第15話【母、帰る】

 俺たち兄妹の母・長月真麻(ながつきまあさ)の職業は化学者。

 父さんとは同僚兼科学者仲間で、職場恋愛の末、17年前に見事ゴールイン。

 現在も二人は大手製薬会社に勤務しているが、いったい何の研究をしているかまでは全く知らない。なんでも守秘義務というやつで、家族にすら教えることも許されないとのこと。

 小さい頃、興味本位で試しにしつこく母さんに訊いてみたが、


流真りゅうま。世の中にはね、知らない方が幸せなこともあるのよ」


 と、結局かわされてしまった。

 しかし俺は、常日頃から菩薩ぼさつのように穏やかな笑顔を絶やさない母さんの目の奥が、その時ばかりは笑っていないことを見逃さなかった。

 子供ながら、この人を怒らせてはいけないと悟った瞬間である。

 ――まぁそんなことは今はどうでもいい。

 

紅葉もみじさん、何時頃お帰りになるんですの?」


 母さんからのメッセを紅葉からと思い込んでいる璃音りおんが、視線はタブレットに向けたまま俺に問う。

 答えあぐねていると、間髪入れずにまた母さんからメッセが届く。


『いまマンションの入り口に到着♪ 部屋まであと100メートル......待っててねー♪』


 無自覚にプレッシャーを与えてくるメッセージに、迷っている暇は皆無だった。

 璃音には理由は告げず、ここは黙って従ってもらおう。


「璃音」

「ひゃ!? ひゃい!」


 ソファに腰を下ろし真剣な眼差しで動画を見ていた璃音を遮るよう、前から両肩の上に手を置けば、驚いたのか素っ頓狂な声を上げさせてしまった。


「一生に一度の頼みがあるんだ。聞いてくれるか?」

「ダメですわ流真さん。まだお天道様てんとさまが隠れていない時間にそんな――」

「何も訊かずに今から暫く俺の部屋に隠れていてくれ」

「......はい?」


 頬を赤らめたかと思えば、頭の上に大きな疑問符を浮かべ、キョトンとした瞳を向ける。その反応は正しい。


「事情を話している暇は無いが、緊急事態なんだ」

「来客ですの? お邪魔でしたらわたくし、一旦自分の部屋に戻りますが」

「できればそうしてもらいたいところなんだがな......」


 いま部屋を出て行かれると最悪玄関前で二人がバッタリ、なんて最悪な可能性が高い。

 本当はあまり自分の部屋にこいつを入れたくはないが、他に長時間隠れられそうな場所が見当たらない。

 だったら潔く璃音を母さんに紹介すればいいんじゃないかと思うかもしれないが、この状況下で説明しても変な誤解とからかいの嵐に見舞われることからは逃れられない。苦肉の策とはまさにこれだ。


「何か事情がお有りみたいですわね」 

 

 言葉を詰まらせる俺に対し、意外にも璃音はすんなり受け入れ、


「......分かりましたわ。では流真さんのお部屋で静かに動画のチェックをしていますので」


 動画の再生を止め、タブレットを手に取り璃音はソファから立ち上がった。


「やけに素直だな。もうちょっと駄々でもこねられるかと思っていたが」

「流真さんがお望みでしたらそうして差し上げましょうか?」

「悪かった。すぐそこまで迫ってるから今すぐ頼む」


 顎に指を当て悪戯っぽい笑みを浮かべる璃音に、俺は手を合わせつつ頭を下げると、急いで自室へと案内した。

 角部屋でリビングから一番遠い俺の部屋の中は、勉強机やベッド等の最低限の家具が配置されているのみ。同年代の人間だったら壁に推しのポスターやらタペストリーなんかを飾っているんだろうが、そんなこじゃれた物は見当たらず、壁紙の白が際立つ。

 初めて部屋の中に入った璃音の吐息からも、期待外れのようなものを感じた。


「それで、わたくしはいつまで隠れていれば良いのですの?」

「隙を見たら俺が呼びに来るから。そうしたら一旦自分の部屋に帰ってほしい」

「なんだか、いけないことをしているみたいでドキドキしますわね」


 俺だってドキドキしているが、おそらくこいつと俺ではドキドキの種類が別種。

 そう、例えるなら璃音のは子供が初めて親に内緒で悪いことをする時の、ワクワクの混ざった緊張感。

 対し俺のは、奥さんがライブ中に女性を部屋に招く男性声優のような――は大袈裟か。

 

