私の願いは

間川 レイ

第1話

 1.

 人間なんてすべからくクソだ。なんて、物心ついた頃から思ってる。何で、なんて言うまでもない。私は、幼い頃から親にとことん殴られて育ったから。馬鹿みたいに罵倒されて、育ったから。信じられる人間なんて、いなかったから。


 一体いつから、両親に殴られ罵倒されるようになったか、なんて。今ではもう覚えていない。はるか彼方にある記憶、ほんのりと一握りしか覚えていない記憶の中では両親とピクニックに行ったり、図書館に連れて行ってもらったり。一緒にクッキーを焼いたりした記憶もあるから、何も初めから仲が悪かったわけではないと思う。


 本当に小さな小さな頃は、まだ私は両親を大切な人だと、大好きな相手だと認識していたように思う。一方で、厳しい時には既に厳しかったような記憶もある。私が物をうっかり壊した時にはビンタされた記憶があるし、何より父と今の母が再婚する時、こんな子供なんて育てられないと怒鳴りあっている姿を見た記憶もある。だから、いつから私が殴られるようになったか、なんて。いつから大人を信じられなくなったか、なんて。やっぱり、思い出せない。


 だけど、小4、小5の頃。私の胸が膨らみだし、生理が始まる頃には、既に厳しく扱われていたことだけは覚えている。ちょうど、中学受験を本格的に考え出したことも影響していたのかも知れない。机の脇に何冊も問題集を積み上げられ、解き終わるまでご飯無しねと言われたこと。美味しそうにご飯を食べる家族の姿が羨ましくて、何とか急いで仕上げたら何問も間違えていて。ふざけているのか、馬鹿にしてるのかと料理を投げつけられたこと。高難易度の問題を複数渡され、解き終わるまで寝るなと付きっきりで見張られて、あまりの眠さと解けない苛立ちでパニックを起こし泣き出したら、泣いてんじゃねえと力いっぱい机に叩きつけられたこと。解けない問題を質問に行ったら、これ前にも教えたよねと鼻血が出るぐらい殴られたこと。色々覚えている。それ以外にも友達と喧嘩した罰として下着姿で家を追い出されたこと。友達と遅くまで遊びすぎた罰として夕食が出てこなかったこと。いろんなことがあった。


 勿論、私の両親だって私が憎くてそんなことをしているのではない、と薄々思ってはいた。だって悪いのはいつも私だったし、理由もないのに殴ったりはしなかったから。私が辛い思いをするのは、常に私が悪いことをしたから。きっと両親には理想とする私と言うのが常にあって、その期待を裏切り続けているから両親も苛立つのだ。つまり、悪いのは常に私。そうわかってはいる。頭では分かっているのに、親を憎む気持ちが湧いてくるのを抑えられなかった。


 だって、いい成績を取ったって当たり前みたいな顔をして褒めてもらえない。賞を取ってきたところで、「それで?勉強は進んでるの?」と聞かれるのが関の山。ひどけりゃ「そのために練習なんかしてたの?勉強もせずに?」と詰られ殴られる。だから、私はいつだって賞状は破いて川に捨ててたし、記念品は欲しがる友達にあげていた。


 勿論、そんな生活が辛いと思ったこともある。先生に相談した。周りの大人に相談した。返ってくるのはいつだって同じ言葉。ご両親は君のことが心配なんだよ。相談した私が馬鹿だった。いつも思っていた。そんな事は分かっている。それが辛いから助けてくれと言っているのに。いつだって説教された。そんなに気にかけてくれるなんていい親御さんじゃない。親御さんをもっと大事にしなきゃ。家族なんだから。


 家族だからこんな目に遭わなきゃいけないのか。私は思っていた。思いやっていれば何をしても許されるのか。中学に入ってからは毎日のように殴られていた。勉強は見てもらえなくなったけれど、成績に対する興味関心はますます高まっていった。しばしば殴られたし、しばしば罵られた。「お前は本当にびっくりするぐらい頭が悪いな」「今後の人生どうやって生きていくつもりなんだ」「中高一貫でよかったな。お前のいける高校なんてないぞ」


