Lesson22. JKは学校をやめる。

 朝勉の習慣で六時前に目が覚めたが、今日が映画の日だと思い出すと、また寝た。次に目が覚めたのは十時過ぎだった。ひさしぶりのオフだと思うと気分がよく、映画もふつうに楽しみだった。映画は十三時ちょうどからの回を取ってある。まだ時間はあるし、のんびり母親が作り置きしてくれていた朝食を食べ、テレビのワイドショーを見た。ぱさぱさのトーストもしなびたキャベツも冷えきったコーヒーもなんだか美味しく感じる。いい日になりそうだなと思った。野間と一緒に出かける日は、べつに特別じゃないし、特別なことがあるわけじゃないけど、かならずいい日になるのだ。昔からそうだった。

 自衛隊のニュースをぼんやり眺め、僕はセンター試験の社会科目では理系にとって点数を稼ぎやすい地理を受けるのだが、保険として現代社会も受けてはおくので、なにかの役に立つかなとまだ醒めきっていない頭で考えていると、けたたましく電話が鳴った。

「おかあさん、でんわー!」

 壁掛けの電話はすぐそこにあるのだし、取ってもよかったが、母親のいるだろう二階にも子機があるので、階上に声を投げかけた。が、どっかに出かけているのか、ベランダで洗濯物を干しているのか、電話を取ってくれる気配がない。気もそぞろにテレビに目を向けていると、ふいに留守録にきりかわった電話が僕の名前を呼んだ。

『新立さん……?』

 女性の声だった。女友だちで僕をそう呼ぶのは甘井ちゃんしかいないはずが、甘井ちゃんよりも子どもっぽい声で、電話ごしだと感覚はまた違ったけれど、その人なつこい呼び方に覚えがあった。僕は慌てて立ち上がり、すぐに電話を取った。

「……先生ですか?」

 ごくりと唾を飲み込み、そう話しかけた。どうしてかいつものように「JK」とは呼ばなかった。反射的に、僕は彼女を「先生」と呼んだ。

『あ、よかった、新立さんの声だ!』

 JKは異様なほど朗らかな声で言った。でもなんだか水くさく聞こえたのは、中古で買った電話機の音質が悪いせいなのか。

 なんでうちの電話番号を知ってるんだろう。いや、担任なんだし、知ってて当たり前か。でも、掛けてきたことはたぶんないわけで、いったい何の用事なのか、受話器を持つ手が汗にぬれる。

『ねえ、新立さん。いまから会えないかな? ミスドにいるの。待ってるから』

 電話の声は消え入るように変わり、そのまま途切れた。つぅー、つぅー、という音を右耳にわだかまらせたまま、自転車に飛び乗った。

 駅前のロータリーに慣性ドリフトですべりこんで、ミスタードーナツ脇の植え込みのなかに自転車を横倒しにし、息も整わないまま店内に入った。JKは外に面したカウンター席を占めていて、きれいに磨かれたフロントサッシごしに僕の姿には気づいていたんだろう、笑顔で手を振ってきたが、自転車の爆走、というか余裕のなさを見られたと思うと恥ずかしく、目を逸らして、天井付近の壁に貼り付いたメニューボードをたしかめる。

「どうぞ、座って」

 JKにうながされ、僕はコーラをトレイごとテーブルのうえに置き、木の組まれた堅そうな椅子を引いて座った。そこでやっと気づいたのだが、JKは化粧をばっちりきめており、目の醒めるようなオリーブ色に染まった髪はくるくる巻かれ、左の耳たぶは処刑でもされたみたいなぶっといピアスに貫かれていた。

「私ね、学校辞めて、この町を出るよ」

 ネイルのまぶしい指が添えられたアイスコーヒーを見て、福井さんは騙されたのだと知る。産休なんかじゃなかったわけだ。

「僕のせいなん?」

 尋ねると心臓がばくばく唸る。あれだけの問題を起こし、責任を問われないはずがなかった。

「いろんな生き方がある」

 そうだ、ずっとそのことを示してくれていたのが彼女だった。つまり、「先生」という文字通りのありかたで、校則とか、受験とか、そういうのばかりが人生の重みではないのだと背中で示してくれた。

