六花とけて、君よ来い

錦魚葉椿

第1話

 オペレーションルームから眼下に広がる漆黒の闇。

 新しい宇宙ステーションは完成間近だった。太陽光を反射して真っ白に輝くドーム状のそれに、極めて不自然に巨大な推進装置が取り付けられつつあった。

 地球の公転軌道に沿う宇宙ステーションの軌道修正を目的とするような規模ではなかった。

 ユシュエンは宇宙における建築物の施工管理を専門にしている。

 腕を組み、しばらく眺めていたが、考えることを放棄した。

 彼は宇宙に3万人ほどいる常駐の宇宙技師。国籍は「宇宙籍」。

 宇宙は住みやすくなったとはいえ、人間にとって最適化された生活環境とは言えない。

 月などはそのなかでも観光地であるから、ツアーガイドのような普通の人もいるが、彼の住む建築拠点の宇宙ステーションなどには、地球に還れないような変人が暮らしている。

 その中でも彼は宇宙生まれ宇宙育ち。ほぼ宇宙人。

 9カ月間の宇宙勤務と、3カ月の健康チェック休暇を繰り返す。

 来週から3カ月の地上生活に入る。

 深いため息をついた。



 休暇前の引継ぎと業務報告を終え、休暇前のあいさつに訪れたところ、上司はソファー指し示した。浅く腰掛けた彼の足が窮屈そうに折り曲げられる。

 ロシアをルーツとする上司から見て、東洋顔の彼の表情は読みづらい。

 いつも不機嫌そうに見えた。

「今回、極めてイレギュラーな措置であるが、君は地球で例の治験の続きに取り組んでほしい」

 憮然とした表情を隠さないユシュエンに、上司は苦笑いをする。これは読み違えなくはっきりとした不機嫌な顔だ。

「私は治験の内容も目的も聞かされておりません」

 半年前、上司から「治験を受けてみないか」とそんな質問を受けた。

 ないか、という一応質問の体をとっていたが。予備チェックと称して、ほぼ無理やり研究施設に突っ込まれた。何の治験なのかの説明もないまま、数百件の質問に対する回答と、一万近い人間の写真に対する脳波の反応データと遺伝子配列データを譲り渡すことになった。

 ややあって、上司はゆっくりと言い聞かせるように彼に伝えた。

「君仕様にカスタマイズされたヒューマノイドロボットが生産されている。指導者様の指示だ」

 不機嫌に眉を顰め、まっすぐ上司を見据え、静かに男は問うた。

「私を変態扱いする必要性についてご説明いただけますでしょうか」

 性的指向がどのような方向を向いていても、表立っては非難を受けない時代になって久しい。忌憚ない表現をすれば、相手の合意が明確に取れるのであれば、なんだって許容される時代になった。それでも、ヒューマノイドロボットへの性的嗜好は児童性愛程度のカテゴリにあるといっても過言でないと思う。

「そのような意図は毛頭ない」

 上司はやや老いて緩くなった自分の顎の線を揉みしだくように触れながら、慎重に言葉を選ぶ。視線は窓の外。遠くに逸らされた。

「指導者様はお前のことをかっておられる」

 いずれにしても、指導者様の指示であれば、それが拒否できる類のものではないことだけは理解できた。指導者様はこの宇宙ステーションの所有者であり、彼らの雇い主。

 あるいは彼らの一族の専制君主。

 その方の指示であるならばもう考えても仕方がないことだ。

 彼は了承の意を伝えて早々に上司の前を辞した。



 宇宙技師は前時代の船乗りに似ている。

 9カ月航海をして3カ月港に戻ってくる。

 宇宙技師にも地球にそういう妻子がいて、高給を稼ぐために危険な職場を選んで宇宙に来た者が多い。そういう奴らは目的の金額が貯まったらすぐに陸に帰る。

 ユシュエンはそういう種類の人種ではなかった。

 彼の両親はともに宇宙を職場にしていて、彼は法で定める最低限しか陸で生活していない。

 幼いころから精製された酸素しか摂取していないため、管理されていない空調温度や湿度、空気の匂いが苦手だ。

 陸の重力が辛くてならない。重力に沿って進化した人間は宇宙に来ると脳への血圧が強すぎて頭痛に苦しむらしいが、ユシュエンは地上に降りると圧が強すぎて倦怠感が強い。

 全身にかかる引力が耐え難く自分を縛る感覚を憶える。

「大きな問題はないですね。血中色素が下がっているので食事に注意してください」

「ウェアラブル端末に毎晩同じことをいわれている」

 よそ行きだった宇宙常駐健康管理医師の唇の端がぐっと吊り上がり、友人の顔になった。

「もう少し地球で過ごさないと長生きできないぞ」

「人並みの寿命は諦めているよ」

 俺もだと医師はにやりと笑った。紙のように青白い顔色、すこし落ち窪んだ眼窩。荒っぽく適当に束ねているオレンジ色の髪。

 彼も地上に降りたがらない。宇宙常駐を希望する医師は技師よりはるかに少ないので、代わりが来ないことを理由にして知る限りずっと宇宙暮らしのようだった。彼が浴びた宇宙線は生涯規定量をはるかに超えているだろう。