 私は反論しなかったけれど、私はいつだって叫びたかった。私の限界以上の実力を求めるのはもうやめて。私が1番この世界でよく分かっている。自分がそれほど優秀でないことを。東大京大なんて夢のまた夢。100回死んで生まれ変わった所で届かない。どうやったって無理なものは無理なのだ。私はもう、疲れ切っていた。早く死にたかった。死ねばもう、頑張らなくてもいいから。


 でも私が手首を切るたび、死にたいと言う度に罵るのだ。「死ぬ勇気もないくせに、これ見よがしに手首を切って」「死にたいって言えるほど努力してないだろ」「こんな恵まれた生活させてるのに、ほんとわがままだね」


 私は死ぬ自由すら与えられていなかった。私はシャボン玉が羨ましかった。フワフワ飛んで、パチンとはじける。その儚いこと。そこには自由があった。それに、毎度毎度死に損ねる私が憎らしかった。いや。私だってわかっている。本当に死にたいなら、手首を切るだなんて迂遠な方法を取らず、電車にでも飛び込めばいい。そうしたら確実に死ねるから。そうわかっているのに、それができない。飛び込もうとする度、足が小刻みに震え、息ができなくなって視界が真っ赤に染まる。私は死ぬのが怖かった。それに万が一死に損なったら。きっと両親は怒るだろう。こんなに目をかけてやったのに、裏切り者。家名に泥を塗りやがってと。かつてないほど殴られる。それこそ死ぬまで殴られるかもしれない。それはきっと痛いだろう。苦しいだろう。それが怖くって、私は自分で死ぬことすらできなかった。


 高校に上がって、私はより一層殴られるようになった。それは大学受験が視野に入ってきているにも関わらず、私の成績は低迷しているからだし、私が反抗的な態度を取るからでもある。殴られるたびに何だその目はと追加で殴られる事はしばしばだった。私でも愚かなことだと思う。目を伏せ、殴られるままにしていればきっと両親も満足するだろうに。


 でも、思ってしまうのだ。殴ったところで私の頭が良くなるわけでもあるまいに。何故勉強しない、何故成績が上がらないと絶叫された所でそんな理由知るもんか。その理由がわかれば成績だって上がってる。私だって知りたいぐらいだ。無駄なエネルギー発散お疲れ様。そんな思いはきっと態度に出ているのだろう。毎日毎日馬鹿みたいに殴られた。あんまり髪を鷲掴みにされて引きずり回されるものだから、髪もバッサリ短く切った。あまり意味はなく、毎日同じように殴られ引きずり回された。壁に何度も何度も叩きつけられたし、ある時など馬乗りになって何十発も殴られた。そう言う時は、全身の力を抜いて、体重を床に預けてやるとあまり痛くないことを学んだ。殴られた反動でぴょんぴょん跳ねる私の腕が何だか人形みたいで面白かった。憤怒の形相で私の身体を殴り続ける父親が印象的だった。


 周りの大人は相変わらず話にならなかった。三者面談の時の外面の良い仮面に騙されて、いい親御さんじゃないと話しかけてくる教師。馬鹿の一つ覚えみたいに家族なのだから話し合ってみればと言うスクールカウンセラー。小学校の頃のカウンセラーは相談内容を両親に漏らしたりしたぐらいだから、それに比べれば遥かにマシではあったけれど、クソはクソ。頼りになんかならなかった。


 こんな私でも彼氏は出来る。スポーツもそれなりに出来たし、それなりに他人には親切にしていたし。別に人が好きとかはわからなかったけれど、付き合ってみればそんな気持ちも理解できるかと思って。


