(11) 西口陽菜

 自分の居場所なんてもうあのアパートにはない。

 そう思い始めたのは引っ越して間もない頃のことだった。いくら家賃の安い町外れの古びたアパートだったとはいえ、まだ中学二年生の女の子が一人で過ごすにはあまりに部屋が広すぎた。あるいは、いつの間にか「ただいま」と「おかえり」を口にすることなんてほとんどなくなっていたことがその直接的な原因だったのかもしれない。

 学校に行っても、周りにいる子たちは結局みんな家族が待っている家に帰っていくんだと思い始めたら、途端に自分だけが仲間はずれにされている感じがして楽しめなくなった。教室の中にいても、思春期真っ只中で父親のことを「だるい」とか「キモい」とか愚痴っている女子生徒のことを遠くから羨望の眼差しで眺め、母親のことを「あのクソババアが昨日さ──」と苛立っている男子生徒の話に聞き耳を立てては勝手にずるいと妬んでいる自分が虚しくて仕方なかった。陽菜には拒絶できる父がもう側にはいなかったし、煙たいと思えるほど母は一緒にいてくれなかった。その事実から目を背けるためには耳を閉ざすことしか方法を知らなかった。きっとクラスメイトのみんなはそんな私のことを見て不気味に思っていたに違いない。

 家に帰っても、待ち構えているのはテーブルにビニール袋のまま置かれたスーパーの弁当と一通の置き手紙だけ。『おかえり! 今日の学校はどうだった? 友達といっぱい遊んだ? 勉強は頑張った? お母さんも陽菜に負けないように頑張ってくるからね! いってきます!』、手紙の中でしか感じ取ることのできない母の感情が、かえって陽菜を独りぼっちに感じさせていることをきっと母は知らなかった。レンジで温めるだけの夕食はどこかいつも冷たかった。たまに隣の部屋に住んでいた中年の女性が様子を見にきてくれていたが、家族でもない人と一緒にご飯を食べても心の中は満たされなかった。むしろ、彼女の手料理を食べるごとに母の味が記憶の外へ押し出されているような気がして食欲が失せた。

 眠れない夜は抱えきれなくなった心の闇をSNS上に吐き出して気を紛らわせた。別に誰かのいいねが欲しかったわけではない。でも、誰かに気付いては欲しかった。いっそのこと何もかもをリセットしたほうが楽になれるんじゃないかとも考えた。家族も、友達も、学校も、社会も、常識も、過去も、まとわりつくもの全てを一度なかったことにしてしまえば、昔みたいに心の底から笑える日がまた来るのかもしれない。本気でそう思った。母に頬を張られたことはほんの些細なきっかけにすぎなかった。樽の中に閉じ込められた黒髭のおじさんが誰かの剣で尻を突かれるのと同じで、どちらにせよ、いつかはこの家を出て行こうと思っていた。

 『イエ・カス男くん』という存在を知ったのは、ちょうどその頃に陽菜が人知れず独り言を呟いていたSNSのアカウントを、向こうからフォローされたことがきっかけだった。気になってプロフィール画面を開いてみると、そこには「寝床のない人のための避難所を提供しています」と記されていた。その一文を見た瞬間に陽菜は「これだ」と確信めいたものを感じた。その日のうちにダイレクトメッセージを送ってみると、向こうからすぐに『何歳?』と返信が返ってきた。陽菜は無難に『二十一歳』と送り返した。未成年が勝手をして許される世の中じゃないことは理解していた。

 望むのであればいつでも部屋を貸してあげる。そんな内容の文面が送られてきた。彼女はそれを見て何も疑うことなく即刻荷物をまとめた。ちょうど母に頬を張られる二日前のことだった。