「罪滅ぼしにさ、デートしてよ」

 いつも笑っていたJKがはじめて見せる笑顔で言った。コケティッシュな香水の匂いでごまかしてる弱さをその表情のなかに見つけてしまう。

「知ってるかわからないけど、私、いまの高校の卒業生なの。中学校も、もちろん小学校もこの町で、ついでにいうと大学もとなり駅の県立だったから、ぜんぜんこの町から出たことなかった。というかね、教育実習もいまの高校で、大学を卒業するとすぐに赴任したから、私、学校しか知らないの。初恋も、高校のときの先生、というか、ティーチャーでね。私はあのひとのいいところもたくさん知ってるし、甘井さんにしたことをあんまり悪いと思ってなかったというか、なつかしいなっていうほろ苦さのほうが大きくて、複雑なんだけど。で、私も高校の生徒としたことが何度かあるの」

 知らなかった。JKは京都のすごい大学に行ってたって噂を信じてたし、勉強ができるだけじゃなく社会のこともいろいろ知ってて、大人の恋愛をしてきていて、そういうふうに僕たちに教えてくれてるんだと思ってた。ぜんぜん違うじゃん。

「それでね、ホテルから出るところを高橋さんに見つかって、叱られちゃった。あの子はほんとうにかっこいいね。でも、高橋さんとはしてない。これは彼の名誉のために言っとく」

 だから高橋くんは彼女をJKと名づけたんだ。

「悪いけどさ、気にしてないよ。だって、私、高校が好きだし。たぶん、誰よりも好きな自信あるよ。高橋さんよりも、福井さんよりも、甘井さんよりも、野間さんよりも、新立さんよりもね。ただ、私」

 JKはひとこきゅう置いて、まっかなくちびるでストローをくわえた。グラスの大人びたアイスコーヒーがあがっていく。こくん、と苦しそうにのどを鳴らし、ちいさく息を吐いて、言った。

「かわいそうじゃないデートがしてみたかった。そういうの、わかるかな。私は高校で、教師と生徒の恋愛しかしたことがなくて、それでぜんぜんいいと思ってたんだけど、いま思えば、ね。私が高校にやり残した、たったひとつのことが、それなの。別になにもしなくていい。手をつながなくていいし、キスもしなくていいし、そのさきももちろんなくていい。ただ、道をまっすぐに歩いてくれたらいい。それだけなの。この町の、ずっと過ごしてきたこの町の、道を、ただ歩きたい。夕日が落ちて、あたりが真っ暗になるまで、どこまでも。ねえ、新立くん、おねがい」

 僕はすぐにうなずいた。道をどこまでも歩く、というデートがすごくいいと思ったし、JKは背中を押してほしいのだと思うから、断れるはずもなかった。野間との映画は連絡もせずにキャンセルするわけで、それは別にいいと思った、というか、話せばわかってくれると思ったけれど、僕はきっとこの話を野間にも、誰にもしないだろうと思ったから、そのことがむしろ申し訳なかった。申し訳ない、という言葉の意味を、現代文の先生だったJKがさいごに教えてくれる。誰にも話せない、ということなんだ。

 この町のすごく好きなところがあって、それは、道がまっすぐなところだった。海沿いの工場地帯だとか港だとかに資材を運搬するトレーラーが駆け抜ける道は軽自動車なら二台ならんで走れそうなぐらい片側一車線の道が広く、そしてちっとも曲がってない。自転車で高校にいくときなんかはよく走った道だけれど、こうして長く歩いたのは初めてだった。手をつないで、まっすぐなだけの道を、どこまでも歩いた。何台もの、ほんとうに何台もの車とすれ違った。ほとんどがマツダ車だった。空にはもちろん自衛隊機が飛んでいった。うっとりした。やがて夕日が落ち、あたりは真っ暗になった。道が曲がるよりまえに、僕はJKに失恋をした。

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