 そんな事は微塵もなかったけれど。誰も彼もが、私を普通の女の子としてしか見なかった。適当にプリクラを撮って、遊園地とかで遊んで、仲が深まったら、キスをしてハグをして出来ればその先まで。そんな意図が透けて見える子たちばっかだった。彼らは決まって言う。他人に優しいところとかに惚れました。そんなわけ無いのに。それは私の作ったキャラクター。人当たりが良くて、適度に話が面白くて、スポーツもそこそこ出来る。


 そんなところに私はいない。そう言うキャラクターでなければ悪評が立つからそう振る舞っているだけだ。そして悪評が立てば親に殴られる。家の恥だとか言って。だから私は誰に対しても優しい。誰の悪口も言わない。何なら道化役だってやってやろう。


 だけどそんなの表面だけの関係だ。誰も私の本心を知らない。仮面の下がどんな顔なのかを知らない。気にする事もない。私が笑顔を作れば心から笑っていると思い、怒って見せれば本当に怒っていると思う彼氏たち。本当につまらない。それでもたまには本心を見せてもいいかなと思う人もいる。この人は私の本心を知っても、私を好きなままでいてくれるんじゃないかって、親が嫌いで、他人が嫌いで。本当は死にたくて死にたくてたまらない。そんな私でも。お願いだから私を殺してよ。そう願っている私でも。


 ダメだった。私を好きなままでいて欲しいと願った子も、みんな離れて行った。そんな子だと思わなかった、なんて言いのこして。そう言う時は後悔だけが残る。ああ、また失敗した。信じなければよかった、なんて。私を理解してくれるなんて期待するから裏切られる。初めから期待なんかしなければいいのに。そうすればもう裏切られない、傷つかない。そうわかっているのに、理解しているのに私は過ちを繰り返す。何人か信じて、また裏切られて。


 そんな折だった。私が彼に出会ったのは。


 2.

「彼」は教育実習で私の高校に来ている大学生だった。彼と初めて出会ったのは、ちょうど私がスクールカウンセラー室から出てきた時のことだった。中等部の頃から通い始めたカウンセラー室。大して救いなんて与えられなかったけれど、ちょくちょく通ってはいた。周囲の人間や親に対する鬱憤をぶちまけて、そんなことを言ってはいけませんよと言われるまでがワンセット。そう言うルーティーンを繰り返す事で、やっぱり人間はクソだと言う再認識をしていたのかもしれない。


 そんな時だった。彼と出会ったのは。正直、面倒な時に面倒な人間と出会った。それが正直な感想だった。教育実習生というのは意欲はある。だが、その実態は彼ら彼女らもまた一介の学生に過ぎないのだ。社会経験が足りない。社会的身分が足りない。自分は安全地帯にいながら、意識だけは高くって。事態をしっちゃかめっちゃかにしてから自分だけはトンズラこくような存在。それが私の教育実習生に対する認識だった。それが、小学校の時に頼った教育実習のお姉さんの選んだ道だったから。


 だから、私は内心舌打ちをした。見るからにいかにもな場面ではないか。クラスでも明るめの女子がカウンセラー室から出てくる。普段は明るく振る舞っているけれど、何があるに違いない。なんて。


 果たして彼は声をかけてきた。


「どうしました?何か辛い事でもありましたか?」


 そう、心配そうに眉根をキュッとよせ。どうせ事態が収集つかなくなったら逃げ出すくせに。だがここで何もありませんよと答えるのが経験則上最悪だ。根掘り葉掘り聞いてくるから。そうして出さなくていいやる気も出す。だから私は笑顔で答える。そうです、ちょっと家族ともめてまして。でも大丈夫です。相談できましたから。だからお前は余計な口を挟むな。そう態度でしめす。


 だけど彼は「家族とですか……」と痛ましそうに表情を歪めると「ちょっと話を聞いてもいいですか?」と聞いてくる。グイグイくるやつだ。私は内心軽い苛立ちとともにため息を吐く。こうして明確にノーを突き付けられたら、大体の人間は引き下がるのに。面倒臭い。でも、ここで誤魔化すのが最悪だ。いらない正義感と探究心に火をつけるから。だから私は軽くさわりだけ話す。両親から日常的に殴られてまして。もちろん私が悪いんですけど。どうしたもんかなと思いまして。だが、ここまで話したのは失敗だったらしい。


