春季

夜桜くらは

春季

 桜の木の下で、ぼんやりする。私は空を見上げる。


 なめらかな風が頬を撫でる。風はあたたかな何かを私に運んでくる。それは、幸せとか、喜びとか、そういうものだ。


 私は、ひらひらと舞い降りてきた幸せのひとかけらをつかまえて、それを口に含んだ。甘い味がした。


 ふわふわして、優しくて、心地いい。春の空気にはそういう優しさが満ちている。

 その優しさは、私の中に染みこんできて、私を幸せにしてくれる。じんわりとしたあたたかさが、私の心に広がっていく。


 ああ、やっぱり春っていいな。

 冬の持つ、ピリッとした厳しさも嫌いではないけれど、やっぱり春が好きだ。心が浮き立つような、この感じが好きだ。


 冬の風には芯があって、私の頬を刺してくる。空気に、トゲがあるような感じだ。誰も寄せ付けないような、そんな感じ。

「あっちへ行って」と言われているような気がしてしまう。


 でも、春の風は違う。ふんわりとしていて、優しい。「おいでよ」って誘ってくれるような気がするのだ。

 だから、私は誘われるように、ふわふわと歩いていってしまう。


 そうして、春に溶け込むのだ。優しく包み込んでくれる、春の空気の一部になる。そうすれば、もう冷たくなったりはしない。


 そういえば、最近、彼と会っていないな。私はふとそう思った。

 彼は今、何をしているのだろう? 元気にしているだろうか? また、あの笑顔が見たいな……。


 あたたかな風が、私を撫でていく。それがまるで彼に触れられているみたいで、ちょっとドキドキする。

 トゲがとれて、丸くなった空気は、やわらかくて、あたたかい。ピリピリしていたものが、ふっとほぐれていくような、そんな感じ。


 私はまた空を見上げた。空に浮かぶ雲は、ゆっくりと形を変えながら流れていく。まどろみながら、ゆったりと空を漂っているみたいだ。


 風が吹いている。たくさんの空気を含んで、ふくらんでいる。そして、そよいでいる。やわらかく、穏やかに、ゆるやかに。


 私もこんなふうになれたらいいな。そんなふうに思った。

 やわらかくて、あたたかくて、優しいものになれたら……。そうしたら、きっと、彼も笑ってくれるだろうか。あの、ふんわりとした、優しい笑顔で。

 いつか、そんなふうになれたなら、いいな……。


 そんなことを思いながら、私はぼんやりと空を仰ぐ。

 花びらが一枚、ふわりと落ちてきた。

 手のひらで受け止める。淡いピンク色をした、小さな花びら。


 桜も、春が好きなのかもしれない。空気の芯がなくなって、優しくなっていきますよ、というのを感じて、蕾をほころばせ始めるから。

 そうだったら、私と一緒だ。私も、春の空気が好きで、ずっと包まれていたいと思ってしまう。


 ふうっと息を吹きかけると、花びらは飛んでいってしまった。ひらり、ひらりと舞っていく。風に乗って飛んでいく。どこか遠くへ。誰かのところへ。


 やわらかな空気が、辺りに満ちている。幸せが、そこらじゅうにあふれている。

 私は、大きく口をあけると、思いっきり息を吸い込んだ。幸せのかけらは、私の中に入ってくる。そして、身体中をめぐっていく。

 心の中まで、ぽかぽかとあたたかくなっていく。


 このまま溶けてしまいたいと思った。あたたかい空気に包まれて、そのまま。そしたら、何も悩まずにいられるだろう。不安や心配なんて何もない。ただ、ふわふわと幸せな気分でいればいいのだ。


 そっと目を閉じる。まぶたの裏に、彼が見えたような気がした。

 彼の笑顔が浮かんでくる。優しい声が耳に聞こえてくる。


 ああ、やっぱり、彼に会いたいな。会って、話をしたいな。笑った顔が見たいな。


 私は目を開ける。そこには、相変わらずのんびりとした風景が広がっているだけだった。

 どこまでも続く青空。白い雲。ひらひらと舞う花びら。


 ふわり、ふわりと漂うように、春の風は吹いていく。

 やわらかくて、あたたかくて、優しい。

 その優しさに包まれたまま、私は身体を横たえてみる。草の上に寝転がると、太陽の光が眩しくて、思わず目を閉じた。


 閉じた目の奥で、光がちらちら揺れている。

「おいで、おいで」と誘うみたいに、ゆらゆらと揺れる光。


 私は手を伸ばす。その光の先にあるものに触れるために。

 光は私を包み込む。身体の中に流れ込んでくる。ぽかぽかとあたたかくなってくる。胸の奥まで染みこんでくるようだ。


 気持ちいい。ああ、なんて心地いいんだろう。

 ふわふわとして、穏やかで、優しくて、幸せな気持ちになっていく。

 意識が薄れていく。私は春に溶けていって、ふわふわと漂っていく。


 遠くから、声が聞こえた気がした。

 誰かが呼んでいるような声。誰だろう? 私を呼んでいるのは……。

 でも、私は知っている。この声を。

 この声の持ち主を。私のことを、いつだって優しく呼んでくれる人を。


 ああ、そうか。来てくれたんだ。会いにきてくれたんだね。嬉しいな。

 それとも、違うかな。私が会いにいったのかな。春の空気に溶け込んで、あなたに会いにいったのかもしれないな。


 とろけて、ほどけて、流れていく。私は、ゆっくりと広がっていく。

 ほら、あなたの声が聞こえるよ。あなたに呼ばれているんだよ。


 いいな、あたたかいな。春っていいな。ふわり、ゆらり、風に吹かれて、私はまたひとつになる。あたたかくて、やさしいものになって、あなたと笑いあうのだ。


 あたたかさは、どんどん広がっていき、やがて大きなものになる。私のまわりを囲んでいる空気そのものが、やわらかくなっていく。そして、私たちを包み込んでいく。

 まるで、雲の中にいるみたいだ。ふんわりとやわらかくて、あたたかい。いつまでもここにいたくなるくらい。


 ふと見ると、彼も笑っているのが見えた。幸せそうに微笑んでいる。

 よかった、彼も幸せなんだね。幸せでいてくれるんだね。そう思ったとたん、私の心も、ふわっと軽くなった。


 幸せでいてくれてありがとう。幸せでいてくれて、ありがとう。そう思いながら、私は微笑む。

 あなたも、私も、今、幸せだね。

 春っていいね。うん、春って本当にいいよね……。

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