 とはいえ実際に家出を敢行する当日はかなり緊張していた。月曜日の朝、陽菜はいつも通り登校するふりをしてそのまま学校とは逆方向のバスに乗った。停留所を二つまたぎ、降りた先で見つけた公園のトイレで私服に着替え、脱いだ制服と学生鞄とローファーはあらかじめ持参していた大きな紙袋の中に詰めた。事前に聞いていた住所を頼りに、できるだけ人目につかないようと気をつけながら足早にマンションへと向かった。幸い、すれ違いざまに誰彼構わず挨拶をしてくるようなお年寄りには会わなかったし、幼稚園に通う子供を送り出して道路の脇で延々と立ち話をしているような主婦の姿も見かけなかった。

 公園を出発して十五分ほど歩いた頃、ようやく指定されていた七階建マンション<シャトー・ヴァンベール>の下に到着した。陽菜は恐る恐るエントランスに入り、インターフォンで七一三号室に住んでいるというイエ・カス男くんを呼び出した。その日は少しでも二十一歳らしく見えるようにと思い、朝から黙って母の化粧品を拝借し、慣れない手つきで化粧を施していた。服装も、持っていた洋服の中では一番大人っぽかった薄緑のワンピースと親戚から譲ってもらった黒いブーツを合わせていた。しかしそれでも大人の目は騙せなかった。

「きみ、ほんとは未成年だよね?」、インターフォン越しにイエ・カス男くんはそう尋ねた。

 陽菜は動揺を隠せず、あちこちに目が泳いた。未成年と認めた瞬間に追い返されてしまうんだろうなと予見した。一方で、咄嗟の言い逃れが通用するような雰囲気でもなかった。迫り来る選択肢を前に行き詰まった彼女は電源プラグを抜かれたように硬直し、しばらくの間うんともすんとも答えられなかった。

 沈黙の時間が流れ、陽菜が諦めかけて踵を返そうとしたその直後にインターフォンから声が聞こえた。「とりあえず入ってきな。場所は七階の角部屋だからすぐわかると思う。あ、ちなみにエレベーターは使わないでね。きみが七階で降りるところを監視カメラに抜かれたくはないんだ」

「……わかりました」、陽菜は若干面倒だなとは思いながらも言われた通り非常階段を上り、七階の角部屋を訪ねた。扉を開けたイエ・カス男くんは思っていたよりも若い男性だった。二十代半ばあたりだろうか。一見してすらっと伸びている背丈と色白の肌が特徴的だった。イケメンと呼べるほど顔が整っていたわけではないが、それなりに男前と称されるくらいのビジュアルは備えていた。彼はテラワキと名乗った。「私の名前は西口陽菜っていいます」、言った後に偽名を使えばよかったと少しだけ後悔した。

「朝ご飯はもう食べた?」とテラワキは物腰の柔らかい声で尋ねた。彼は玄関ドアを後ろ手に閉め、すぐにチェーンロックを掛けた。まるで何かを警戒しているように。そして段差のないフラットな玄関の縁に踵を揃えてスリッパを脱ぎ、ちらちらと陽菜の顔色を窺いながら続けた。「これからちょうど食べようと思ってたところなんだけど、お腹は空いてない?」

 陽菜は小さく肯いた。「大丈夫です、ありがとうございます」

 テラワキの案内で手すりのついた廊下を進むと、まずはその途中を左に折れ、洗面脱衣室に通された。三面鏡のついた立派な独立洗面台があり、その隣にはドラム式洗濯機とスロップシンクが設置されていた。もちろんその奥には綺麗な浴室が備わっている。

 廊下を挟んだ向かい側にはテラワキが普段から仕事で使っているという作業部屋があった。あいにく、その部屋の中までは見せてもらえなかったが、それに加えて彼は「頼むから勝手に入るような真似はしないでくれよ」とさらに釘を刺した。トイレはその部屋を出てすぐ右隣にあった。