 更に眉根を顰めると彼は言う。「いや、ちょっとそれ酷くないですか?それに学校レベルで解決する問題なんです?」


 私は内心ほうとため息をつく。大体ここまで話すと、明らかに手に負える問題ではないと手を引く大人が多いのに。もしくは家庭内の問題なら自分が口を出す話ではないと。それに、私が殴られていることを咎めなかった。こう言うと中にはいるのだ、確かに本人に問題があるなら多少殴られるのは仕方がないと言う反応をする大人が。ふざけるなと言いたいけれど。だけど、彼はそうは言わなかった。酷いと言ってくれた。ちょっとは信じてもいいのかもしれない。なんて。そんな考えを首を振って打ち消す。そうやって人を信じて裏切られてきた事を思い出せ。だから私は再び笑顔を作って答えるのだ。何とかなるかは分かりません。何とかなればいいなとは思っています。


 だがその返答は失敗だったらしい。彼はいよいよ表情を曇らせると、二、三度逡巡したあと、意を決したように言ってきた。「すみません。もう少しお話し聞かせてもらえますか。」面倒臭いと内心舌打ちする。失敗したとも。もっと上手く話すべきだった。だがここで断れば話が担任レベルまでいってしまう。それはすこぶる厄介だ。だから私は渋々頷く。彼はホッとしたように微笑むと、私を誘導するようにと中庭へと連れ出した。


 3.

 彼が買って来てくれたホットココアの缶を握りしめて、彼の隣に座る。「それで、親御さんからはどんな感じなんです。差し支えなければ聞かせてください。」その語調の柔らかさに内心僅かながらに驚きながらポツリポツリ話す。


 毎日のように殴られること。毎日のように罵声を飛ばされる事。門限を破ると夕食が捨てられるので急いで帰らないといけない事。勿論こうした事は私が悪いので、仕方がない事。多少はオブラートに包んで、ポツリポツリと話した。


 彼はいい聞き手だった。適宜頷き、適宜相槌を入れる。痛ましそうな顔をしながら。それでつい話すつもりのないところまで話してしまった。力いっぱい殴られると痛い事。特に腕の付け根に当たると骨が折れたんじゃないかと思うぐらい痛いこと。髪の毛を引き摺り回して壁にぶつけられるから、あまり髪を伸ばしたくない事。髪が長いと首がグキッとなるので。私が悪い事は知っていても、毎日馬鹿みたいに殴られるのは辛い事まで話してしまった。


 彼は聞いてくれていた。静かに、黙って。そして私が話し終わると、ただ一言。「それは、辛かったですね。」と言った。言ってくれた。


「辛かったですね」


 そんなことを言われたのは初めてだった。例の実習生だって言わなかった。


「辛かったですね」


 それは無性に私の心に染み渡る言葉だった。胸の底にストンと落ちるような、奇妙に腑に落ちるような。納得するような感覚。ジワジワと、何かが迫り上がってくるような感覚。え、え?思わず間抜けな声が漏れる。まさかそんなことを言われるとは思っても見なかったから。


 彼は続けていう。


「あなたは悪くないですよ。全然。何も」


 刹那、ポロリと熱いものがほおを伝う。ポタポタと水滴が握りしめた手の甲に水滴が落ちる感覚。それは涙だった。泣いているのは、私だった。拭っても拭っても涙が溢れてくる。彼がハンカチを渡してくれるのをありがたく受け取る。初めてだった。そんなことを言ってくれた人は。そんなことを言ってくれた人は生まれて初めてだった。


 今まで見てきた大人は、暗にお前にも殴られるような理由があるという人ばっかりだったから。それをこの人は、あなたは悪くないと言ってくれた。私はずっと思ってた。これだけ殴られるということは、私にも殴られる余地があるのだろうと。そう思い込もうとしていた。だが内なる私は叫ぶのだ。どうしてここまで殴られなければならない。私はなにも悪いことなんてしていないのに。クラスの中にも溶け込んで、他人にも親切にして。殴られるようなことなんて何一つしてない。成績が悪いことはここまで殴られなきゃいけないほど悪いことなのか、なんて。


