第8話 子供。

 シア達を席に案内すると、店の女将は踵を返し急いで階段を駆け上がって行った。


「嫌! なんで私がやらなきゃならないの? いつもみたいにあいつにやらせればいいじゃない!」

「大声を出さないでおくれ! 下へ行けばわかるからさ。早く用意をし!」


 上の階から女将と若い女の言い争う声が漏れ聞こえてくる。

 宿泊用の部屋を整えるために階上へ行ったのだと思っていたのだが、どうやら違うらしい。その理由は安易に想像できてシアは辟易する。

 籠を厨房へ運び込んだアミールが、水の入った器を三個乗せた盆を手に出て来た。ちょうど同じタイミングで十代半ばの少女を連れた女将が階段の下で出くわす。少女は女将と良く似ていた。恐らく親子なのだろう。


「アミール、お待ち!」

「え?」


 驚いて立ち止まったアミールから女将は盆を奪うように取り上げた。

 そして、目を瞬かさせているアミールに人差し指の先を突きつけ命じる。


「おまえは2階へ行って急いで部屋を整えてきな」

「レジナ、おまえはその水をお客様にお出ししておいで」


 女将はアミールから取り上げた盆を娘に押し付けた。娘のレジナは不貞腐れた顔で盆を掴むと、危なげな足取りでシア達の方へ歩いて来る。運び慣れていないのは明らかだった。盆の上を器が右へ左へと移動している。

 その様子をギルは面白そうに眺めていた。一方のシアは外していたフードをわざわざ被り直している。

 やっとのことでシア達の席へ辿り着いたレジナは、盆を机の上にドンと置いた。その衝撃で、さらに器から水が零れる。盆の上はすでに水浸しになっていた。

 だが、レジナはその事を気にするわけでもなく、ただ大仕事でもしたように大きく息を吐いた。


「ご苦労だったな」


 ギルが声をかければ、レジナが不服そうな表情のまま顔を上げた。

 だが、笑みを浮かべるギルの顔を見た途端、彼女の頬が一気に赤く染まる。それも仕方がないっことだった。ギルも非常に整った顔をしていたのだ。シアとはまた違う種類の女に好まれる男だった。シアがあまりに整い過ぎているために、ギルの端整な顔立ちが目立たないだけなのだ。そんな男に笑みを浮かべて見つめられれば、下町の年頃の娘が何も感じずにいられるはずがない。案の定、レジナは落ち着きなく目を彷徨わせている。その視線がフードで顔を隠したシアが抱き寄せているフレイアの上で止まった。露わになった金色の髪は緩い巻き毛で、目を閉じていても分かるお人形のような可愛いフレイアの姿にレジナは一瞬見惚れているようだった。

 ふいにフレイアが身動ぐ。彼女の長いまつ毛が揺れ、瞼の下から青い瞳がゆっくりと現れた。澄んだ瞳にレジナの姿が映ると、フレイアはふわりとほほ笑みを浮かべる。途端、レジナが怯んだように見えた。

 だが、すぐに虚勢を張るように、娘はふんと鼻をならす。腰に手を当て、挑むようにフレイアを見下ろした。


「……水を持ってきてあげたわよ」


 横柄な娘の言葉に対し、フレイアは笑みを浮かべたままこくりと頷く。


「この子、お礼も言えないの?」


 呆れたように呟いたその言葉に、フレイアの表情が僅かに悲し気なものへと変わった。彼女の一挙手一投足を見逃すはずがないシアの机の上に置いていた右手の指先がピクリと反応した。ギルは即座にシアの右手を自分の掌で押さえつけ、陽気な声をあげる。


「すまないな。お嬢様は声が出ないんだ。お水をありがとう。喉がカラカラに乾いていたんだ。助かったよ」


 ギルに笑顔でお礼を言われて悪い気はしなかったのだろう。得意げな顔でレジナは盆を抱えて厨房へと戻って行った。


「どけてください」


 シアの冷ややかな声に、ギルは言われるまま手をどけた。


「……私が子供相手に何かするとでも?」


 心外だとばかりにシアが問う。


「思わないが、不穏な気を感じたんだよ」

「当然です。彼女は自分がまだ子供であった事に感謝するべきですね」


 呆れた顔でギルはまだ不快な気持ちを持て余しているシアを眺めるのだった。

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