 廊下を抜けると、左手にはペニンシュラ型のキッチンが完備されており、正面にはリビングと寝室がひとつながりになっていた空間が広がっていた。入ってすぐに目についたのはまずウォールナットの四人掛けダイニングテーブル、L字型の青いソファーとローテーブル、ゴミ出しカレンダーがマグネットで留められていた冷蔵庫、テレビボードの両脇に観葉植物を携えていた大きな薄型テレビなどの比較的大きな家具家電で、少し足を踏み入れると、ソファーの背もたれから五メートルほど間隔を開けた後ろにダブルベッドが置いてあったのが見えた。そちら側の空間には壁一面のクローゼットが備わっていた。ざっと二十畳ほどの面積はあったのではないだろうか。その空間だけでも陽菜が住んでいたアパートよりも広い気がした。

「好きに使うといい。ただし、隣の部屋にも住人はいるからあまり騒がないようにね」、テラワキはそう言ってダイニングテーブルの前に座った。

 卓上には白ご飯、味噌汁、ベーコン、目玉焼きが用意されていた。それは今朝、陽菜が食べた朝食よりも献立が豪華だった。なにしろ、彼女はブルーベリージャムを塗った食パンを一枚しか食べていなかったのだから。つい先ほどまで相手のご厚意を断っていたくせに、身体は正直に反応を示した。

「ほら、やっぱり腹減ってるんじゃないか。遠慮しないでいいから、こっちで一緒に食べよう」とテラワキは手招きをした。

 陽菜は部屋の隅に荷物を置き、恐縮しながら彼の正面に腰を下ろした。「すみません、ありがとうございます」

「そんなにかしこまらなくていいよ。とりあえず今はここがきみの家でもあるんだから」、テラワキは人差し指でテーブルをトントンと叩き、それから意図的に微笑んでみせた。そして陽菜の顔をまっすぐに見つめ、やがて何かを暗示するかのように小さく肯いていた。彼女の目にはその姿が、大丈夫だよ、安心していいからね、と優しく語りかけているように映った。

 優しい人だな、と陽菜は思った。彼女にお兄ちゃんはいなかったが、仮にいたとすればこんな感じだったのかなと想像してしまう。そんなことを考えているうちに今度は唐突に目頭が熱くなった。みるみるうちに目の表面は涙に覆われ、視界が溺れた。テラワキは特に何も言わずに立ち上がり、テレビボードに置いていたティッシュケースに手を伸ばし、それをそっと陽菜の目の前に滑らせた。どうしてこのタイミングで涙腺が緩んでしまったのかは自分でもよくわからなかった。

 それからしばらくして二人は揃って手を合わせ、朝食をとった。そしてこれが泣いた後だったからなのかは判然としなかったが、陽菜はテラワキのどの質問に対しても赤裸々に答えていた。両親の離婚や家出した経緯、それらは軽々しく扱っていいものでもないような気がしていたが(少なくとも陽菜の中ではまだその件に関して気持ちの整理がついていたわけでもなかったのだが)、なぜか気付いた時にはもう全てを喋り終えていた。もしかすると、ずっと心のどこかでは誰かに自分の生い立ちを聞いてほしいと思っていたのかもしれない。同情されたいという願望があったのかもしれない。あるいは、相手が陽菜の素性を全く知らない赤の他人だったからただ単純に話しやすかったというだけなのかもしれない。どちらにせよ、彼女はまだ会って間もないテラワキのことを、ほとんど抵抗もなく信用していた。

 食事が終わったあとに彼は言った。「悪いけど、スマホはこっちで預からせてもらえないかな? 一応、きみをこの家に匿っていることは俺にとってリスクでもあるんだ」

 陽菜はその申し出を快く受け入れ、スマホを彼に渡した。日頃から連絡を取り合うような友人はいなかったし、SNS上に曝け出していた寂しさや虚しさや惨めさは、テラワキが両手を広げてその全てを包み込んでくれるような予感がした。もちろん根拠はない。でもそう思うとなんだか気持ちが楽になった。話を聞いてくれる人が一人いるだけでもずいぶんと救われた。ようやく独りぼっちじゃなくなったような気がした。このままいけば本当にいつかはまた心の底から笑える日が来るかもしれないと胸が膨らんだ。

