 ふと考えた。今、ヨウにはシノしかいなかった。


 アオだっていない。父もいない。母は行方不明だし、どうせ会えたとしても幸せにはなれない。この先に待っているのは絶望的な孤独。今までは独りでも大丈夫だった。シノと出会う前はそれが普通だった。

 でも、シノという少女はあまりにもヨウに足跡を残しすぎた。シノという存在が消えてしまったら、他の何にも埋められないくらいに、深い足跡を。


 だから、シノに死んでほしくない。


 ――なんて自分本位なんだろうか。失笑してしまいそうになる。でも、それがヨウという人間だ。今まで振り回した分、こっちが振り回してやるのだ。それでシノが救われたのならば、これぞウィンウィンの関係なのではなかろうか。


「それはずるいんじゃない。シノだけが勝ち逃げみたいじゃん」


 ボソリとつぶやく。風にかき消されなかったのは奇跡だと思った。今日は風がヨウに味方してくれているらしい。

「え?」

 シノはきょとりと目を瞬かせた。珍しい顔だ。シノの表情にはいつでも余裕があった。だからこの鳩が豆鉄砲を食らったような顔というのはヨウの記憶では初めて見る顔だ。

「だって、シノはきれいなままじゃん。ヨウだけシノに穴を開けられて哀れ。ねえ、これってずるくない? ヨウだけシノに傷跡を残せないじゃん。不公平だよ」


 ああ、筋が通ってない。ひどい誤謬だ。ただ幼児が我儘を喚いているにすぎない。ただ自分がこうしてほしい、その一心で紡がれた言葉。シノを慮っているんじゃない。自分を慮っているのだ。

 でも、ヨウが人生で一番感情を込めた言葉だ。シノに死んでほしくない。どれだけ綺麗事を並べても、それだけは揺るがなかった。でもそれが全てだった。ばーか。


「私は……」

初めてシノが言葉に詰まった。


「私は……ヨウが思っているよりも、きれいな人間ではないんです。だから、言葉遣いだけでもきれいにしようと思って敬語にもしたのに。わたしは、私の本質は、何も変わっていない。変えられなかった」


「ヨウはそれに安心したけどね。そんな簡単に変えられるのなら、シノという人格がないということだから。言葉遣いが変わっても、シノはシノなんだって思った。シノは嫌でもヨウはそれに一番ほっとしたんだよ」


「でも、それでも……わたしは、変わりたかった」


「忘れようよ。過去のことなんて。忘却はプレゼント。今を大切に生きなきゃいけないんでしょ」


 そう、忘却はプレゼントだ。今を大切に生きられるから。人が自己防衛するための道具でもある。

 でも、記憶が褪せていくからプレゼントなんじゃない。どんなに嬉しい記憶もどんなに辛い記憶さえも人に受け入れる余裕を与えてれる。だから、プレゼントなのだ。人に落ち着きを、そして強さを与えてくれる。


 忘却は残酷だ。あんなに愛した人でさえ、だんだんと忘れてしまう。楽しかった記憶も、哀しかった記憶も全て。でも、だからこそ今が美しいのだ。死を恐れていては何も始まらない。


 かの有名なシェイクスピアだってこういっている。ジュリアス・シーザーでの台詞。

 ――臆病者は、本当の死を経験するまでに何度も死ぬ思いをする。勇者が死を経験するのはたった一度だ。



 忘却を恐るるなかれ。だからこそ今が美しいのだ。



「ねえシノ、自由になろう。ふたりで」

「私は……自由になれますか」

「なれるよ。それが自由だもの。……シノはさ、生きたい? ヨウならその願いを叶えてあげられる」


「私は……」

 シノは俯いた。そして顔を上げた。覚悟を決めた表情。

「私は、生きたい」

 ぽつりと言葉を溢し、初めてシノは涙を流した。

「生きたい。親の言いなりに死んでなんかやるもんですか。私は、わたしのまま生きたい」


 それは初めてシノが感情のままに迸らせた言葉だった。ヨウがしてやれるのは、その言葉を受け止め、叶えてやることだった。


「生きよう。ふたりでしあわせになろう、シノ」

「ええ」


 お互いもうしがらみなんてなかった。ヨウに残っていたのは家だけ。シノには家族という名の血縁がいたが、それだけだった。よく考えれば二人とも高校だって決まっていなかった。