 でもそんな思い、誰もわかってくれなかった。理解してくれなかった。認めてくれなかった。お前には殴られるだけの理由があると、無言で告げてきた。だけどこの人は私は悪くないと言ってくれた。私は嬉しかった。私は悔しかった。もっと早くに出会えていれば、私はまだ他人を信じていられたのに。


 そう、私は辛かった。辛かったのだ。親に殴られるのは辛かった。その辛さを理解してもらえないのはもっと辛かった。でも、何より辛かったのは他人を信じられなくなった自分自身。他人を信じられない自分が何よりも嫌いだった。


 私だって他人を信じてみたかった。当たり前の恋をしてみたかった。当たり前に、父さんや母さんのことを好きといってみたかった。家族が好きと、家族が大切と思ってみたかった。みんながそうしているみたいに。だからみんな、家族と仲のいいことが羨ましかった。修学旅行とかで、当たり前に家族のためにお土産を選べる関係性が眩しかった。最近家がうるさくてさ、なんて気軽に言える信頼関係が憎らしかった。羨ましくて妬ましくて、気が狂いそうだった。


 だって、私にはそんなものはなかった。いつだって怒鳴られた。いつだって馬鹿にされた。いつだって見下された。家族の情なんてどこにも感じたこともない。毎日が息苦しかった。次はどんなことで叱られるのだろうと怯えていた。馬鹿みたいに殴られることに、怒りを覚えていた。いや、憎んでいた。憎らしくて恨めしくて憎らしくて恨めしくて憎らしくて。もう自分が何を憎んでいるのかわからないぐらい、ぐちゃぐちゃに、憎しみをたぎらせていた。


 でもやっぱり、そんなのは寂しかった。一番身近な家族さえ信頼できない私。血のつながらない赤の他人なんて信じられるわけがない。だから気軽に他人を友達と呼べる子たちが羨ましかった。他人に好きと告げられる子たちが妬ましかった。だって、次の瞬間には裏切られているかもしれないのに。殴りかかってくるかもしれないのに、無辜の信頼を向ける。それはとても愚かしくも見えたけれど、同時に眩しかった。私もそんな関係に憧れた。そう、憧れたのだ。私も友達みたいに誰かを信じたかったし、家族を愛したかった。でもそれはできなかった。そしてそれが本当に、本当に辛かったのだ。


 私は誰かにこの辛さを理解して欲しかった。嘘でもいいから、辛かったね。と、誰かに言って欲しかった。たとえ表面上だけの理解でも構わない。私の内面に気づいてなくてくれなくてもいい。例え表面だけでも、辛かったね、大変だったねと寄り添って欲しかった。私を理解しようとして欲しかった。私に寄り添う努力をして欲しかった。そして、私を見て欲しかった。


 でも誰も、そうはしてくれなかった。私を責めるばかりで。彼らなりの規範を押し付けるばかりで、誰1人も寄り添ってくれなかった。寄り添おうともしてくれなかった。彼、いいや、先生以外は。


 でも先生は私を見てくれた。どこまで見えているのか、何て知らない。どうでもいい。こんな私を見てくれたのだから。誰も見てくれなかった私を見ようとしてくれたのだから。だから私は泣くのだ。やっと私を見てくれる人が現れた喜びに。これまでそんな人の現れなかった悲しみに。


 先生は、手を二、三度彷徨わせたあと、ひっくひっくと泣きじゃくる私の背中を優しく撫でた。その手の暖かかったこと!知らなかった。私はこうして他人に撫でてもらった事なんて一度もなかったから。しゃくりあげる私を落ち着かせるように何度も何度もさすられる。硬くてごつくて、温かい手。優しい手だった。そんな経験はないのに、どこか懐かしいような。優しさが染み渡ってくるような。胸が切なくなるような、そんな手つきだった。