 だが、そんな期待感はあまりにあっけなく、まるで風船を針で割るように一瞬のうちに萎んでしまった。所詮、それは子供の甘い妄想に過ぎなかったのだ。その日の夜のことだった。ソファーで眠っていた陽菜の上にテラワキはのしかかり、まるで贈り物の包装紙を雑に破っていくように、彼女の青いシャツパジャマを引き剥がした。

 一瞬、陽菜は何が行われているのか理解が追いつかなかった。覆い被さるテラワキの顔が影に埋もれてよく見えない。それでも次第に目が慣れていくと、暗闇の中でも薄っすらと白っぽいもの浮かび上がってくる。彼は陽菜がパジャマの下に着ていた白い肌着を見て不気味に笑っていた。目が合ったと思った瞬間にはっと息を呑んだせいで、咄嗟に声が出なかった。瞬く間に全身の肌が粟立っていく。

 テラワキは肌着の上から胸を鷲掴みにした。ブラジャーは付けていなかった。そもそも陽菜の乳房はそれほどまでには発達していなかった。掴めるほどのものはまだ何も持っていない。彼はそのことをほとんど理解せずに、荒い鼻息を漏らしながら彼女の皮膚を思い切り引っ張っていた。陽菜の口から「痛っ」という声が溢れると、彼は暗闇の中でふふっと静かに笑い声をあげた。それから間もなく肌着の裾が捲し上げられ、テラワキの骨太の指が彼女の陥没していた乳頭に直接触れた。「どうだい、気持ちいいだろう」、いつの間にか吐息交じりの声が耳元で聞こえた。

「やめてくださいっ」

 陽菜はのしかかっていたテラワキの胸のあたりを力いっぱい押し返した。それでも彼の身体はびくともしなかった。彼は右手の指で突起を弄りながら、左手で陽菜の顎を触った。そしてこちらに抵抗する猶予を与えることなく、彼は強引に唇を奪った。それは陽菜にとって生まれて初めてのキスだった。きっとこの世で最も趣味の悪いファーストキスだったに違いない。せめてもの抵抗で懸命に歯を食い縛っていたが、彼の舌は難なくその防波堤に風穴を開けた。

 唇が剥がされたあと、陽菜はしばらく放心状態で固まっていた。なにもかもを失ってしまったような気分だった。大切にしていた真っ白なTシャツを目の前で泥水に浸されているみたいで、胸が苦しくなった。自分のことなのに何故だか無性に誰かに謝らなくてはいけないという義務感に駆られた。当然、頭の中には父と母の顔が浮かんでいたが、次の瞬間にそれはシャボン玉が割れるように弾けた。今更、誰に謝ろうがこの状況は何も変わらなかった。スマホも没収され、唯一の助けを呼ぶ手段も失っていた。もう諦めるしかない。そう思って陽菜は無抵抗に目を閉じた。そこから彼女が処女を失うまでに、それほど時間はかからなかった──。

 二日目。陽菜はテラワキがいくつかの玩具を用いながら及ぶ行為を好んでいることを知った。四つん這いになった彼女の背中の上で、テラワキはどこからともなく出てきた黒い鞭を何度も振った。肌には無数のミミズ腫れの痕が残り、あろうことか彼は軟膏でも塗るかのようにその箇所を舌で舐め回した。「ごめんな、痛かっただろう」と謝りながら。

 三日目。テラワキは自らの陰茎を無理やり陽菜に咥えさせ、口内で射精した。「飲め」と彼は命令した。彼女はそれを泣きながら飲み込んだ。屈辱的だった。この世から消えたいとも思った。でもそんなことはもうどうでもいい。薄暗い天井をぼんやりと眺めながら、そうやって一つ一つ感情を削ぎ落としていくことで数秒後には本当に何もかもがどうでもよくなっていった。思い込みの力は怖い。人を人でなくしてしまう。

