ある男爵令嬢が取り戻したもの

灰色テッポ

ある男爵令嬢が取り戻したもの

「お前が悪いんだぞフロレンシア。だから俺はお前との婚約を破棄しなくてはならないんだ。すべてお前のせいなんだぞ!」


 私が一体何をしたというのだろう?


 私の婚約者は夜会の席で人目も憚らず私にそう言った。彼の名はフランツ・ブルノア。伯爵家の嫡男である彼は、私の家が男爵という下級貴族である事を馬鹿にしている。

 婚約者である私フロレンシア・ダルトンの事はもちろん、ダルトン家全員を格下な人間とみなしているのは間違いない。


 我が家にはブルノア伯爵家に臣従していた歴史がある。フランツ様の態度にはそんな背景の影響もあるのだろう、現に両家の関係はいま尚それを引き摺っていた。

 ゆえに我が家としても覚悟の上での婚約だったと言える。だから今更その事を非難するつもりはなかった。


 私がフランツ様に我慢ならないのは、その利己的で他責思考の人間性だ。


「仰る意味が分かりませんわ、フランツ様」

「とぼけているのか? 俺は婚約破棄などというお互い不名誉になる真似、本当はしたくないんだ。なのにお前ときたら伯爵家の妻となる努力をしようともしない!」


 我慢ならないと先ほど言ったが、婚約してからの二年間、私はもうすでに我慢に我慢を重ねて過ごしてきた。

 いいえ、それは正確ではない。それが我慢だとも分からぬまま、必死でフランツ様の言う通りに努力してきたのだ。それをこの人は、私が努力してこなかったと言い切ったのである。


「とぼけてなどおりません。婚約破棄をフランツ様が口になされた理由が、私ほんとうに分かりませんの」

「ならば教えてやろう。さっきからお前は黙って俺がカードをしているのを見ているが、それがおかしいとは思わないのか?」


 ああ、そういう事なのね。フランツ様はギャンブルがお好きのようで、しばしば熱中した挙げ句に多額の損失を被る。

 今日もカードで負け続けていたから、大層不機嫌なようだ。


「何故お前は俺を諌めてカードをやめさせようとしない? 俺がカードに夢中になって冷静さを欠いていたのは見ていれば分かったはずだ、違うか!」


 だから何? と今の私は思う。


 少し前の私だったら、これから言うだろうフランツ様の言葉に反省し心を悩ませた。だけどもうそんな事はしない。しちゃいけないのだ。


「本当に善き妻になろうと心掛けている者なら、夫となる者がカードで負けが込むのを黙って見ているか? 心配して止めようとするのが普通だろっ」


 ええ、ですから私は何度もお止めしてきましたわ。でもその度にフランツ様は、「男に恥をかかせるな!」とお怒りになられてきたではありませんか。

 じゃあどうしたらいいのかと私は悩み、言葉やタイミングを変えて何とかお止め出来るようにと努力してきた。


 だけど、すべて無駄だったな……。


「そうですね、私も心配するのが普通だと思います。けど、フランツ様と普通でいる事を私はもう諦めました」

「なんだと!? どういう意味だ」


 そこでフランツ様は自分がゲームを中断させてしまっている事に気が付いたのだろう。テーブルを囲んでいたゲーム参加者の皆様からの視線が、露骨に迷惑だと訴えている。


「フロレンシア、話の続きだ。ちょっとテラスまでついて来い」


 そう吐き捨てて席を立ったフランツ様は、さすがに人目が気になりだした様で私を人気の無いテラスへと誘う。話をする事に異存のなかった私は彼の後に続いた。


 テラスは満天の星空の下、篝火に照らされてとても素敵だ。フランツ様と一緒でなかったら私はどんなに楽しく思えたろうか……。自分の婚約者をそんな風に思わなければならない事が少し寂しい。

 とはいえ夜風はもう冷たい季節だったので、いくら素敵でもこのテラスを楽しむ人たちは誰もいないみたいだ。


「それでお話というのは、婚約破棄についての事でよろしいのですよね?」

「婚約破棄だと? ったく、お前は本当に駄目な人間だな。今まで俺はそんなお前が少しでもマシな人間になれるようにと、散々世話をやいてきたというのに。俺の苦労がまだ分からんとは情けない!」

「私が何を分かっていないのでしょう?」

「チッ、口答えをするな。そういうところだぞ。俺がどういう気持ちで婚約破棄を口にしたかを考えようともしない。だから分からないのだ、お前の為を思う俺の気持ちが」


 考えようともしない? 私が?


