第5話 夢のような夜

「――これを平方根といいます。覚えてくださいね。それから……」


 教師が何事かを言いながら黒板に字を書いている。どこか規則正しいように聞こえる、黒板とチョークのぶつかる音。体育の授業をしているのかどこか遠くからホイッスルが聞こえてくる。


 眠い。

 授業は眠かった。だって全部知ってることだもん。何も楽しくない。でも、寝られない。

 寝たら評価も悪くなる上に普通に失礼だ。何より教師に目をつけられると後々厄介である。授業中に指名されることが多くなるからだ。

 それはいいのだが、好きなことを考える時間が減るのは勿体ない。


 そうだ、好きなことを考えたらいいじゃない。眠気も吹っ飛ぶし、有意義な時間を過ごせる。やっぱり天才だ、自分は。これは倒置法。はい。


 迷わず通学用鞄に手を突っ込み、図書館で借りた本を取り出す。


 『空を飛ぶために必要な知識入門』

 どこかの誰かが書いた、著者不明の本。いつ書かれたのかもわからない、知る人ぞ知る怪奇本と言われている。でもこんな面白そうなタイトル、読むしかないじゃん。


 ♢ 


「道具を使わずに空を飛ぶなんて、人類の夢でしょー?」


 以前、これを妹のアオに言ったことがある。確かよく晴れた日だった。空を飛ぶには絶好の日だな、なんて思った記憶があるから。


「えー。飛行機があるからいいじゃん」

 アオのにべもない返事。めげずに返す。

「違うよ、道具がないからいいんだよ。だってさ、もし来世ってのがあったら来世は鳥になりたいでしょー?」

 青空を自由に羽ばたける鳥に。


「えー?来世も人間がいいよ。何で鳥になるの。みんな来世があったらイケメンか美少女になりたいって言ってるよ」


 それはそれでどうかと思うが。自分の価値観というものがおかしいと気付き始めたのはその頃だったと思う。少なくともヨウにとって空は憧れだった。


 ♢


 『空を飛ぶために必要な知識入門』。

 ハードカバー特有の重厚な表紙をめくる。少し古い紙の匂い。このぱらりとページを繰る感触も好きだった。


 そこからは授業中ということを忘れて本に没頭していた。先生ごめんなさい。でも、読み始めたら委細どうでもよくなった。



 パタン。最後のページを読み終えて、本を閉じる。

 面白かった。辞書みたいな厚さの本だったから、何よりも読みごたえが抜群だった。一言一句脳に刻み込んだ。これでいつでも読み返せる。何でも記憶できる才能があってよかった。


 有言実行。

 次に先程読んで面白かったところを、頭の中にインプットした記憶で読み返す。

 静かに目を瞑る。そうやって脳裏に刻まれた文字を読むのだ。

 こちらの方が、ページをめくる手間と時間が省けて集中できるのだ。頭の中で文字が躍っている。

 この瞬間が一番好きだった。自分も、文字の中で空を飛べるのだ。


 

 流石にもう面白いところを繰り返しすぎた。そろそろ現実に帰らなければならない。


「ふう……」


 読了後の何とも言えない解脱感に襲われる。アドレナリンが切れた感じ。フル稼働させられた脳は糖分を欲していた。角砂糖を舐めたいな、なんて思うくらいには。


「お腹すいたなー」


 ――あれ?

 思ったより声が響いた。目を開ける。

 はっとあたりを見回すと教室には誰もいなかった。


 ――しかもあろうことか、今は夜。教室は暗くなっていた。あまりにも存在感を消しすぎていたのか、教室の電気は消されていた。

 真っ暗な教室。

 外からの街灯の光と月明りだけが教室に光と影を落としていた。おかげでうっすらと時計の文字が読めた。時間は、二十三時。完全なる夜だ。


 ――気がついたら夜だった。


 そんな、小説の一節みたいなことが起こるなんて。


 案の定教室の鍵は施錠されていた。流石にちょっと虚しい気持ちになる。そんなに存在感が薄かったのだろうか。


 仕方がないので窓から廊下へ出る。まあ、防犯上はよろしくないのだろうが、まさかここで夜を明かす訳にはいかない。


 カタン。ガラガラガラ。


 古い校舎の窓だから、鍵を開けて窓を開けるだけで何とも主張の激しい音が鳴る。日中は気にしたことがないが、まあまあやかましい音である。


 ふらりふらり。

 何かに憑りつかれたように廊下を歩く。アドレナリンの切れた脳では視界がどこかフワフワしている。この場に誰もいなくてよかった。いや、誰かいた方がよかったかもしれないけれど。


