第10話 武蔵、吉原で遊ぶ

 武蔵は江戸に下った。

 途中、伊賀で鎖鎌の宍戸梅軒と立ち合ったが、特記すべきことはない。

 武蔵は宝蔵院流と対峙したときと同様、二刀で勝負し、梅軒を破った。

 小太刀を相手に投げつけ、太刀で斬撃したのである。


 武蔵が下ったこの頃の江戸は、徳川家康が幕府を開き、豊臣家を除く諸国の大小名を睥睨へいげいしていた。

 しかし、豊臣家は秀頼の代になって衰亡の兆しが見えていた。誰の目にも次の天下人は家康であると映り、諸侯は江戸に屋敷をもつようになった。


 武蔵は江戸で細川家家臣の内海孫兵衛を頼った。

 孫兵衛は武蔵と同郷の男である。京で吉岡憲法を破り、奈良で宝蔵院流に勝ちをおさめた武蔵の名はすでに江戸でも聞こえていた。そのため、孫兵衛は「郷土の誇り」と武蔵を迎えた。


 孫兵衛の屋敷で武蔵は弓をつくった。気が向いたら刀のつばもつくる。この男は絵も彫刻も巧いが、弓や鍔も玄人はだしの腕であった。

 要するにおそるべき器用さなのである。

 武蔵の弓や鍔はいい出来と珍重され、武蔵のふところを潤した。


 武蔵もしょせん一人の男である。

 金が入れば、遊びたくなる。自然、足は吉原遊郭へと向かった。

 この当時の吉原は、浅草田圃たんぼに移転する前で、日本橋にあった。

 武蔵の敵娼あいかたとなったのは、三浦屋の雲井くもいであった。

 雲井はつぼね女郎である。

 当時、遊女には上から順に「太夫、格子、散茶、局」という格付けがあり、雲井のランクはそのうちもっとも低い。だが、低いからこそ、武蔵でも通うことができたのだ。


 雲井は武蔵を座敷にあげるなり、言った。

ぬしさん、臭いよ」

 やはり、武蔵の危惧したとおり、ズバリ言われてしまった。

 臭いはずである。風呂に入らず、日々、手拭いで躰をぬぐうだけで済ましているのだ。武蔵は申し訳なさそうに頭を掻いた。

「女を抱くなら、まず躰を清めないとね。あっ、穢れた女郎の言うことじゃないか」

 武蔵は手を横にふり、いかがすればよいかと訊いた。


「この雲井姐さんに任せときな」

 雲井は三浦屋の若い衆に頼み、大きなたらいを座敷に持ち込んだ。

 それから武蔵に向かって、「素っ裸になって入んなよ」と顎をしゃくった。

 武蔵は、その物言いが姉おぎんとよく似ていると思い、可笑しくなった。

 逆らうことなく、盥に入ると、雲井がぬるま湯を肩から掛け流しながら、米ぬか(ぬか袋)で手際よく洗う。

 武蔵は人に躰を洗ってもらうのが、気持ちいいものだと初めて知った。


 武蔵は雲井に好意をもち、馴染みとなった。

 変な「ありんす言葉」を使って気取らないのもいい。勝気でおきゃんな感じが、いかにも江戸の女という感じで、肌を重ねるたびに武蔵は惚れ込んだ。

 要するに肌が合ったのである。

 そうした日々に、ある男の噂が流れてきた。

 その男の名は、佐々木小次郎という。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る