 もっと触れて欲しい。もっと優しくして欲しい。そんな気持ちが溢れてくる。私は気付けば先生に抱きついていた。咄嗟に身を引こうとする先生。逃がさないとばかりにしがみつく。今だけはこうしていて欲しかった。誰にもしてもらえなかった事。私が本当にして欲しかった事。


 お願いします、ギューッってして下さい。抱きしめて下さい。顔を胸元に埋めつつそう言う。先生はなおも私を引き離すかどうするか悩んでいたようだったけれど、私がお願いですから、と縋り付くように更に力をこめるとゆっくりと抱きしめ返してくれた。


 先生の腕の中は、温かかった。がっしりとしているけれど、確かな温もりを感じる胸板。とくりとくりと言う鼓動が染み入ってくる。とくりとくりという鼓動がわたしの鼓動と共鳴する。温かい。どこまでも温かく、懐かしい。微睡にも似た感覚。父性とはこう言うものを指すのだろうか。私には一生無縁だと思っていた温もり。どこまでも安らげる温もり。その温もりが、ただただ愛おしい。ポンポンと背中をさする手の、何と優しいことか。私を気遣う気持ちが、労る気持ちが染み入ってくる。


 折角なので、この機にもう一つの夢も叶えることにした。私はそっと背中を撫でる先生の手を掴む。びっくりしたような先生の様子には構わず、私の頭の上に。ゆっくりと左右に動かす。あたかも私の頭を撫でるように。すぐに先生も私がなにをして欲しいのか察したのか、ゆっくりと私の頭を撫でてくれる。優しく、撫で付けるような柔らかい手つきで。柔らかい手の感触に包まれる。温かい、優しい手つき。まるで親が子どもにするような。心地よい。どこまでも安らぐ優しい手つき。誰かに頭に触れられるのがこんなに気持ちいいなんて。これまで、私の頭に触れる人は壁か机に叩きつけるか、髪を引っ張るかしかしなかったから。頭を撫でてもらった事なんて、一度も無かったから。


 涙が後から後から溢れてくる。このままじゃ先生のスーツを台無しにしてしまうな。心のどこかでそう考えるけれど、埋める頭を先生から離したくない。このままずっと抱きしめていて欲しい。それこそ私が死ぬまで。そうしてくれたらどれだけ幸せなことか。そんな思いと共に一層力を込める。先生もわたしを抱きしめ返してくれる。いっそ苦しいほどに。ぎゅうぎゅう、ぎゅうぎゅうと。先生の温もりに包まれる。私の熱が、先生に染み入っていくのを感じる。気持ちいい。ああ、神様ずっとこのままで。そんなことすら考える。


 それでも幸せな時間とはいつか終わりを告げるものだ。そっと私の背中から先生の腕がほどかれ、頭からも先生の手が離れる。我ながら未練がましいとは思ってしまうけれど、その動きをつい目で追ってしまう。


「落ち着きましたか。」


 そう言う先生に私は黙って頷く。ホッとしたように笑うその笑顔が愛おしい。


 先生は続ける。


「あなたは児童相談所に行くべきです。何なら私も付き合います。」


 そういう先生に私は黙って首を振る。きっと先生ならそう言うだろうと思っていたけれど。でも、それでは駄目なのだ。それでは私は救われない。助からない。私に許された結末はただ一つ。だから私は首を振る。何故、と言わんかばかりの先生に微笑んで。


 それに、私の夢はようやく叶ったのだから。叶わないと思っていた、諦めていた私の夢。2個も叶ってしまった。ならば3個目の夢を叶えたっていいだろう。


「ね。先生、私を殺してよ」


 私がこの幸せを覚えていられるうちに。私が人生で1番幸福なこの瞬間に。私のこの苦しみに満ち満ちたこの人生を、先生の手で終わらせて欲しかった。私に寄り添おうとしてくれた先生。私の願いを叶えてくれた先生。最期の願いも、先生に叶えてほしかった。先生の手でならきっと苦しまずに逝ける。そんな予感があった。