 冗談でしょ。それこそ考えてばかりで、眠れない日々をどれだけ過ごしてきたことか。けど考えても考えても分からなかったわ。

 そしてどうして分からなかったのか、今の私はその答えを持っている。


 実のところフランツ様こそ、何も考えてはいないのだ。すべて思い付いたまま衝動的に言葉を発しているにすぎない。

 今日ああ言えば明日はこう言う。そんな無責任で根本のない言葉の意味を、私は二年の間考え続けた。考えるなど無駄である事に気付くまで二年間もだ。


 これは「お前の為だ」。そんな親切心を装いながら、フランツ様は私を貴方の思い通りになる人間に躾けたかっただけ。

 それなのに私は、親切心に応えられない自分に失望し続けたのよ。貴方の考えが分からない自分は何て駄目なんだろうって。


「では、婚約破棄を口になされた理由を教えて下さい」

「だから自分で考えろと言っている!」

「いいえ、どうやら私には分からないようですのでお願いします」

「それではお前の為にならん」

「私の為にならなくて結構ですので、理由を教えて下さい」


 私が一歩も引かない様子を見たフランツ様は、一瞬たじろぐ。しかし直ぐに私を恐い顔で睨むと、「お前は本当に争い事が好きな女だな」と冷たく言った。


「そうか、ならお前が望んだ事だ。とことんやろうじゃないか……」


 睨み付ける視線と冷たい声音。私はそれだけで呼吸が苦しくなり、指先が震えてくる。おそらく唇は恐怖で紫色へと変色しているだろう。

 今日これまで何とか毅然とした態度を保ってきた私だが、限界はすぐ側にある事を私は知っていた。これ以上怒られたくない、責められたくないという刷り込まれた恐怖心が溢れて滲み出る。


 心を強く持たなければと自分に言い聞かせても、自分の感情はこうも簡単に降参しようとしているのだ。

 嫌なのに、そんなの嫌なのに。睨まれただけでこんなに脆くも自分を見失いそうになっている。


 嫌なのにっ!


 私は我知らず涙を流していた。


「なんだお前、泣いているのか?」


 フランツ様は嬉しそうにそう言った。貴方はこれから私に優しい言葉をかけるだろう。私の心を操るために偽りの優しい言葉を。

 分かっている。なのに涙が止まらない。私は悔しかった。


「泣く事ないだろ? 俺はお前を責めたくて言っているんじゃないんだ。だから──」

「いやいや。普通に泣くでしょ、人間なら誰だって」


 そのとき私は驚きの声を漏らしてしまっていたかもしれない。

 だって、その人がここに居るなんて、私は考えてもみなかったのだから。


 聞くのもおぞましいフランツ様の言葉を遮ったその人の声は、私の涙を肯定した。今一番欲しかったその言葉を私にくれた。


「な、なんだディオン! お前ここに何しに来たっ!?」

「兄上に会いに? いや冗談です。本当のところ冗談でも兄上には会いたいとは思えませんからね」


 どうしてディオン様がここにいらっしゃるのだろうか。フランツ様も驚いたのだろう、少し狼狽している様にさえ見える。


「貴様っ、弟の分際で兄を愚弄するか!」

「愚弄などしておりません。どちらかと言えば軽蔑していますね」


 ディオン様はフランツ様より二つ歳下の弟君だ。私よりも一つ歳上なのだが、婚約当初から私の事を未来の姉上だと慕ってくれていた。

 始め私は姉上だなどと言われて非常に困惑したのを憶えている。ダルトン家とブルノア家はその歴史からも近しい交際があり、私も幼い頃からこの兄弟にとっては妹のような立ち位置にいたからだ。


