更なる悪意

 クリスティーヌはエグランティーヌが去った後も立ち尽くしていた。しかし、ダンスの音楽が始まったので会場から出ようとする。その時、背中が濡れたことに気が付く。背後から何かをかけられたのだ。クリスティーヌが振り向くと、ニヤニヤと笑う令嬢達がいた。床にはポタポタと赤い液体が溢れている。恐らくまた赤ワインをかけられたのだろう。

「貴女、上級貴族の男性達を誑かしているのね」

「男性にドレスを脱がせてもらいやすくなったのではないかしら?」

「まあ、とても厭らしいことをなさっているのね」

「もしかして、もう純潔を失っていたりして」

 クリスティーヌを蔑むような目で見て笑う令嬢達。

(エグランティーヌ様の派閥にいる令嬢ね)

 クリスティーヌは怒りを抑え、俯くこともなく凛としている。クリスティーヌは令嬢達を相手にせず、会場出入り口の扉へ向かう。しかし、足を引っ掛けて転ばせて来る令嬢もいた。それでもクリスティーヌは毅然とした様子で立ち上がり、相手にすることはなかった。

「もしかして、誰か男の相手をしに行くのか?」

「貴族令嬢じゃなくて娼婦みたいだな」

 厭らしく笑う令息達。彼らもエグランティーヌ派閥だ。クリスティーヌはぐっと堪え、堂々と前を見て歩く。

 優雅に歩くクリスティーヌ。上級貴族の令嬢にも匹敵する所作。悪意ある嫌がらせを受けてもなお凛として咲くピオニーのようだ。むしろどんどん輝きを増しているようにも見える。

「あの、クリスティーヌ様」

 会場を出たところでマリアンヌに声をかけられた。今にも泣きそうなか細い声だった。

「マリアンヌ様、わたくしは体調が優れないのでお先に失礼いたします」

 こんな時でもクリスティーヌは完璧な淑女の笑みだ。

 そのまま侍女のファビエンヌと護衛のドミニクと合流し、辻馬車に乗り込む。

 ファビエンヌとドミニクから何があったのかを聞かれても、クリスティーヌは「何でもないわ」と淑女の笑みで返すだけだった。

 そしてタルド家の王都の屋敷タウンハウスの自室で1人になったクリスティーヌはようやく涙を流す。

(わたくしのことは別にいいわ。だけど、どうしてタルド家のことまで言われなければならないの!? お父様もお母様も、イポリートお兄様もアリーヌお義姉様も、べランジェお兄様も、もう嫁いだジュリエンヌお姉様も、姪のヴィクトワールも全員大切よ! 大切な存在を侮辱されたことが1番悔しい!)

 クリスティーヌは静かに嗚咽を漏らした。






−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−






 この日を境に、クリスティーヌにはお茶会や夜会などの招待が一切なくなった。エグランティーヌ達の悪意ある噂や彼女が圧をかけているせいなのは確実だ。今日もどこかのお茶会や夜会でクリスティーヌに関する悪意ある噂が広がるのだろう。貴族にとって誰かのスキャンダルは一種の娯楽なのだ。あることないこと噂して楽しんでいる者もいる。

「クリスティーヌ、あまり思い詰めるんじゃないぞ」

「ありがとうございます、お父様」

 プロスペールの言葉に、クリスティーヌは弱々しく微笑んだ。

 マリアンヌやセルジュやディオンやルシールと言った親しい者達から励ましの手紙が届くが、クリスティーヌは読む気になれなかった。人間、ポジティブな言葉よりネガティブな言葉の方が心に残ってしまうものだ。

 ふと、書きかけの論文が目に入った。

(……今は論文に集中しましょう。勲章がいただけなくてもいいわ。これはわたくしがやりたくてやっていることなのだから)

 クリスティーヌは気持ちを切り替えた。そこから、リシェに論文を確認してもらう為に手紙を書いて送る。

 数日後、リシェからの返事が届く。リシェは現在王都の自宅にいるので、タルド家の王都の屋敷タウンハウスに来てもらうことは可能だった。クリスティーヌはリシェを招く日を決め、それまでに論文を何度も推敲し、書き終える。

 そして、リシェが来る日になった。

「クリスティーヌ様、後はこのノートのデータを付け加えたら完璧でございます」

「ありがとうございます、アーンストート先生」

 クリスティーヌはホッと肩をなで下ろす。推敲を重ねた甲斐があった。

「クリスティーヌ様、この論文は女王陛下の医学・薬学サロンで直接提出いたしましょう。次回のサロンで私が女王陛下に提案してみます。サロンの他のメンバーにもクリスティーヌ様をご紹介したいですし」

 リシェはふふっと笑う。楽しみな様子が滲み出ていた。

「ありがとうございます!」

 クリスティーヌのエメラルドの目は輝きを取り戻した。

 それからクリスティーヌは実験ノートのデータを付け加え、更に推敲をして論文を書き上げた。

 そして、ついにルナから医学・薬学サロンの招待状が届いた。日時を確認するクリスティーヌ。

(女王陛下の医学・薬学サロン……。緊張するわ。だけど……楽しみ)

 クリスティーヌは深呼吸をする。緊張と、論文を書き上げた達成感。そして高揚感。社交界で流された悪い噂のことなど忘れ、クリスティーヌは明るい表情をしていた。それを見たプロスペールや家族、使用人達は安心した。