 夜の学校というものは存外不気味だ。

 非常用消火栓の赤いランプがリノリウムの床に反射して、なんともいえずおどろおどろしい雰囲気を醸し出していた。オカルトとかは信じていないから別にいいけど。


「寒……」

 ふと腕を見ると鳥肌が立っていた。でも、今は春。それも夏に近い春。そんなに寒いはずがない。無意識下に怖くなっているのかもしれない、なんて冷静に分析した。


 とりあえず、この狭い廊下は少し気味が悪い。日中は気にしたことがなかったけれど、暗闇の中でみるとまた印象が全く異なって見えるのだ。人は無意識に暗闇を恐れるのだ。


 そんなこんなで吹き抜けの渡り廊下に出る。外の風が吸いたかった。


 夜風が心地よい。月が、綺麗だ。満月でも半月でもないこの月の名前何だろう。記憶を辿る。

 ……確か寝待月なんて名前がついていたっけ。そうだ、そんな名前だ。満月でもないが、その月はいたく綺麗だった。


 そんな美しく輝く月の下に――


 ザアッと風が吹く。そして。


 ――月よりもさらに美しい少女がいた。


 疲労した脳が見せた幻覚かもしれない。そう思ってしまうほどには、その少女はひどく美しかった。


 少女は自分と同じ制服を着ている。恐らくこの学校の生徒なのだろう。紺色のスカートと赤いリボンが風にはためいた。


 風は少女の艶やかな黒髪を静かに攫ってゆく。月に照らされて所々銀糸がゆらめいていた。それから儚さの象徴である白磁の肌。整った鼻梁。月光の所為か、まるで淡く光っているようだった。

 そして上品な長い睫毛。彼女が横を向いているおかげでよく見えた。そして極めつきは背筋のすっと伸ばされた美しい姿勢。その佇まいにはどこか気高いオーラが漂っていた。


 これは、ただの少女じゃない。直感であり確信であった。


「……ねえ、」

 言葉を発すか発さないかのところで、少女が瞬時に振り向く。そのせいで、言葉を最後まで紡ぐことが出来なかった。


 ――だって、その少女が恐らく泣いていたから。


 恐らく、というのは少女が月明りに照らされて逆光になっていたからだ。表情も何もかもよく見えない。


 でも、確かに少女の真っ白な頬に一筋、きらりと光を不自然に散乱するものがあった。

 これは十中八九、水だ。

 

 まだ夜は冷え込むこの季節に汗なんかかかないはず。以上より、少女の頬に伝っていると考えられるのは涙。はい、QED、証明終了。


「……どうして、」

 泣いているの。それも最後まで言葉にすることが出来なかった。


 だって、その少女が何の前触れもなくふわりと飛び降りたから。

 少女の美しい黒髪と、紺色の制服のスカートがふわりと舞った。


 その宙を舞う姿がどうにもクラゲのように見えた。空を自由気ままに漂う、気高く美しいクラゲのよう。


 勿論、それは比喩だ。少女は人間の形のままだったし、空中を舞っている時間は一瞬のことだったはずだから。


 でも、それにしてはあまりにも鮮烈に脳裏に焼き付いた。


 ――時が、止まる。髪の毛がゆらゆらと形を変える様だけがスローモーションに動いている。何かのCMみたいだ。もちろん、重力はあるし、時が止まることなんてありえない。相対性理論を唱えたアインシュタインもびっくりだ。


 そんなことを考えていると、やはり次の瞬間には少女の姿は自由落下を始めた。そのまますぐにヨウの視界から見えなくなる。


 肉体が地に落ちる音を覚悟する。しかしいつまでたっても痛ましい音は聞こえなかった。少し安心したけれど、てんで意味がわからない。


 慌ててバルコニーの柵に駆けよって下を見下ろした。

 少女の影はもうなかった。やはり、地面には落ちていないのだろう。では、消えた少女はどこへ?完全に行方を見失ってしまっていた。じゃあ、どうしようもない。


 ――幻覚かもしれない、そう思うほどに現実離れしていてあっという間の出来事だった。疲れ果てた脳が夢を見させているだけなのかも。


 再び、ふらりふらりとクラゲが水中を漂うように、あるいは夢遊病者のように彷徨い歩いて夜の学校を後にした。



 夜の学校には、秘密がある。暴いてはいけない、秘密が。夜は全てを隠してくれるから。





 朝起きる。いつもの部屋、いつもの服、いつも通りの朝。


 昨夜、学校を出てから家に帰ってきた記憶がない。でも今確かに自室のベッドの上にいる。全てがいつも通りに。


 ……うーん、やっぱり昨夜の出来事は夢だったのかもしれない。だってあまりにも整合性がとれていない。それにしてはやけにリアルな夢だったけれど。


 ――さて、どこからどこまでが夢?

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