波間に揺れる恋心 ⑨




 太陽ヘリオスが地平の向こうへ去り、セレネが昇ってまた去って、エオスが東の空より駆け出してくる。

 一日が過ぎて、海の底に暮らす乙女たちの上にも、新たな一日がやって来る。


 エーゲ海の底の輝く宮殿から、アムピトリーテは一人出かけようとしていた。

 誰もいないと思えた宮殿の廊下を歩いていたが、しかし、


「見ーつーけーたー!」

「ひゃあっ!?」


 突然、間近に声が上がると同時に両腕をがっちりとつかまれて、アムピトリーテは悲鳴を上げる。

 左右を見ると、どこから現れたのか、姉たちの二人が怖い顔をしてアムピトリーテの左右の腕をしっかりと取り押さえている。


「まぁた黙って出かけようとして!」

「本当に何度言ってもわかんないんだから、この末っ子は!」

「ちょっと! 放してよ! 

あたしがどこに出かけようとあたしの勝手でしょ!?」


 かみつくようにして抗議の声を上げるアムピトリーテに、姉二人は少しだけ表情を和らげて言う。


「出かけるのはいいけれど、一言断ってから出かけなさいよって言ってるの」

「いつの間にかいなくなってたら心配するでしょ? 

ほら、せめて出かける前に、お母さまにあいさつしてから出かけなさいな」


 やんわりと諭すように言われて、アムピトリーテは不承不承うなずく。

 そのまま姉二人の引きずられるようにして、アムピトリーテは母ドーリスの部屋へとつれられていった。



 香炉からただよう煙が薄く満ちる魔女の部屋に、ドーリスとネレイスたちが集まっている。

 姉妹たちがのんびりと思い思いに過ごしているのを尻目に、アムピトリーテは玉座に着いた母の前に進み出る。


「おはよう、母さん」

「おはよう、アムピトリーテ」

「これから、ちょっと出かけてくるから。夕方までには戻る」

「あら、珍しいこと。きちんとあいさつしてくれるなんて」


 深い色をした瞳に微笑みをひらめかせてドーリスがそう言うのに、アムピトリーテはふくれっ面をしてそっぽを向いた。


 その様子に、すぐそばで談笑していた姉妹たちが、ふと会話を止めて、顔を見合わせてクスクスと笑う。


「今日も今日とて、ねえ?」


 意味ありげなその様子に、アムピトリーテの水色の瞳がつり上がる。


「何が言いたいのよ」

「だって、アムピー、口ではポセイドンさまのこと馬鹿だのキモイだの言うけれど、ほんとのところはそれほど嫌いでもないんじゃないかしらって、ね」

「そんなことないわよ、大嫌いよ!」

「だったら、どうして馬鹿正直に、毎日宮殿から出かけていくの? 

本当に嫌いで、会いたくなかったら、宮殿の中に引きこもってればいいのに。

なんだかんだ言いつつ、ポセイドンさまに追いかけられるのが楽しいみたい」

「そんなこと……ないわよ!」


 姉の言葉に、反論が口から出る瞬間に突っかかる。

 アムピトリーテは大きく息をつくと、


「あんな奴のせいなんかで、自分のやりたいことを我慢したくないだけよ」


 平静な声を作ってそう言う。

 姉妹たちはおかしそうな笑みを口元にはりつけて、


「ふうん? 物は言いよう、って感じ?」

「そりゃ、ちょっと気分いいでしょうよ。

海の支配者にあれだけ熱烈に追いかけられたら。

女冥利に尽きるってものよねぇ」

「目一杯、転がして、振り回してあげたくなっちゃうわよね。

アムピーったら小悪魔ー」 


 そうはやし立てるように口々に言って笑った。


 ――アムピトリーテさまは、ポセイドンさまのことがお嫌いですか?


 昨日、老アザラシに問われたのが脳裏のよみがえる。

 かっと顔が熱くなって、アムピトリーテは思わず声を荒げていた。


「そんなんじゃないってば! 勝手なことばっかり言わないで! 

周りで好き勝手茶化しておもしろがって……いい加減にしてよ、迷惑なの! 

どうして放っておいてくれないのよ!」


 髪の毛が逆立たんばかりに怒った、ハリセンボンのような妹の様子を見て、姉妹たちは一様に驚いた顔をして口をつぐむ。


 激昂したアムピトリーテ、呆気に取られるネレイスたちを見下ろして、玉座のドーリスがおもむろに口を開く。


「アムピトリーテ」

「……はい、母さん」

「潮の流れは行くべき場所を知っているもの。

その流れは、逆らうこともとどめることもできはしない。

アムピトリーテ、あなたの目は外ではなく内側に向けてご覧なさい。

自分の内側、心に目を向けるの。そこに流れの行き着く先が見えるでしょう」


 肩で息をついて、アムピトリーテは母の瞳をじっと見つめる。

 ドーリスは静かにその眼差しを受け止めて、おおらかな微笑みを浮かべた。


「いってらっしゃい」

「……いってきます」


 ふてくされた顔をして、アムピトリーテはきびすを返す。


 後も見ずに駆け出して、あっという間に部屋を出て行ってしまったアムピトリーテの背中を見送って、ネレイスたちはわらわらと玉座の母の元に集まってくる。


「ねえ、母さま、さっきのってどういうこと?」

「あの子、人から意見されるとすぐ意固地になって、素直になれないところがあるから。

人から言われるとつい反発してしまって、白と思っていることも黒と言ってしまうのよ。

だから、周りの雑音が入らないところで、自分の心と向き合ってみなさいと言ったの」


 母の言葉に、ネレイスたちは感心した表情でうなずき合った。


「なるほど」

「さすが母さま」

「それに……ポセイドンさまがあの子のことを少しでも理解しているなら、そろそろ勝負のかけどころね」


 ドーリスの意味深な物言いに、娘たちは顔を見合わせ、そしてぐっと身を乗り出してくる。


「つまり?」

「押して押して押しまくられて、最後にちょっと引いてみせられると、あっさりころっと転んでしまうものだから」

「母さま……そうやって父さまを落としたの?」


 娘たちのその問いに、ドーリスはただ蠱惑的な微笑みを返した。



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Symposion Ⅱ 宮条 優樹 @ym-2015

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