第44話 忘却はプレゼント

 ――シノとは少しばかり難しい話をして、その会話を愉しんだこともあった。


 大抵はヨウが意味の分からないことを言って、シノがそれに取り合ってくれるという形だった。けれど、他の同年代に言っても伝わらなかったことがシノには伝わったのが嬉しかったのだ。


 その日もヨウが忘却について意味の分からないようなことを言い始めたのが発端だったと思う。


 冬にはあんなに凍てついた裏路地は、もうやんわりと春先の暖かさを帯び始めていた。あの日も月が煌々とシノを照らしていたと記憶している。


 ♢


「忘れることはプレゼントなんだよ、シノ」


 月の綺麗な夜にするような話ではないな、なんてことがちらりと頭をよぎる。シノは裏路地なんて薄汚い場所にいても、相変わらず美しかった。シノはやっぱり夜の月の似合う少女だった。


「まあ、それはそれは。少し論理が飛躍しすぎてはいない……」

 シノはヨウの言葉を受け止めた上で、自分の思ったことを率直に言ってくれる。それが一番うれしかった。


「あはは、その通りだね。でも、それくらいでいいんだよ。だって、ヨウは何一つ証拠も説明する材料も持ち合わせていないのだから」


 でもね、と話を続ける。

 今日は少しだけ気分が高揚していることを理性が感じ取っていた。たまにこういう日があるのだ。アドレナリンに侵さされた脳で、自分の思考を全てをぶちまける。


「ヨウはね、全部が記憶で補えたら考えることをしなくていいと思うんだ。知っている記憶を辿れたら、思考なんて働かせなくてていいんだから。ただ頭の中にあることをつらつらと述べるだけ。でも、それってコンピューターと変わらないじゃん。


 だから、人は忘れることで忘れた記憶を補おうと考えるんだよ。或いは、自分の知らないことを今までの経験や知識で補おうとする。それがいくら間違っていようとも、考えただけでそれはコンピューターより偉いんだから。そして、新しいことを考えようとしただけ、コンピューターより生産性が高い」


 シノは静かに耳を傾けていてくれた。最後に大きく頷いた。


「成程ね……。ヨウの言い分をまとめると、人に忘却が備わっているからこそ、人は思考する。それこそがコンピューターよりも人の方が優れている点。そうよね」


 正解だというように頷いて見せる。それを見てシノは言葉を紡ぎ続けた。


「なのに、何でも憶えられるヨウにはそのシステムが欠けている。だから、人にはあってヨウに備えられなかった忘却というものが、まさに人類に与えられたプレゼントだという考えに至った。

 ――普段のヨウを見て思ったのだけれど、違うかしら……」


「流石シノ、良くわかってるじゃん」

「当然。私は凡人ゆえ、思考というものをよく働かせていかなければ生きていけないから……」

「あは、凄い嫌味」

「嫌味を言ったので。そういうわけでヨウは忘却の薬を開発しているという感じなのね」


 そう、今ヨウが執心しているのは忘却の薬の開発だった。

 無いのなら作ってしまえホトトギス。なんちゃって。でも、意外とそれが真理だったりする。


「まあ……半分正解、半分は少しずれているって感じかな。好奇心だけでわざと記憶を失おうとするなんて、さすがに狂っている」

「ヨウは狂っているでしょう?」

「うん、それもそうだね」


 シノはふふっと笑った。ヨウも笑った。そうだった、ヨウは狂っている。それだけは揺るぎない事実だった。でもそんな狂人のヨウに付き合ってくれているシノもなかなかの狂人だと思う。


 精巧精緻に作られているのに、どこかのねじがいくつか外れている。

 そんな不整合さをシノは持ち合わせていた。それでも完璧なように見える。人間というのは、どこか不完全なものなんだろう。逆にそこが魅力になりうるというのをどこかの本で読んだ。


「……そう、ヨウは狂っている。それは紛れもない事実。でも好き好んで記憶を失おうとしているわけじゃない。ねえ、シノ、忘却はプレゼントなんだよ。どうしてかわかる……」


 シノは首を傾げた。視線を斜め下にずらして口元に手を当てる。どこか優雅な仕草だったけれど、それはシノの思考する仕草だった。それがヨウにとっては羨ましくもあった。ヨウは記憶するのは好きだったけれど、思考することは人より少なかったから。記憶を辿る方が多かったのだ。


 だから、思考に没頭できる実験というのはヨウの知的好奇心だとかそういったものを存分に満たしてくれたのだ。だから好きだった。


 シノはすっと顔を上げた。また目線をヨウに合わせる。


「……もしかして、死への恐怖を和らげるため……」


 感情の読めない瞳。それはシノの人生を見たような錯覚に襲われる。シノには正しく人を呑み込むオーラがあった。吸い込まれそうな瞳。

「大正解。おめでとう、完璧な答えだよ……」 


 ――死への恐怖を和らげる。それは、ヨウと考えるところが同じだった。それがヨウにとって心地よかった。この少女なら、ヨウの意味不明な言葉をきちんと理解してくれる。それは信頼と呼ぶものに近いのかもしれない。


「そう、忘却は死への恐怖を和らげてくれる。それは他人の死かもしれないし、自分の死かもしれない。でも、まずは他人の死が大きいと思う。

 ……人は、生きていると必ず身近な人を喪失する。余程早死にしない限りね。それは親かもしれないし、きょうだいかもしれないし、親友かもしれないし、恋人かもしれない。彼らを失った瞬間は、きっとすごく苦しい」


 シノは首を傾げて頷いた。曖昧な仕草。


「私はまだ体験したことがない。けれど、きっとその通りなのかもしれないわね……」

 シノの感情の乗っていない声は何かを押し殺しているようにも聞こえるし、本当に感情がないのかもしれない。


「ヨウだってまだ実感したことがないよ。けど、いろんな本を読んでわかったのは、他人の死というのは想像を絶する辛さだということ。愛が重ければ重いほど、大切にしていればしているほどそれは辛くなる。

 ……でも、人は幸か不幸か忘れる生き物。その痛みは忘れられないだろうけれど、それでもいつかは色褪せて行く。どんなに辛いことがあっても、段々と忘れていくんだよ。すぐじゃない。でも、やっぱり数十年経ったら人は忘れるんだよ。普通はね」


 空に視線を遣る。もう夜の色はだんだんと褪せてきて、白い朝がやって来ようとしていた。記憶みたいだと思った。


「……そして、いつかは自分の死に対する恐怖だって段々と失われて行く。認知症ってある意味、死への恐怖を和らげるために必要なんだと思うよ。周囲の人間は辛く哀しいけれどね。

 でも老化と共に忘却が色濃くなってゆくのは、長生きするようになった人類に与えられたプレゼントみたいなものだと思う。まあ、これは極論だし綺麗事なんだけどね。実際に親しい人が認知症になったら、ヨウは耐えられないだろうから。でも、だからこそ忘却はプレゼント」


 シノは真顔で頷いた。続きを催促するように瞳を此方に向ける。もう話さなくてもシノのことが理解できた。


「そう。何も、完全に忘れるというわけじゃない。ただ、忘却は辛さを乗り越えるために必要なプロセスなんだよ。記憶が色褪せていくというのは、人が前に進むために必要なんだとヨウは思う。そうでないと過去に囚われたまま帰ってこれないから」


 そこまでヨウが話しきってようやく、シノはため息交じりに言葉を吐きだした。


「……だから、何でも記憶してしまうヨウは忘却がプレゼントというのね」

「うん、そういうこと」

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