 テラワキは寝る間際に必ず頭を撫でながら「ありがとう」と言った。陽菜の感覚がはっきりと狂い始めたのはたぶんこの辺りだった。彼を満足させることが自分の存在意義なのかもしれないと思い始めていたのだから。

 四日目。ついにテラワキはゴムを外して行為に及んだ。妊娠するのは怖かったが、彼の言う「大丈夫」をすんなりと信用していたのだから陽菜の頭はとっくにどうかしていた。身体的な痛みも、精神的な屈辱も、寝る間際の「ありがとう」でリセットされた。自分のことをそういうマシーンだと思えばいくらでも声は出せたし、腰も振れた。ただ、気持ちいいと思ったことは一回もなかった。

 そして五日目の朝がきた。窓の外は雨が降っていた。

 先に目を覚ました陽菜は隣でぐっすり眠るテラワキ起こさないようにベッドから降り、抜き足差し足で洗面脱衣室に向かって顔を洗った。足元に置いてあったゴミ箱にはティッシュが満杯に溜まっていた。それに気付いた彼女はふとゴミ出しカレンダーのことを思い出す。たしか毎週金曜日が回収日だったような気がした。それを確かめに一度キッチンへ移動し、冷蔵庫を見た。

 『燃えるゴミ:毎週金曜日と日曜日の二回』、さらにその下には米印付きで『係の者が回収に参りますので、午前八時までに玄関扉の前に置いておかれますようよろしくお願い致します』と記されていた。

 陽菜はリビングの時計を見た。もうすでに七時四十五分を回っていた。ベッドの方からはテラワキの寝息が聞こえてくる。まだしばらくは起きてこないのかもしれない。基本的にアラームをかけずに眠ってしまう彼は目を覚ます時間が日によって違っていたため、こちらとしても予想がたてづらかった。とはいえ、もうすぐ回収係の人が来てしまう。迷っている暇なんてなかった。彼女はできるだけ物音を立てないように気をつけながらキッチン、リビング、寝室、洗面脱衣室のゴミを集めて回った。それだけで四十リットルサイズの指定ゴミ袋は七割ほどが埋まった。あともう一部屋分くらいのゴミならまだ収まる。しかし残されていたもう一部屋というのが彼の作業部屋だったから彼女はつい躊躇した。初めてこの家を案内してもらった時にも釘は刺されている。勝手には入らないでくれ、と。

 時計の針は七時五十五分を回った。陽菜はテラワキがまだ起きていないことを念入りに確認し、恐る恐る作業部屋に足を踏み入れた。扉を開けた途端にどこからともなくふわっと流れ込んできた悪臭が鼻先に触れ、彼女はとっさに鼻をつまんだ。「くさっ」、それは自分にだけ聞こえるように発した小声だった。

 作業部屋の中は思っていたよりも物が少なかった。パソコンが載った黒い机に背もたれが赤と黒のゲーミングチェア、小説や雑誌が大きさ順に並べられた本棚、そして部屋の隅には異質なまでに存在感の浮いていた緑色のボストンバッグ。一方で、ゴミ箱らしきものは一つも見当たらなかった。しかしなんだろう、この生ゴミが腐ったような悪臭は。陽菜は気になってしばらく部屋の中を散策した。そしてすぐにその臭いの原因を突き止めた。それはやはり一つだけ明らかに部屋に馴染めていなかった緑色のボストンバッグだった。最初はその大きさから先月捨て忘れていた粗大ゴミか何かを連想していた。たしかに粗大ゴミの回収は毎月第一水曜日だけだった。一時的に部屋に保管しているだけなのだろう。とはいえベランダの方が好ましいような気もしていたが。

 陽菜は一度ボストンバッグの持ち手部分に腕を通して担いでみようとしてみたが、そのあまりの重さに持ち上げることをすぐに断念した。それにしてもいかんせん臭いが酷すぎる。彼女はいよいよその中身が気になって、怖いもの見たさでファスナーを開けた。