 ユシュエンは子供のころからずっと宇宙暮らしだからちょうど同じぐらいだろうか。

 結構悪いと思われる医師の健康診断結果は誰が諫めるのだろう。

「“あれ”に乗る。お前もか」

 声を落として手短に問われた言葉に、黙って頷く。

 盗聴されているだろう。彼らの指導者様は神の如く全能だ。

「そうか、おかの恋人によろしくな」

 友人はユシュエンに恋人がいて、今回の地上生活が最後の別れになることを理解している。

 彼に与えられた任務においても、彼の恋人の寿命においても。



 宇宙ステーションに模した宇宙船は事故を装って、三か月後火星に向けて放たれる。

 指導者様はどの国の誰よりも早く、火星へ入植することに執念を燃やしている。宇宙技師の中からこれという数十名に打診された。

 優秀で家族おらず、地球に執着のない者、宇宙への適性が高い者。

 労働力としてはヒューマノイドロボットを利用するが、中枢は人間でないといけないと判断したようだった。

 絶対に帰ってこれない片道切符。

 ユシュエンは一生地上に降りなくていい人生を選んだ。

 彼女の命の尽きる瞬間にその場にいることは耐えられそうになかったからだ。



 初めて彼女に出会ったのは十五歳の頃。

 遺伝学上黒い髪しか生まれない種族でありながら、髪の色は南国の海のようなトロピカルグリーンをしていた。同じ顔の姉妹は十数名いて、同じ顔の同じ年の少女たちがまるで遠足のように二人ずつ手をつないで廊下を歩いてきた。

 その中のたった一人とユシュエンは恋に落ちた。



 地球上で栄華を極める一族の長が、自分の遺伝子を使って永遠の命を維持する研究をしている。彼はこの宇宙ステーションの所有者であり、この施設内であらゆる生命倫理を超えた研究をしていた。

 ユシュエンの両親は雇われたあるいは囚われた研究者。

 彼女たちは男の研究成果だった。

 生きたサイボーグと呼ばれる彼女たち。

 彼女につけられた名は六花リィゥファ。出生順に機械的につけられた六番目の花。


 リィゥファの遺伝上の父である所有者は二人の“恋”を大変面白がった。

 体に埋め込まれた識別チップでしか同定できないほどよく似た姉妹たちの中から誰でもない一人を選んだことを研究対象にするように指示し、二人の仲を鷹揚に見守るように指示した。

