第4話 無名から脱するために

 京都には、兵法の権威がいた。

 京流の吉岡憲法けんぽうである。

 代々足利将軍家指南役をつとめ、当主は「憲法」という名を世襲していた。

 武蔵は、この憲法を倒せば、と考えた。

 さすれば、無名から脱し、天下に名を轟かすことができよう。


 しかし、いまだ未熟の身で果たして勝てるのか。

 生まれつき敏捷で、膂力には自信があるが、なんとも心もとない。

 その反面、いや、勝てるという思いもあった。

 親父の無二斎ですら、将軍の御前試合で三本のうち二本を取り、勝ったのだ。

 太刀筋さえ相手より迅速であれば勝てるのではないか。

 吉岡家の継承する京流は、由緒が古いだけに型が形骸化し、無用の動きがあると無二斎から聞いていた。

 つけこむ隙があるとすれば、そこであろう。


 無二斎が勝った当時の吉岡家当主は、直光である。

 現在の当主の名は、清十郎直綱と聞く。

 武蔵は死を覚悟で挑戦した。

 三条大橋の袂に、「洛北蓮台野れんだいのにて試合をのぞむ」という内容の高札を立てたのである。

 吉岡清十郎は体面上、受けて立たざるを得なくなった。


 武蔵は試合の前に清十郎の技倆、性格、得物などについて調べた。

 清十郎は普段は温厚であるが、由緒ある家柄の当主だけに自尊の念強く、いささか激昂しやすい性分という。得物とする愛刀は、刃渡り三尺の華やかな長剣という。長剣は重い。

 武蔵は内心ニヤリとした。

 勝敗は五分五分という思いから、勝てるという気持ちが六分にまで高まっていた。


 早暁の蓮台野には靄がかかっていた。

 武蔵は故意に刻限に遅れた。相手を苛立たせるためである。

 巌流島で佐々木小次郎と対決したときも、この手を使ったが、これで相手の鋭気はかなりげる。

 靄の中に、吉岡清十郎の姿が朧に見えた。武蔵はひそかに近づいた。大勢の門人に囲まれ、襷掛け、袴の股立ちをとり、立ち合う支度をすでに整えている。


「まだか。まだ武蔵は来ぬか」

 清十郎の声が靄の中に響く。

 武蔵は枇杷の木刀を手に、自分の気配を殺して、さらに清十郎に近づいた。

 やはり、相手の得物は長剣であった。

「清十郎、破れたり!」

 武蔵は心の中で絶叫した。

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