 だが、その直後に寝室の方からガタッと物音が聞こえてきた。テラワキがついに目を覚ましたのかもしれない。陽菜は慌ててファスナーを閉め、扉の前に置いていた指定ゴミ袋を手にして部屋を出た。そしてそのまま足早に玄関に向かい、テラワキのスリッパを拝借してゴミ袋を外に出した。まさかその時に声を掛けられるとは予想もしていなかった。

「あら、はじめまして。隣の部屋に住んでるニイガキです」

 声を掛けてきた女性は陽菜を見て微笑み、手を振った。その隣に立っていた夫らしき男性も玄関ドアを施錠するとこちらに気付き、会釈した。彼らはどちらも左手の薬指にお揃いの指輪を嵌め、それぞれ一つずつスーツケースを携えていた。どこか旅行にでも行くのだろうか。外は降りしきる雨の中、二人はまるでこれから海へ遊びに行くような軽やかな格好をしていた。陽菜は二人に軽く頭を下げ、そそくさと家の中に戻った。

 後ろ手に玄関ドアを閉めた時、目の前から「はっ?」と訝しげな声が聞こえて陽菜は顔を上げた。テラワキは「おはよう」も言わずに「何してんだよ」と眉をひそめた。

「え、いや、今日は燃えるゴミの日だって冷蔵庫の張り紙に書いてあったから」

「ああ、それでか。ゴミ箱の中身が空になってたのは」、テラワキは合点がいったように小さく肯きながらそう言った。「で、誰にも見られてないだろうなあ」

 陽菜は迷った末に顎を引いた。「大丈夫。誰にも見られてないから」、怒鳴られることが怖くて咄嗟に嘘をついた。取り返しのつかない嘘。あとで言い逃れのできない嘘。大丈夫、と無理やり自分に言い聞かせてみても、足の震えは一向に止まる気配がなかった。

「ほんとに頼むぞ。前にも言ったと思うけど、未成年を匿うってのはすごくリスクの高い──」、テラワキはそこでふと何か大事なことを思い出したように言葉を区切った。「そういえばお前、ゴミ集める時に作業部屋に入ったか?」、今まで耳にしてきた中で最も威圧感のある声だった

 陽菜は首を振った。「入ってないよ。勝手に入るなって言われてたし」

 テラワキはしばらく黙り込んだまま陽菜の顔をまっすぐに見つめていた。それはまるで、空港の検査場で荷物の中に違法薬物が混入していないかをくまなくチェックしていく保安検査員のようだった。

 陽菜は蛇に睨まれた蛙のようにその場から動けなくなり、テラワキの次の言葉をじっと待っていた。するとそこからまた十秒ほど沈黙が開き、彼はようやく一つ大きなため息をついて「まあいいや」と言ってトイレの中へ消えていった。

 一気に全身の力が抜ける。立っていられるのもやっとのことだった。誰かが身体の内側から助けを求めているように心臓を激しく叩く。陽菜はなんとか平静を装ってリビングへ向かった。


 十一時頃にインターフォンが鳴った。

 大きめの半袖Tシャツに夏用の体操ズボンを履いていた陽菜はリビングのソファーに寝転がりながらバラエティ番組の再放送をぼうっと眺めていた。するとやがて作業部屋の扉が閉まる音が聞こえ、廊下に軽快な足音が響き、玄関ドアがガチャッと開く音がした。もしかしたら母がここまで迎えに来てくれたのかもしれない。そんな淡い期待を抱きながら彼女はテレビの音量を小さくして玄関のやりとりに耳を傾けた。そんなはずがないとはわかっていたのに。ソファーからは玄関の様子が全く見えなかった。テラワキにもあらかじめ人前には出るなと忠告されていた。こっちはリスクを背負ってるんだから、と。