 むしろ、厳しかったのは彼女の姉妹たちだった。

 自分を変わりのない何かとして愛してくれる人を切望していた彼女たちはリィゥファを凄まじく羨み、ひどく憎んだ。

 いろんな耐え難い出来事があったが、それも数年の事だった。

 たくさんいたリィゥファの姉妹たちは年を追うごとに減っていったからだ。

 最高水準の医療を施されても、花々は静かに萎れていった。

 無理やり組み替えられた遺伝子が緩やかに解け自壊していく。

 リィゥファもその例外ではなかった。

 彼女は陸の研究施設に降ろされた。さらなる研究に利用されるために。

 宇宙籍のユシュエンには自由に地上に降りるビザはなく、正式な国籍のないリィゥファは彼らの施設から外に出ることはできない。そうやって引き離された。



 陸に降りるシャトルの搭乗口で、係員からチケットを渡された。

 彼らも指導者様の下に属する者たちだ。

 そのチケットの行き先にいくことを指示されたということだ。

 ユシュエンはチケットとともに動揺を胸ポケットに押し込める。

 窓側の席に座り、シートベルトを装着して、目を閉じた。

 地球への下降にともなう重力を彼は特に苦手にしていたので、その一時間は睡眠時間に充てる予定だ。



 宇宙船が予定通りに着陸した後、チケットに従って移動する。

 北米の研究施設に導かれた。

 ポプラの並木道の果ての要塞。

 チケットで導かれるまでもなく、彼の目的地はこの研究施設だった。

 この研究施設の奥にある病院に彼の恋人は最後の時間を過ごしている。


 リィゥファはたくさんの管に繋がれ、小さく丸まって眠っていた。

 長い闘病のため、空にいたころのような美しい姿を失っている。

 輸液によりぶよぶよにむくんだ顔と手足。髪はすっかり抜け落ち、潤いを失い、まるで地上に掘り出されたカブトムシの幼虫のよう。

 毛髪は全て失っていたが、ぱっちりと開かれた瞳は大きく、いまもなおロウカン翡翠のようにとろみのある澄んだ色をしている。

 彼女はその色を嫌っていた。

 細胞をいじくりまわした結果、創出された色彩だからだ。

 民族の遺伝子通りに黒い髪と黒い目で産まれたかったと彼女は言う。



 二十歳になる前に彼女は宇宙では過ごせない体になった。

 だが、ユシュエンは地上で暮らすことはできない。

 彼にとって地上は異世界のようなものだったし、そもそも生活の糧がない。

 年に三カ月だけ彼女とともに過ごす生活を続けていた。

 人工的な遺伝子がすこしずつ確実に解けていく、人類の罪を目の当たりにしながら。

 1年前、ついに脳に腫瘍ができたとき、彼女は静かにそれを受け入れた。

 驚き嘆き悲しむユシュエンをむしろ慰め、やっとこの体から解き放たれることを喜んだ。

「私、蝶に生まれ変わってあなたのところに還りたいわ」

 彼女の姉妹たちは「取替の利く部位」なら交換されて生き延びていたから。

 彼女たちの父による残酷な実験は今もなお熱心に続けられていた。

 やっと実験体から降りることができる。


 目を覚ました恋人を抱きしめる。

 リンパ液の匂いがした。



 彼女を抱き上げて車いすに乗せると、彼女が望むまま隣の研究施設に運ばされる。

 建物のエントランスで出迎えられた瞬間に見知らぬ男に左手をしっかりと握られる。握手ではない。確保された。

 飛びついてきた男はまるで猿か、見慣れない獣のようだった。

 この施設の管理者のことを「変態の神に溺愛された百年に一度の天才魔術師」と上司は表現した。その男は想像よりずっと小柄で若かった。

 猫背で手が長く、赤い髪はぼさぼさで肘のあたりまで伸びた状態で放置されている。見開いた白目の真ん中で、アイスブルーの球形が浮いている。リミッターを振り切った狂気で目をキラキラさせ、完全に「逝っちゃってる」瞳をしていた。

 子供のころ図鑑で見た異国の妖精キジムナーにそっくりだと思った。

 その横に微笑んで立っていたのは彼の愛する「リィゥファ」。

 健康な肌色、まっすぐで美しい黒髪を腰まで伸ばしている。夜の湖のような闇色の眼はまっすぐに彼を見上げた。

宇轩ユシュエン

 一族の母国語の正確な発音で彼を呼んだ。

 それは二人だけの甘い秘密だったのに。


 驚いて、恋人の方を振り返った。

 車椅子にもたれかかった彼女はつかれた様子で既にぐったりしていたが、そっと目を閉じうなずいた。

 何に頷かれているのか、何を肯定されているのかユシュエンにはわからない。

「リィゥファの脳の中身を正確に復元している。彼女はリィゥファだよ。火星に行くまでに微調整しようと思って、君に来てもらった」

 博士はまず、ユシュエンにヒューマノイドロボットの手をつながせた。

 びっくりするぐらい違和感がなかった。

 温度にも感触にも。

「脳は千数百億個の神経細胞から構成され、電気信号を発してお互いに情報をやりとりしている。仕組みを機械に乗せ換える。君たちのやり取りから思考のバイアスを加味して修正している。この3カ月で彼女はリィゥファとして完成するだろう」

 うなだれている本物のリィゥファの前で驚くことも、まして喜ぶことも、どんな反応をしていいのかわからなくて気が遠くなる。

 彼女の体は、ヒューマノイドロボットへ脳の中身を移植する最終実験に利用されていることを知った。


 男はキジムナー博士と呼ばれることを嫌がらなかった。

 そもそも、常識的な自己紹介を受けたわけではないため、今も名前をよく知らなかったので、他に呼びようもないのだが。むしろ、映像を確認するや深く納得し、普通に返事をするようになった。

 キジムナー博士に促されるまま、ヒューマノイドロボットを連れて、地球上のあちこちを旅した。ユシュエンの宇宙籍のパスポートはどの国境を超えることも許されていたが、どうやって取得したのか戸籍すらないはずのリィゥファにもパスポートが与えられた。