 そしてついにルナのサロンが開催される日になる。クリスティーヌは1番お気に入りのドレスを着る。ユーグから贈られたマリンブルーのドレスだ。

(わたくし、頑張るわ。ユーグ様も、今は他国で頑張っているのだから)

 クリスティーヌはそのドレスが力をくれるような気がした。

 クリスティーヌは侍女のファビエンヌと護衛のドミニクを連れて辻馬車乗り場へと向かう。辻馬車乗り場は鉄道の駅前と噴水広場前がある。タルド家の王都の屋敷タウンハウスから近いのは噴水広場だ。クリスティーヌは論文の入った鞄を大切そうに抱えて歩いている。ファビエンヌとドミニクは自分が持つと名乗り出たが、クリスティーヌは断った。もちろん、ファビエンヌとドミニクを信用していないわけではない。ただ、自分で書き上げた論文だから、きちんと提出する時まで自分で管理したかったのだ。

 クリスティーヌは凛とした様子で歩く。それを見たファビエンヌとドミニクはホッとしていた。

「クリスティーヌお嬢様、論文を書き始めてから元気を取り戻して本当によかったですね、ドミニクさん」

「本当にその通りです、ファビエンヌさん」

 ファビエンヌとドミニクは2人で軽く笑い合った。

 噴水広場にはその名の通り、大きな噴水がある。クリスティーヌ達は近くの辻馬車に乗ろうとした。その時、1番会いたくない人に遭遇しまう。

「あらあら、クリスティーヌじゃない。男爵家にしては上等のドレスを着てどこへ行くのかしら?」

 エグランティーヌだ。口角を吊り上げている。あまり好意的な笑みではないことは確かだ。クリスティーヌは怯むことなく堂々としている。

「……王宮でございます」

 クリスティーヌは嘘を答えることも考えたが、バレた時エグランティーヌが何をしてくるか分からない為、本当のことを言った。

「王宮? 今日は王家主催のパーティーはなかったはずよ。田舎の男爵令嬢がそう簡単に王宮に招かれるはずはないわ。王家の名を使った虚偽の発言は不敬罪に当たることを知らないのかしら? それとも、そこまで堂々としているのなら、王宮へ招待された証拠があるのでしょうね?」

 完全に馬鹿にした様子のエグランティーヌ。

「こちらをご覧ください」

 クリスティーヌは鞄から招待状を取り出し彼女に見せる。

「……本物のようね」

 エグランティーヌは口をへの字に曲げた。不満を丸出しにしている。

 クリスティーヌは招待状を返してもらい、鞄にしまう。そして鞄を守るように抱える。

「その鞄、随分と大切そうに持つわね。中身が気になるわ。見せなさい」

 ニヤニヤと嫌な笑みを浮かべるエグランティーヌ。

 しかし、クリスティーヌは渡す素振りを見せない。

(わたくしが書き上げた論文。この方に見せたらわざと破かれる可能性だってあるわ)

 クリスティーヌは警戒していた。

 エグランティーヌはそれを気に入らないと言うかのように、目を吊り上げる。

「貴女、私わたくしの言うことが聞けないの? ノルマンディー侯爵家の力でタルド男爵領の小麦を購入している者達に圧をかけたらどうなるか分かっているのかしら? まあタルド男爵家ごと領地が潰れてもいいのなら、見せなくていいわよ」

 クリスティーヌの体が強張る。

(この方なら……やりかねない)

 クリスティーヌは諦めて論文を渡そうとする。

「クリスティーヌお嬢様!」

「いいのよ、ファビエンヌ」

 止めようとしたファビエンヌに、クリスティーヌは淑女の笑みで対応する。そしてエグランティーヌに論文を渡す。

 エグランティーヌは渡された論文をパラパラと読む。

「睡眠薬の論文? クリスティーヌ、貴女はヌムール領で研究していたのね。つまり、ユーグ様の近くにいたのね」

 エグランティーヌの声が絶対零度のように低くなる。目もスッと冷たくなった。

 まずい、と思ったが時既に遅し。エグランティーヌは論文を噴水に投げ込んだ。

「いくらノルマンディー侯爵家のご令嬢でもこれは!」

「ドミニク、いいわ」

 エグランティーヌに詰め寄ろうとするドミニクを、クリスティーヌは止めた。そして急いで噴水の中に投げ込まれた論文を取りに行く。ユーグからプレゼントされたマリンブルーのドレスはずぶ濡れになる。クリスティーヌはずぶ濡れの論文を救出するが、文字が滲んで読めなくなっていた。

(そんな……)

 失意のクリスティーヌ。

「その論文を女王陛下に提出したらいかがかしら? 高い頭脳を持つ女王陛下なら読めるでしょう」

 歪んだ笑みのエグランティーヌ。彼女は満足そにその場を去った。

「クリスティーヌお嬢様!」

「お嬢様!」

 ファビエンヌとドミニクが駆け寄る。

「なんて酷い……」

 ファビエンヌが唇を噛み締める。

「お嬢様、急いで屋敷に戻ってお着替えを」

「いいえ、ドミニク。そんな時間ないわ。王宮へ向かいましょう」

 クリスティーヌは2人に背を向けたままそう言った。ファビエンヌとドミニクにはクリスティーヌがどんな表情をしているのか分からなかった。

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