「いつまであの子をここに置いておくつもりなの?」

 知らない女性の声が聞こえてきた。彼女はこの部屋に陽菜が滞在していることを知っているような口ぶりだった。陽菜は冷蔵庫の陰に隠れてこっそり廊下を覗いてみたが、その女性が母でないということだけしかわからなかった。

「ねえ、今、リビングの方で何か動いてなかった?」と女性は鋭い声で言った。

 陽菜ははっと息を呑む。ほとんど反射的に両手で口を押さえつけ、一切の音が外に漏れないように息を殺した。でもそれと同時にふと、本当にこんなことをする必要はあるのだろうかと疑問に思った。つい先ほど女性はこの部屋に陽菜が滞在していることを知っているかのような口ぶりで喋っていたばかりじゃないか。それなら自分から姿を見せた方が自然な流れではないのか。

 しかしそんなことを考えていた矢先にテラワキが「怖いこと言わないでくださいよ。気のせいですよきっと」と否定した。陽菜はその声を聞いて何か引っかかるような違和感を感じた。想定していたパターンとはたぶん違う。女性は私のことなんて知らないのかもしれない。

「いや、絶対に誰かいったって。ほら、キッチンの方。もしかして強盗犯なんじゃない?」、女性は声のトーンを抑えてそう言った。

「何言ってるんですかミツヨさん。ここ最上階ですよ? 強盗なんて入れるわけな──、あ、ちょっとミツヨさんっ、勝手に入らないでくださいっ」、珍しくテラワキは焦っていた。声だけでわかる。

「一度確認するだけよ。誰もいないとわかったらすぐに出て行くから」

 次第に足音が大きくなっていく。陽菜は慌てて隠れていた冷蔵庫を背にうずくまり、両腕で頭を抱えて顔を伏せた。「待ってください」と言うテラワキの必死な声が廊下に響く。女性の足音は何か確信めいたような足取りで着々と近づいていた。そしてその足音が聞こえなくなると、彼女は恐る恐る顔を上げた。

「……誰よ、あんた」

 目の前には大きめのタッパーを三つ重ねて抱えていた中年女性が立っていた。彼女は信じられないほど目を丸くして陽菜のことを見下ろしていた。まるで人の死体でも見たのかというようにみるみるうちにその顔から血の気が引いていくのが見て取れた。

 陽菜はその女性のことをテラワキの母親だろうかと一瞬思ったが、直前に彼が彼女のことを「さん」付けしていたことを思い出して心の中で首をひねった。とはいえ恋人にしては歳が離れすぎているように見える。それに、もし仮にそうなのだとしたら連日のセックスはいったい何を意味していたのか。もしかすると私は知らず知らずのうちに浮気相手にでもされていたのだろうか。一瞬のうちに様々な疑惑と不安が頭によぎって混乱する。何か身に覚えのない濡れ衣を着せられそうで気が焦る。しかし目の前の中年女性の眼差しからは、その浮気相手に当たるであろう私に対する怒りというものはあまり感じ得なかった。

「に、西口陽菜、といいます……」、陽菜は咄嗟にそう答えてしまったが、今は呑気に自己紹介をしている場合ではないことくらいは自分でも理解していた。

 返事は返ってこなかった。やがて沈黙が流れる。中年女性はピクリとも動かず、瞬きの一つもみせなかった。陽菜は息を止め、そのすぐ後ろに立っていたテラワキにそっと視線を合わせた。彼は参ったなという様子で頭の後ろを掻き、ため息をついていた。

「ちょっと今から二人で大事な話をしたいんだ。だから少しの間、ベランダにいてくれないか」

 陽菜はできるだけ物音を立てないよう腰を持ち上げ、小さな洞窟の入口を抜けるみたいに屈みながら二人の横をすり抜けた。女性はその間もまだずっとこの状況が呑み込めていない様子で、黙ったまま陽菜の動きを目で追っていた。陽菜はその視線から逃れるように足早にベランダへ出て行った。