「それとも、私を抱いてくれる?」


 ぐちゃぐちゃの滅茶苦茶に。訳がわからなくなるぐらい激しく。先生との絆があれば、生きていけるかもしれない。そんなことを思う私も微かにいたから。


 でも先生は首を振る。イヤイヤをするように。


「身体をもっと大事にして下さい。」


 そう泣きそうな声でいう先生。


 ああ。やっぱり先生は先生だ。それでこそ私の願いを叶えてくれた先生に相応しい。先生がそう言うことはわかっていた事だけど、それがちょっぴり寂しい。先生ですら、私の願いを完全には叶えてくれないなんて。でも、それでいいのかもしれない。それでこそ先生だ。そんな先生に、私は救われたのだから。


 だから私は今出来る精一杯の笑顔を浮かべて言う。


「じゃあ、さよならだね。ココア、美味しかった。」


 そう言うと私は踵を返し全力で走り出す。私の終着点に向かって。


 4.

 一段飛ばしで階段を上がったせいか、あっと言う間に屋上にはついた。スルスルと転落防止フェンスをよじ登り、フェンスの向かい側に。後は手を離すだけ。


 その段になって、どたどたという重い音と共に先生が駆け込んできた。ぜぇ、はぁと息を切らしている。先生はあんまり運動が得意ではないのかもしれない。何だか意外だ。でもそんな事すら愛おしい。それに、間に合ってくれたのだから満足だ。


 息も整わぬまま先生は必死に叫ぶ。何故です、あなたは助かるんですよ!救われるんです!


 私は黙って首を振る。児童保護施設に行けば幸せになると先生は言う。親の暴力からは救われるのだと。だが私は思ってしまうのだ。その先が幸せかどうか、なんてわからない。私はやっぱり、本質的に他人を信じられない人間だ。中には先生みたいに私を見てくれる人もいると言うことも知ったけれど、そんな人はレア中のレア。ほとんどいない事なんて骨身に染みて知っている。私は先生という幸せを知ってしまった。そんな過去の幸せに縋り付いて、2度と来ないだろう幸せに期待し続ける未来像。そんなのはあまりに惨めだった。私は、この瞬間を記録したかった。人生最高のこの瞬間。私は今のこの瞬間で人生を固定したかった。


 それに第一、本当に私が救われるのかも定かじゃない。私に対する暴力だって両親が否定すれば証拠なんてどこにもない。そうすれば私はまたあの家に逆戻り。きっと死ぬほど殴られる。今までよりもっと酷い目に遭う。あの家に戻るのはもう嫌だった。先生の温もりを知った今、あんな冷え冷えとした家には帰りたくなかった。遠からず私は絶対に自殺する。その確信があった。だったら。今この瞬間に死にたい。


 だから私は言う。


「私は今最高に幸せだよ。私は幸せなまま死にたい。」


「違う!」


 必死に叫ぶ先生。君には未来がある。無限大の未来が。今にも泣き出しそうな先生。おかしな先生。クスリと小さく笑う。そんなものどこにもないのに。


 それに私は今こんなにも幸せなのだ。どうせ死ぬなら、楽に、幸せのまま死にたい。私は人の人生とは死ぬ時に笑って死ねたら幸せだと言えるのだと思っていた。その点、私は色々あったけれど、幸せだったのだろう。全ては先生のおかげだ。


 だから私はありったけの笑顔で言うのだ。


「ありがとう、先生。先生のおかげで救われました。」


 そう言って私は手を離す。泣き出しそうな顔で駆け寄ってくる先生。


 どうせなら、先生には最期ぐらい笑顔で見送って欲しかったな。それだけが何となくもの寂しい。そんな思いを最後に私は目を閉じ、終わりの時を待った。


















  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

私の願いは 間川 レイ @tsuyomasu0418

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