 ディオン様はその頃からずっと変わらず明るくて、微笑みを絶やさない朗らかな人だった。

 しかしその彼の私を見る瞳が心配で曇る様になったのは、婚約後一年目くらいからだったろうか。


 自分で言うのも何だけど、私はよく笑う質だ。婚約当初もよく笑っていたと思う。だからだろう、あまり笑わなくなっていった私をディオン様は不審に思われたらしい。

 その頃の私の頭の中はフランツ様の事で一杯だった。もちろん恋しくてではない、不安と恐怖でだ。だから他の人の事を気に掛ける余裕もなく、色々な人に不義理を働いてしまっていたと思う。


 ディオン様もそんな人たちの一人だった。私は心配して下さるディオン様と真面目に向き合う事も出来ず、お座なりな態度で付き合った。

 そんな失礼な態度を続けていれば、誰だって不快に思うに決まっている。果たして私の親しかった知人たちは、どんどんと私から遠ざかっていった。しかしそれを悲しむ余地がないほどに、私の頭はフランツ様との事で溢れかえっていたのだ。


 そうして私は孤立した。


 だけれどディオン様だけは、そんな態度の私をずっと気に掛けて心配し続けてくれていたのだわ。

 その彼が先日はじめて私にこう言ったのである。「もしかして、兄上から貴女の尊厳を奪われるような虐めにあっていませんか?」と。


 私はその瞬間、自分の中のもう一人の自分が泣き崩れるのを感じた。私には自分がどうして泣いているのかさえ分からない。だけど私の嗚咽はやがて号泣へと変わり、いつまでもいつまでも泣き止む事をしなかったのだった。


「軽蔑だとおっ!?」


 ディオン様のその言葉にフランツ様は、青筋を立てて目を剥いた。けれどディオン様は顔色一つ変えずに肩を竦めると、「ええ、軽蔑です」と繰り返す。


「だってそうでしょう。兄上が今までフロレンシア嬢になさってきた事は、彼女の人格を無視して心に暴力をふるい続けてきた様なものですよ? そんな兄上を軽蔑しないでいるなんて、無理な話というものです」

「おいっフロレンシア! お前こいつに一体何を話したッ」


 私に振り向き眦を吊り上げたフランツ様は、興奮して私の腕を掴もうとする。

 私は反射的に身体が硬直し、息を止めて身構えた。けれどフランツ様の手はディオン様によって遮られ、私に届く事はなかったのであった。


「およしなさい兄上。今度は彼女への脅迫ですか? 貴方はどれだけフロレンシア嬢の尊厳を奪えば気が済むんだ。これ以上はもう僕が許さない」


 そう。そうなのだ。私は号泣したあの日に、ディオン様に何もかもをお話ししたのである。

 だけど、しどろもどろに話し始めた私の言葉は、何故か自分を責める内容ばかり。フランツ様への恐怖や不安といった自分の中の感情からどんどん離れてゆき、言葉は途切れ途切れに消えていく。