 外の雨はすっかり止んでいた。空は分厚い雲に覆われ、喉を通る空気がどこか湿っぽい。袖口から入り込んできた生ぬるい風が脇をくすぐった。雨上がりの匂いは気持ちを落ち着かせてくれた。

 陽菜はふと思う。どうしてさっき、私はあの女の人に対してわずかに後ろめたさを感じてしまったのだろう、と。被害者はどう考えても私の方なのに。

 掃き出し窓を閉め切っていても部屋の中からは二人のやりとりが聞こえた。もう二度とこんなことはしないって約束したじゃないっ、と中年女性が泣き縋るような声を出している。テラワキはそんな彼女を説得するようにこう言った。「違うんですよ。あの子はちゃんと俺の言いつけを守ってくれるし、前みたいに脱走を試みるような子でもない。だからあんな間違いはもう絶対にないですから」

 陽菜はそのやりとりを聞いていて、ああ、と腑に落ちるものがあった。

 いつまであの子をここに置いておくつもりなの? さっき女性が玄関で口にしていた「あの子」はたぶん、私のことを指していなかった。

 この家の中には陽菜以外にもう一人、「あの子」という言葉で片付けるのに相応しい子どもがいた。それも陽菜がこの家に転がり込んでくるずっと前から独りで、あの緑色のボストンバッグの中でひっそりと異臭を放ちながら。

 一目見た瞬間にそれが神崎有希かんざきゆきだということはすぐにわかった。彼女のことはこの辺に住む同世代の人間であれば知らない人はいなかった。

 中学生になった今は勉学に専念するため芸能活動は控えていたみたいだが、小学生の時からすでに完成されていたそのルックスは一時期「一〇〇年に一人の美少女」とも称されており、以前はよく地元企業のCMやローカルドラマで目にする機会があった。そんな彼女の姿を最後にテレビで見たのはつい先日のことで、行方不明になったというニュースが全国区の報道番組で取り上げられていた。

 まさかこんなところでお目にかかるとは思っていなかった。それが陽菜にとっては生まれて初めて会った芸能人だった。たぶんそのことは一生忘れることができないだろう。思えば、彼女はこの家で忘れられない「初めて」を、もうすでに二つも経験させられていた。

 陽菜はベランダの隅に室外機を見つけた。その上には何故か白い麦わら帽子が載っていた。テラワキが置き忘れていたのか、それともわざとそこに置いていたのかはわからない。ただ、それは明らかに女性向けの帽子だった。もしかするとあのミツヨさんっていう女の人の私物なのかもしれない。黒のリボンの結び目にはCCのロゴが記されていた。それだけ有名なブランドであれば、中学二年生の彼女でさえ耳にしたことはあった。

 手持ち無沙汰で何もすることがなかった彼女はひとまずその帽子を被ってみた。少しサイズは大きかったが、寝室とつながっているガラス窓に反射していた自分の姿を見る限りでは似合っているように思えた。そしてそのままの格好でベランダの柵の手すりに掴まる。不意に一羽の蝶々が視界を横切った。

 陽菜は何となくそれに手を伸ばして捕まえようとしたが、蝶々はひらりと身を翻して彼女の手を逃れた。それを何度か試みてみるが、結果はどれも空振りに終わった。するとそのうち不規則で不安定に宙を舞っているその姿がだんだん目障りになってきた。捕まえられるものなら早く捕まえてみろよ、と尻を振って挑発してくる幼稚園児みたいに。でも今はそんな気分じゃない。彼女は捕まえることを諦め、その蝶々を視界から追い出すように手で払った。

 陽菜は何かに思い耽るわけでもなく、今更何かを後悔するわけでもなく、ただ一点に遠くの山を見つめた。色んなことがありすぎて、今は何も考えたくはなかった。そうしているうちにやがて、強い風が吹いた──。

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蝶を捕まえられなかった女の子(No.10) ユザ @yuza____desu

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