「お花を摘みに行きたくなったらどうしましょう?」

「その時は最悪ベランダから自分の部屋に帰ってしてくれ」

「......ここ6階ですわよ? 壁を蹴り破っても良いのでしたらそうしますけど?」


 璃音に怪訝な表情をされるのも無理はない。

 どうも焦るあまり正常な判断ができなくなってきているな。


「それまでにはなんとかする」

「ふふ。この貸しは大きいですわよ」

「今度璃音の好きな物を何でも作ってやる」

「単品ではなくフルコースで」

「はいよ」


 油断していたとはいえ、こうなってしまったのは全て俺の責任だ。

 璃音が度肝を抜かすような、栄養バランスをガン無視した家庭料理フルコースをお見舞いしてやる。

 自室に璃音を残し、俺はもうすぐやってくるであろう母さんを出迎えるために、玄関へと向かった。


 ***


「なんだ、やっぱりもう家に帰ってたんじゃない。既読スルーなんて酷い子ね」


 正月ぶりに会う母さんは、ちょっと痩せ――てはいないな。

 記憶の中に刻まれた、細身で実年齢よりも若く見える、穏やかな笑顔をたたえたイメージそのままで憎まれ口を叩いてきた。


「いろいろ言いたいことはあるけど、母親にこんなメッセ連投されてどう反応しろと」


 玄関で靴を脱いでいる母さんにスマホの通知画面を向ける。

 帰宅を知らせる最初のメッセージが送られた以降も、数秒ごとに母さんは俺にメッセージを送り続けた。


『私、貴方のお母さん。いまエレベーターの前。ワクワク♪』


『私、貴方のお母さん。玄関まであとあと10メートル。いま会いに行くよ☆』


 相手が母親じゃなかったら、ちょっとした恐怖の通知そのもの。


「メンヘラ女ごっこ。母さん一度やってみたかったのよ」

「どこで覚えた、そんなもん。息子にではなく父さんにやってくれ」

「だっーて、お父さんじゃ反応薄いからつまらないんだものー」


 同意。

 どんな時も難しい顔色一つ変えない、冷静沈着を具現化したような父さんには、この程度のお遊戯は通用しないだろう。

 あまりに表情の変化が乏しいので初対面の人には機嫌が悪いと思われるのは、もはやお約束の一種。


「でもそこがいっくんの素敵なところでもあるんだけどねー、ってヤダー! 何言わせるのよー♪」


 パーン! と、母さんは俺の肩は勢いよくはたき、玄関に気持ちの良い音が響く。

 DVではない。愛情表現という名の母さん流スキンシップだ。

 恥ずかしくなると母さんはすぐ俺の肩を叩く。

 おかげで俺の肩の強度は小さい頃から両肩上がりだ。


「事前連絡無しでもここまで部屋を綺麗に保っているだなんて。流真はやっぱり良い主夫になる素質を持ってるわね」


 リビングを軽く見回し、感心したように何度も頷いてみせる母さん。


「そりゃどうも。他にこれといってやることもないしな」

「親としては、もう気持ち勉学に時間を割いてくれると嬉しいんだけど」

「昔より成績上がったからいいだろ」

「いいえ。勉強は若いうちからしっかりしておかないと。社会に出たあとで勉強するのって、流真が思っている以上に大変なのよ」


 流石、大学を二浪した人が言うと言葉の重みを感じる。

 そのおかげで父さんと出会うことができたと思うと、運命とは人同士が見えない不思議な縁で繋がっているのかもしれない。


「流真に家のことを任せきりで言えた義理じゃないけど......また何かやりたいことが見つかったら、いつでも私達に相談しなさいね」


 やりたいこと――か。

 母さんなりに俺のことを心配してのことなのは充分わかっている。

 あれから二年近くが経過。

 自分の中で極力触れてしまわないよう日頃から気を付けて生活しているが、あそこまで好きだったものにここまで興味を失えるだなんて。夢に向かってがむしゃらにやっていた当時の俺は、欠片かけらにも思っていなかっただろう。


「..........ああ。その時が来たら、な」


 今の俺にはこれが精一杯の返せる言葉だった。

 やりたいことなんてそう簡単に見つかるものでもないし、小さかった頃の俺はたまたま運良く夢中になれるものに出会えただけだ。


「......そう」


 母さんは安心感のある、いつもの穏やかな笑みを浮かべ、それ以上この件については話を続けようとしなかった。

 そして長旅で疲れたらしくソファにゆっくり腰を下ろそうとすると「あら?」と声を上げ、何かを指ですくい取った。

 

「――ねぇ流真。この金髪なーに?」

 


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