 私は骨の髄までフランツ様に支配されていたのだろう。


 違う。話したいのはこれじゃないと思っていても、勝手に言葉が自虐に走る。

 するとディオン様は優しく私の言葉をお止めになり、ただ有りのままにあった事だけを話してごらんと仰った。


 それからは長い時間話していたと思う。だって流れる涙が止まらない様に、私の言葉も止まらなくなってしまったのだもの。

 それでもディオン様は黙って聞いてくれていた。そして最後にこう仰ったのだ、「辛い目に遭わされてきましたね」って。


 それで初めて私は理解できた。自分は辛かったんだという事が。

 自分が至らないせいでフランツ様を不機嫌にさせ、罵られてきたのだと思っていた。だから自分で自分を責め続けてきた。でもそれは間違いだったんだ。


 その事に気付かせてくれて、私を救って下さったのがディオン様だった。


「許さないだと……。貴様は何の権利があってそんな事を言うのだっ! フロレンシアは俺の婚約者だろうが、貴様などの出る幕ではないわッ」

「おやおや兄上、さっき貴方は婚約破棄をフロレンシア嬢に申し渡したばかりでは?」

「あ、あれは本気ではない。フロレンシアの教育の為に言った方便だ」


 するとディオン様はクスっと笑う。そして私を真っ直ぐに見ると、「だ、そうですよフロレンシア嬢。貴女はそれに納得できますか?」とお尋ねになられた。


 返事をしようと開きかけた私の口は、言葉を声にする為のあとちょっとの勇気が出てこない。

 だから勇気を出さなければとお腹に力を入れた時、まるでその隙を計っていたかの様にフランツ様が私の答えを奪って言った。


「フロレンシアの納得など必要ない!」

「僕はフロレンシア嬢に聞いている、兄上は黙っていてくれ」


 さっきまでとは打って変わり、真顔でそう言ったディオン様の声は真剣だった。

 私への視線をそらさぬディオン様。それだけで彼の気持ちが痛いほどに伝わってくる。ここが私の人生の正念場だと背中をおして下さっているのだ。


 勇気を出そう。


「いいえフランツ様、私は到底納得など出来ませんわ。仮にも貴族の社交の場で公言なさった事、いまさら本気でなかったでは済まされません」

「僕もフロレンシア嬢の意見に賛成です。兄上もこれ以上無責任な事を申されるな」


 フランツ様は唇をワナワナと震わせて、言葉に詰まりながら言い訳を繰り返す。

 目を泳がし狼狽するその姿を見て、私は初めてこの人が本当は臆病な人間なのだと知った気がした。


「そ、そんなの知るかっ。お前らの言う事など、ど、どうでもいい。俺の言う事に黙って従えっ」


 自分の言葉に責任を持たぬまま生きてきた人間というものは、こうまで無様で脆いものなのか。


「俺はブルノア伯爵家の次期当主だぞ、お前らとはそもそも身分が違うんだっ。社交界とてそんな俺の味方に立つに決まっているだろが。偉そうな口を叩くな!」

「それはどうでしょうかね兄上?」

「ど、どういう意味だ……」

「父上にはもうバレていますよ。もっともバラしたのは僕ですがね」

「だ、だから何の話だっ」


 脂汗を滴しながら神経質そうに爪を噛むフランツ様とは対照的に、ディオン様は余裕の笑顔で言い放つ。


「兄上が抱えたギャンブルの借金の話です。貴方はその負債を清算する為に、我がブルノア伯爵家の家宝を勝手に売りましたよね」


 途端、フランツ様の顔色が青を通り越して黒へと変わり、その目が飛び出さんばかりに見開かれた。


「あの家宝たる剣はただの剣ではありません。我が家がその昔、当時の国王陛下から爵位を授かった際に、忠義への褒美として国王から賜れた特別な剣です。それを売り払った兄上の所業は、王家への不忠の証明とも言えましょう。反逆を疑われても致し方ない事態であるのをお分かりか?」

「ち、違うっ! いや、知らんっ。俺は家宝など売ってはおらん! 証拠は? そうだ証拠だ。貴様そんな証拠がどこにあるッ!」

「もちろん証拠は揃えてありますよ? 僕は兄上の様に衝動に任せた無責任な事は言いたくありませんので。責任を取れる準備が整ったからこそ、こうしてお話し申したのです」


 するとディオン様が真っ正面から私の事を見つめなさる。彼のその瞳は驚くほどに熱い。

 その瞳で見つめられているうちに、私の瞳まで熱が籠りだしてゆくのを感じる。


「ええ兄上、そうですとも。責任をとれる準備がやっと出来ましたよ」


 それっきり呆然として言葉を発さなくなったフランツ様を尻目に、ディオン様は私に優しいお顔で仰った。


「フロレンシア。もう貴女を支配する者からお逃げなさい。そして貴女の尊厳を取り戻すんだ。その日がくるまで、僕が必ず貴女を守り抜いてみせるから」


 私の瞳からはやけに熱く感じる涙が溢れ出している。もしかしたらさっき瞳に籠った熱が、涙を熱くさせたせいかもしれない。でもそれは心地のよい熱さだ。


「はい、ディオン様。私はもう一度はっきりと申し上げますわ。フランツ様からの婚約破棄の申し入れ、謹んでお受けいたします」


 私の言葉に弱々しく反応したフランツ様は、往生際の悪い未練者のようにしてディオン様を罵った。


「そうかディオン。お前っ、この女に横恋慕していたな!」

「はぁ? 何を申されるかと思えば……。それは兄上の勘違いですよ?」


 ディオン様は一つ肩を竦めると、しれっとした顔でこう仰ったのである。


「横恋慕とはとんでもない事を言う。兄上にフロレンシアの婚約者たる資格があるとは、僕には到底思えませんでしたのでね。正々堂々とした気持ちでフロレンシアを愛していましたが?」



