第46話 狂った約束

「ヨウの計画を話してくれませんか。ヨウは、忘却の薬を創って何がしたいんですか。ただ忘れたいだけにしては動機が小さすぎます。何か壮大な計画でもあるのですか」


 どきりとした。


 折角シノが問うてくれたが、ヨウにそんなものはなかったからだ。

 記憶を失う薬だなんてありえないことに挑戦するのに、動機がただの自己満足の世界から抜け出せていなかったのだ。どこかちぐはぐだとシノに言われてようやく気が付いた。


「壮大な計画なんて……ないよ。どこにも初めからなかった。ただね、ヨウは自分の記憶を操作できるようになりたかったの」

「自分の記憶を、操作する」

 シノはヨウの言葉を吟味するように繰り返した。


「うん、そう。ヨウは何でも憶えられるってシノは知っていると思うんだけど、裏を返せば、忘れることができないということ。ヨウだって、何でも記憶できるのは便利だと思っているし、このスキルを持てて良かったと思っている。

 でも、それは残酷だよ。嫌な記憶だって、忘れることができない。誰かの死にぎわだって鮮烈に覚えられてしまう。そんなのって、絶望でしかないんだと思うよ」


 もし、アオが死んだら生きていけない。死に際をずっと引きずって生きていかなければならない気がする。人には当たり前に備えられて、ヨウにだけなかったもの。要らない能力は、進化の過程で淘汰される。

 忘却なんて、一見要らない能力のように思われる。でも、人類が数百万年以上生きてきて忘却の能力が失われなかったというのだから、それは人類に必要だということだ。


「――だからヨウは、忘れるという行為を薬によって補ってほしいと思ったの。他人が当然のように持っていて、ヨウにだけなかった忘却を。少なくとも、ヨウが全ての経験を乗り越えられるくらいおとなになるまでは、そんな薬がほしくなった。でもね、この計画にははじめから大きな欠陥があったの」


 そう、この計画には欠陥があった。何よりも重大な欠陥が。


「それはね、この実験には被験者がいないということ」

 被験者。それは実験に必要不可欠なもの。

 動物だけではダメで、最終的には人間での実験も必要だった。しかし絶対に名乗りあげてくれる変わり者なんていなかった。

 シノもそれは容易に想像できたのだろう。頷いて言葉を紡ぐ。

「まあ確かにその実験は、成功しても失敗しても嬉しいことはないものね。世間一般では、忘却は苦痛。忘れたくないと泣き叫ぶことはあっても、忘れたいと泣き叫ぶのはあまり一般的ではない……」


「そうなんだよね。まあヨウが被検体になるしかないんだけど。それは別にいい。ヨウの自己満足のための実験だから。……だけど、そこで心配なのが実験に失敗したとき。ヨウはまだ死ねないの。アオがいるから」


 なんとも矛盾している。アオがいなくても生きていけるようにするための実験なのに、アオがいるから死ねない実験になっている。

 勿論、ただで狂うのは赦されない。でも、忘却の薬は脳に作用するもの。一歩間違えれば廃人になる。


「だから、シノにお願いしてもいいかな……。ヨウがもし実験に失敗したら、その時は――」

 ――アオを助けてくれる?


 そんなことを訊けるはずがなかった。

 第一、シノとアオは顔を合わせたことすらない。ヨウとシノだってまだ出会って大して時間も経っていない。ただ夜に出会ってアルバイトでつながっただけ。シノのことだって何も知らないし、シノもヨウのことをたぶん何も知らない。

 そんな烏滸がましいことを頼めるはずがなかった。なのに。


「わかった。私が、ヨウの保険になるわ。尻拭いでも何でもする。これで満足?」

 真摯な瞳だった。決して誇張でも軽口でもないことがありありと伝わってきた。


「……シノにメリットでもあるの?」

 あまりにも確信めいた言い方に違和感を覚える。おかしい、だって、こんな自信満々に誰かの保険になるなんて言えるはずがなかった。それも、ヨウはシノの血縁でもなければ、幼馴染でもなかったのだから。お互いの家族構成だって知らないはずなのに。シノに利益がない。


