春の楽園

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春の楽園

 桜花が幻想の如く咲き誇る。

 風が吹けば儚く散り行く、秒速5cmの桜の花弁。重油のように重く染まるアスファルトの道を桜が彩る。駅前の雑踏、蒼穹に映える薄桃の嵐は心が洗われるようだった。


 春は、門出の季節である。

 足元が浮いているような緊張と喉が張り付くような不安感。頭の芯が揺れているような心地には、覚えがある。


 侑は、桜が舞い散る春の中にいた。

 駅前に出来たカフェから珈琲の香りが漂い、フライドチキンの店からはねっとりとした油の臭いがする。パステルカラーに身を包んだ若い女が談笑し、モノクロの会社員がパソコンに向き直る。上着も不要なくらい暖かく、街は泥のような微睡を伴った。


 侑は片手にビニール袋をぶら提げて、漏れ出る欠伸を噛み殺した。袋の中に放り込まれた生活必需品と極彩色のスプレー缶が雑多な音を立てる。道端を飾る水仙の花、膨らんだ木の芽。日常に消費されていく細々とした雑品を満たす為に出歩けば、其処此処から春の気配がした。


 その時、くしゃみが聞こえた。

 隣を歩いていた小さな青年が、片手で口元を押さえている。


 見下ろす程の身長差、栗色の頭頂部。斜め下で連続のくしゃみをした青年が、駄馬のように首を振った。侑が立ち止まって覗き込むと、透き通るような濃褐色の瞳が此方を向いた。その眼差しは、春の陽光に当てられて七色に輝いて見えた。




「桜は散り際が一番綺麗だね」




 笛のように澄んだボーイソプラノが、そんなことを言った。大人への過渡期にある筈の小さな青年は、時の流れに置いて行かれたかのように幼く見える。年齢も性別も曖昧に撹拌する天使のような容貌に、発条のような寝癖の残る栗色の頭頂部がアンバランスだった。


 道行く人がはっとしたように振り返り、その横顔を眺めては感嘆の息を漏らす。けれど、其処には硝子板でも差し込まれたかのように干渉出来ない壁がある。

 間抜けなくしゃみを誤魔化すように背中を伸ばしているのが可笑しかった。風が吹けば消えてしまいそうな眼差しで、みなとは散り行く桜を見詰めていた。




「侘び寂びの文化だな」




 侑が言うと、湊が見上げて来る。

 濃褐色の瞳は鏡のように鮮明に自分を映し込んでいた。侑は僅かに腹へ力を込めた。己を偽り、誤魔化していては彼の前に立つことが出来ない。薄氷を裸足で歩くような空恐ろしさを吞み込んで言えば、湊は口の端に微笑を掠めた。




「滅び行くものを愛おしむなんて、粋だねぇ」




 湊はそう言って桜の木々を見上げた。

 桜吹雪の中、湊の姿は消えてしまいそうに見えた。逸れないように、見失うことのないように、繋ぎ留めるようにと侑は言葉を紡いだ。




「どんなものにも滅びはある。栄枯盛衰はこの世の摂理だ」

「俺達は不思議だね。永遠を望みながら、永遠を信じない」




 永遠という夢想。川の流れのように、この瞬間すら留めることは出来ない。どれだけ祈っても縋っても、時は移ろいゆく。積み上げられる歴史の轍、刻まれる生命の痕跡。世界という大きな渦潮の中で、俺達は己の存在意義を探しながら、声にならない声で叫んでいる。


 湊は目の前に滑る花弁を追い掛けて、手を伸ばした。小さな掌が握られる刹那、花弁は嘲笑うようにその隙間から逃れて行った。湊が表情を変えるコンマ数秒、侑は一枚の花弁を掴み取った。




「ほら、やるよ」




 代わりに取ってやった花弁を渡すと、湊は楽しそうに礼を言った。こんな些細なことを喜べる世界が、侑には愛おしかった。


 顔を見ると安心して、声を掛ければ振り向いて、手を差し伸べれば微笑んで掴み返してくれる日常。例え、理解し合えない価値観と思想の壁があったとしても、互いを尊重し合える対等な居場所。この世の不条理を嘆いて他人を妬み嫉むよりも、誰かの幸福を願い喜べるような関係性が、侑には福音のように尊く感じられた。


 けれど、俺は知っている。

 覗き込めば二度と戻れない人間の闇。誰かを蹴落とし、踏み台にして自分の居場所を確保する乾いた世界。他者承認欲求に踊らされ、相対評価に晒される容赦の無い現実。笑顔を取り繕いながら、他者を嘲る人の本性。