 ◇*◇*◇



 私とフランツ様との婚約の破棄は、時を待たずしてブルノア伯爵家から正式に申し込まれた。我がダルトン男爵家の名誉を損なう事のない形での申し込みであった為、お父様は是非もなしと了承しなさったようだ。


 それからのブルノア伯爵家は目まぐるしい日々を送ったと聞く。

 フランツ様によって勝手に売却された家宝の剣を買い戻し、その売買証拠の隠滅にディオン様が苦心なされたという。もちろんフランツ様の為ではない、ブルノア伯爵家が示す王家への忠義の為にである。


 その間自宅で謹慎させられていたフランツ様は、家宝の他にも持ち出した財産があった事を白状させられたそうだ。

 怒り心頭に達したブルノア伯爵は、フランツ様を義絶し放逐なさる。しかし彼への処罰はそれだけでは済まなかった。他人となったフランツ様を改めて盗人と断定した伯爵は、彼を捕らえて投獄したのである。


 その刑期は三十年だと聞く。曲がりなりにもフランツ様の実父であったブルノア伯爵が、ここまで苛烈な処断をしたのにはもちろん訳があった。

 いくら家宝の剣を売却した証拠を隠滅したとはいえ、どこでその噂が持ち上がるとも知れないのだ。その噂を恐れた伯爵は、王家への申し開きを用意しておかなければならなかったという訳だ。


 これらの事柄を私はすべてディオン様から伺ったのである。「本当は兄のした貴女への罪も問わねばならないのだが」と、無念そうに仰ってくれたディオン様。

 しかしフランツ様がしたような人の心の支配は、それを証明する事が難しい。下手をすれば私が私を責めたのと同じで、味方になって欲しい人にまで私が責められかねない。


 だからこそ無条件に私の味方になって差し伸べて下さったディオン様の手が、私には救いであり喜びでもあったのだ。

 そんな奇跡をあらためて感謝せずにはいられない。


 ところで私とフランツ様との婚約が破棄されたからには、ブルノア伯爵家との直接的な縁は切れたと言っていいだろう。

 それなのに正式に嫡男となってからもディオン様は、私の事を色々と気にかけて下さっている。


 今日も私はディオン様からのお誘いを受けて、湖畔で二人、ピクニックを満喫していた。

 こんなにも心穏やかに自然を愉しめる日がくるとは思わなかったな──と、私は煌めく湖面を背景にして立つ、ディオン様のその背中を見つめながらに思う。


「おーい、フロレンシア。ちょっとこっちにおいでよ。何かキラキラ光るものが湖の中に落ちてるよ?」


 水際から私を手招きするディオン様。ブルノア家の問題も一段落し、今日はとりわけ楽しんでいらっしゃるご様子だ。もちろん私もとても楽しい。

 木陰に座っていた私は立ち上がり、パラソルを片手に彼の元へと歩いて行った。


「何が落ちていますの?」

「何だろうね? ほらそれだよ。ちょっと取ってみよう」


 水の中を覗き込み、腕捲りしてそこへ手を入れたディオン様は、何か小さなものを摘み上げる。

 それは小さくて可愛らしい宝石のついた指輪だった。


「まあ! 指輪ですわ。どなたかが落としてしまわれたのでしょうか?」


 するとディオン様は今までのおどけた雰囲気をあらためて、切なげなお顔でポツリと呟いたのである。


「うん、これは二年前に僕がここで落とした指輪なんだ」

「えっ、ディオン様が!?」


 そんなふうに驚く私をディオン様は少しはにかんだ顔で真っ直ぐにと見た。そして照れ臭そうにして仰ったのである。


「君が兄と婚約したその日にね……。我ながらずいぶんと遠回りしてしまったけれど、これでようやく君に渡せるよ」


 ディオン様はそう言うと、私の左手を取って薬指にそっと指輪をはめた。


「フロレンシア。僕と結婚して下さい」


 そう、あの日。


 ディオン様に背中を支えられ自分を取り戻したあの日から、私の返事はもうすでに決まっていたのであった。


 〈了〉

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