 パスポートを嬉しそうに胸に抱く姿、行きたいと言っていた南の海や秘境の谷、地の底の美しい湖を眺め涙ぐんでいる様子は本物のように見えた。

 ありふれた真っ黒い髪は誰の目を引くこともなかった。

 ただの普通の恋人として過ごした。

 二人で過ごし、研究施設に戻る。それを何度も繰り返すたびに、補正を加えられて、ヒューマノイドロボットへの違和感は拭い去られていく。

「もう、俺はリィゥファを見分けることができないかもしれない」

 ユシュエンは心から疲れていた。

 あまりにも幸せで楽しい時間の向こうに、本物のリィゥファがいることがわかっている。

 だんだんぼやけていく「本物のリィゥファ」。

 本物とは何だろう。

 自分の方が本物と言えるのかどうかすら疑わしくなっていた。


「もう、実験から降りてはいけないだろうか。キジムナー博士」

 ユシュエンの懊悩は実験として成功といえ、博士にとって喜ばしいことだった。

「そうか、それはよかった。残りの時間はリィゥファと過ごしたらいい」

 黒髪の恋人は博士の方を驚いた様子で見上げた。

 キジムナー博士はロボットと人は差がないという信念を持っていたが、それは彼が限りなくロボットに近いことが要因だった。彼は、黒髪のリィゥファの怒りも戸惑いも理解できない様子で彼女を再び保存ケースに戻そうとした。

「嫌よ」

 博士の腕を振り払った彼女の髪はフレアスカートのように広がり、そして静かに背に流れる。黒髪のリィゥファはユシュエンの手を両手で握って、懇願する。

「必ずここに戻ってきて、私を愛して。私はあなたの本当の恋人なの。私はあなたの為に生まれてきたの―――――」



 窓の大きい広々とした病室からは雪深い針葉樹の森が良く見渡せる。

 彼女は膝の上にオルゴールを乗せて、小さな針がつま弾く単調な音楽を聴いていた。

 初めて二人で地上デートした時、プレゼントしたアンティークなオルゴール。物悲しいグリーンスリーブスのメロディーが繰り返し、繰り返し流れていた。

 昔の姿と違っていても、一瞬たじろぐような姿であっても、ほっとする。

 ただいま、といって躊躇っているユシュエンの頭を手を差し伸べてそっと抱き込んだ。

「夢のようだった。君を連れていきたかったところに行くことができた。でも本当は君じゃないことが、とてもつらい」

 ユシュエンは目を開けていられなかった。リィゥファの瞳にどんな感情が浮かんでいるのか確かめる勇気がなかった。

「彼女は“必ずここに戻ってきて、私を愛して”といったんだ。あれは君の偽物なのに、君に言われているような気がした」

 ああと深い吐息を吐いて、リィゥファは微笑んだ。

 白く浮き上がった顔の向こう側にかつての彼女のうつくしい顔の、幻覚を見た。

「安心したわ―――――わたし、あなたが宇宙に戻るたび、そう思ってた」

 記憶となる情報をヒューマノイドロボットへ乗せ換えるため。彼女の脳の中には既に記録装置が埋め込まれている。その装置に残らないよう、彼女は以前よりまして、多くを語らなくなった。

 指導者様の気持ちに添わないと判断されることは口にしないように。

 どのようにでも解釈できる言葉。

「この体から自由になって、あなたのところに行くわ」

 遠くで、幸せに暮らしましょう。

 彼女は声になるかならないか、かすれた声でそこまで囁くと、力尽きた様子で体を横たえる。

「―――――では、先に行っているよ」

「ええ、待っていて」

 蓋が空いたままのオルゴールの針が最後の音を弾いて遂に止まった。



 二人は残された日々を静かに過ごした。

 研究施設の塀の中には温室があって、指導者様が特に好む鮮やかな赤のブーゲンビリアが天井から吊るされて、見事に咲き誇っていた。

 ヒューマノイドロボットは先週、貨物で発送した。

 中身のデータはフォーマットされて空っぽだ。

 火星行きの船の彼の部屋に届いたころだろう。

 地上の雪が解ける季節の頃には、彼女の魂は体から解放され。最後の瞬間までの記憶がキジムナー博士の手によってヒューマノイドロボットへ送信される。

 それを起動プログラムとして彼女の魂は「復活」する。



 ユシュエンは宇宙に還る船に乗り込むとき、温室で採取した蝶の卵を荷物に忍ばせた。火星に持っていくつもりだ。

 「重力から自由な蝶に生まれ変わりたい」と言った恋人のために。





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六花とけて、君よ来い 錦魚葉椿 @BEL13542

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