「いこう、シノ。しあわせになれるところに」

「ええ、ヨウとなら何でもできる気がします」

「うん、なんでもできるよ。遠くに行こう」

「ええ、だれも私たちを止めることはないんですから」


 二人はどちらともなく、花の胸飾りを並べて渡り廊下に置いた。そして風のように駆けていった。


 渡り廊下には卒業生としてもらった黄色いガーベラが二輪。時折、爽やかな春の風がそれらを撫でていった。



 世間に見放されたふたり。

 でも、不幸ではなかった。

 むしろ、しあわせだった。

 もうふたりは自由だった。



 ♢ ♢ ♢



 今朝のニュースをお伝えします。今月の十一日から行方不明になっている少女二人の行方ですが、とうとう今日未明、警察による捜索が打ち切られることになりました。

 

 少女らの所属していた中学校には、少女らのものと思われる卒業生用の花が学校に二つ並べて置かれていたことなどを踏まえて、警察は何らかの事件との関連性を調べていました。


 しかし、その調査も本日打ち切られることになりました。少女らについて情報があれば、〇〇警察に連絡をお願いします。


 続いてのニュースです――



 ♢



 ヨウとシノが失踪して遺されたものは二つ。


 ヨウの家の玄関には写真が抜き取られたと思しき写真立て。「いい写真ですね」とシノは微笑んで写真を指差した。「いいでしょ、アオったらすごいいい顔してる」「ヨウもですよ」写真と同じ笑みでヨウは笑った。


 シノの部屋には「忘却はプレゼント。だから自由」とだけ書かれた手紙。

 ヨウが笑って「その文、きっと誰も理解できないよ」と言った。シノは「意味なんかわからなくてもいいわ」と笑った。「私が書きたかっただけですから」と。


 ♢


 行方不明なんてこの国だけでも毎年何万人もいる。その中にヨウもシノも埋もれたのだ。世間はいつしか二人の少女の存在を忘れた。


 でも、ふとした瞬間に二人は誰かの胸の中で生きていた。例えば文化祭。ああ、そういえばうつくしい生徒がいたな、ただそんなくらい。でもそれでよかった。


 ♢


 それからヨウもシノも自由を謳歌した。誰も二人を知らない世界。ヨウとシノの天才的な頭脳と豊かな知識をもってすれば、不可能なんてどこにもなかった。


 ♢


 それから世界各地で二人は多くの爪痕を残していった。そのたびに誰かの記憶を引っ掻いてゆき、そして風のように去っていくのだ。彼女らを知るどんな人の記憶にも、よく笑うふたりが残された。


 謎めいたふたり。でも誰よりも幸せそうなふたり。


 そんなふたりは、数十年経ったある日、突如姿を消した。彼女らをよく知る人は哀しんだ。でも、記憶にあったのは幸せそうなふたり。


 「いやあねぇ、最近忘れっぽくってねぇ」とは、昔は何でも憶えられたという女性の口癖。その度に「年はどうしようもないもの。私も老けたわ」と、昔は絶世の美女だったと思しき面影を残す女性は相槌を打っていたのだ。

 彼女らは歯車が噛み合っているようだった、と二人をよく知る人は口を揃えていった。

 

 それでも、そんな記憶もだんだんと褪せていき、やがて全ての記憶から二人の存在は消えた。


 ♢


 彼女らにとって、正しく忘却はプレゼントだった。でも、そんなことはどうでもいい。

 ただとてもしあわせになれた。

 それが一番だった。




――――――――――――――


 ここまでお読みくださりありがとうございました。シリアスな話が続いたりもしましたが、少しでもお楽しみいただけのであれば幸いです。感想、誤字脱字などお気軽にコメントしてください。

 またどこかでお会いできたら嬉しいです。本当にありがとうございました。

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忘却を夢見た天才少女の話 淡青海月 @sin_zef

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