 シノはやんわりと微笑んだ。

「ええ、もちろん。多分、誰にも理解されないだろうけれど。……私はね、ずっと私ではない誰かになりたかった。それか、誰も私を知らない世界で自由になりたかった」


 訥々と語りだすシノ。その瞳に宿るのは、悲哀。


「私は両親から目立たなくて静かなシノを求められていた。だって、私は中学を卒業したら家を継がなければならないから。それゆえアルバイトの真似事だってしていた。そうね……だからこそ私は表の世界にあまり禍根を残してはいけなかった」

「シノの家業は裏稼業だもんね」

「ふふっ、ヨウのダジャレは高尚……」

「ごめん、くだらないこと言ったねー」

 あははと笑う。

 だってシノの表情があまりにも悲しそうにみえたから。シノには笑っていてほしかった。一瞬の気休めにしかならないし、ただのヨウのエゴだけれど。

「ふふふ、ヨウといると楽しい」

 でもね、とシノは続ける。


「私は、最後の一年くらいはっちゃけたかった。人の目も気にせず、自由にのびのびと生きたかった。でも、誰もシノを知らない世界でないとそれはできない。今通っている中学校とか私の家とかは、もう先入観がこびりついてしまっているから。シノという人間は影が薄いという先入観」


 そこでシノは言葉を切ってこちらを見た。さっきまで悲哀を秘めていた瞳は、今は一抹の希望の光を宿していた。希望にしてはひどく静かな光だったけれど。


「……ヨウ、私の夢を話していいかしら」


「何なりと」

 そう言うしかなかった。シノの全てを受け入れてもいいと思った。そこにあったのは憐憫かもしれない。親という大人だとか社会に雁字搦めなせいで、自由に生きられないシノ。彼女に同情してるのかもしれない。醜いね。


「私の夢はヨウの学校に転校して、私のしたかったシノになる」

「……それが夢?」

 正直、少し拍子抜けした。


「ええ。それが私にできる最高位の夢です。私は、私ではない誰かになりたかった。少なくとも、私はおとなしくて静かなシノにはなりたくなかった。それは親が望んだシノだから。それを壊すのが、私の最後の反抗かもね……」

 少しだけ理解できた気がした。


「なるほどね……。でも、転校なんて簡単にできるの? ヨウはシノがうちの中学に来てくれるなら大喜びだけど」

「転校は、親に頼めばいけるはず。そのために今まで私は全てを我慢してきたから。あとは……そうね、誤解しないでほしいんだけれど、私は別にヨウとお友達になってほしいというわけではないの。むしろ学校では他人として振る舞ってほしい」

「他人として?」

それは少し、いやかなり驚いた。ヨウはシノと普通の友だちになれると思ったのに。


「ええ、他人として振る舞ってほしいわ。夜だけの友達ってなんだか面白くないかしら。……それに、私はしがらみのない世界に行きたいの。

 これはヨウにだって悪い話ではないはず。同じ学校にいると私はよりヨウの保険になれるし、私は私として自由に羽を伸ばせる……そうして私の最後の一年の計画は完成するの」


 舞台役者のように手を広げてシノは笑う。決して狂気には染められていない、澄んだ笑い声。矛盾している。


 話を要約するとこうだ。

 ヨウは忘却の実験をするが、最悪シノが尻拭いをしてくれる。

 その見返りとして、ヨウは転校してきたシノに他人のふりをする。

 わけがわからない。特にシノの要求は、誰にとってメリットがあるかよくわからないものだった。


「……ヨウは願ってもいない話だけど、それは大丈夫なの?」

 そんな夢を叶えてどうするのか。

 ――最後の一年の計画だなんて、まるでシノがそのあと死んでしまうみたいじゃないか。


「ふふっ、大丈夫。全て上手くわ。ヨウにとってもね」

 軽やかに笑う。嗤う。わらう。

「ねえ、ヨウ。ヨウは私の夢を手伝ってくれる……」


 こちらから話し始めたというのに、シノのペースに完全に飲みこまれていた。シノは退路を断つのが得意だ。それから、人を自然に自分のペースに巻き込むことも。


「……わかった。やろう、シノ。ヨウも助かるし。これがウィンウィンの関係ってやつだね、そうだよね」

 半ば懇願だったように思う。願望とも言う。

「ええ、そうよ。では、ヨウ。約束ね」

 そういってシノは満面の笑みを浮かべた。


「うん、約束」

 そうして世界で一番狂っていて意味の分からない約束が交わされたのだ。

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