 主語を拡大すれば正論になると信じている愚かな人間達。奴等を見ていると堪らなく気分が悪く、吐き気がした。その歪んだ本性に向かって中指を立ててやりたくなる。


 意識が深淵へ傾くその時に、湊が柔らかに微笑んだ。




「ジンクスなんだよ」




 花弁を見下ろして、湊が言った。

 長い睫毛が瞬きの度に音を立てるようだった。

 風に吹き飛ばされないようにと、湊が拳を握る。侑が先を促せば、湊は楽しそうに語った。




「舞い散る花弁を掴めたら、願い事が叶うんだ」

「お前って、ロマンチストだよな」




 侑が言えば、湊が溌剌と笑った。

 どうせ、この世は理不尽に出来ている。一枚の花弁を対価に叶えられる願いなんて、大したものじゃない。


 毎日、夢を見て、毎日、目が覚める。

 夢と現実の狭間で、息も出来ない程に苦しい。


 その時、一陣の風が吹き抜けた。

 春一番が吹き荒れ、満開の桜を散らせてゆく。他人の群れが歩調を緩め、微かに上がる驚嘆の声に目を向けた。山吹色のフレアスカートが風に膨らみ、道の端に蟠った桜花を吹き飛ばして行く。


 辺り一面が薄桃色に染め上げられる中、濃褐色の瞳だけが矢のように此方を射抜いた。桜吹雪に凛と背を伸ばし、湊は悪戯っぽく笑った。其処にだけスポットライトが当てられているように視界が明転する。


 上等なカジノのディーラーみたいに、湊が恭しく頭を下げた。

 面を上げた時には口唇を歪め、湊が言った。




「さあ、何を願いましょうか」




 差し出された掌に、一枚の花弁が乗せられている。

 風が吹けば飛ばされそうな軽い対価で、どんな願いが叶うだろうか。




「ランプの魔人みたいだな」




 侑が言うと、湊が鈴のように笑った。

 何処か遠くでクラクションの音がする。駅前のカフェが自動ドアを開閉する度に、とろりとしたクラシックの音色が途切れていく。侑は手提げのビニール袋を持ち直し、腕を組んで思案した。


 春の日差しを受けて、栗色の頭頂部には天使の輪が浮かんで見えた。

 急行電車が駅に到着する度に、人が濁流の如く流れてゆく。豪勢な桜並木を背負って、小さな魔人が両手を広げる。


 俺達は、花弁一枚に願いを懸けながら、何でもない小さな日常を積み重ねていく。

 其処に貴賎を問うならば、俺達は心臓を差し出しながら旗幟で殴り合う必要があるだろう。この世の混沌を白黒に塗り分けようとしたら、人生なんてものはあっという間に終わってしまう。――さあ、己の信仰で殴り合おうじゃないか!


 侑は咳払いをして、片手を伸ばした。




「では、ランプの魔人。一つだけ、俺の願いを叶えてくれ」

「宜しい。申してみよ」




 湊が戯けて笑う。

 花弁一枚で叶う願いなんて、大したことはない。けれど、何の根拠も無いジンクスに願いを懸けられるこの瞬間が得難いものだと知っている。侑は両手に提げていたビニール袋を差し出した。




「重いから、分けて持とうか」




 丁度、湊の視線が煩いと思っていたのだ。

 ガキに持たせるには重荷だと思っていたが、もうこいつはガキじゃないのかも知れない。湊は得意げに指を鳴らして、手を伸ばした。




「その言葉を待ってた」




 荷物を分け合うと、少しだけ軽くなる。

 そんな当たり前の物理法則。湊は腕にビニール袋を提げて、ゆっくりと歩き出した。白雲の如く咲き乱れる桜並木の中で、湊が小気味良くスキップする。鼻歌でも聞こえて来そうな上機嫌に、自然と心が軽くなる。


 昼下がりの日差しの下、桜は金色に縁取られ輝いて見えた。舞い落ちる桜花は雪のように音も無く降り積もる。湊が少し先を歩き出す。


 恨みも憎しみも好きにすりゃ良いさ、それで世界が変わるなら。部屋に閉じ籠って溜飲を下げるくらいなら、外で花見でもした方が建設的だ。


 春爛漫の桜の下、鼻の奥がむず痒くなる。

 侑は小さな背中を見遣り、一つだけくしゃみをした。

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