第二十四話  陰と陽の狭間で

 摂津国せつつのくに――、天王寺のいらかを、かの童子は見上げていた。そこには、鴉が二羽。

 童子が纏っているのは水干、髪は一つに括っている。貴族の子弟ならみずらに束ねるが童子の父は地下じげ、日がな一日を書や釣りにと趣味に生きている。

『安倍童子、お前は妖の血を引いているというのは本当か』

 二羽の鴉がそう、童子に問いかけてくる。

 なぜ鴉の声が聞こえるのか、彼にはわからない。気がつけば動物の声が聞こえるようになっていた。それに――。

「うるさい」

 小石を投げつけるが鴉までは届かず「寺に石を投げるとは罰あたりめ」と、僧徒に叱られた。鴉の声が聞こえたから――などと言っても、子供の言うことと、取り合うことはないだろう。

 お前は半妖――、童子を知る周りの者たちは彼が子供だろうと構わず噂する。

 人と変わらぬ容姿をしているのに、人と同じ物を食べているのに。

 いつの間にか邸に籠もることが多くなった童子に、彼の父は何もいわない。もともと寡黙な人だったが、童子の母に関しては殊更、黙秘した。

 父と母は、いつの日か、息子が己のさだめを乗り越える――そう信じていたのだろうか。

 半妖であっても、人としてまっすぐ生きていくことを。

 

 

 あれから十数年――、かれの父は今も阿倍野で自由に生きている。偶にやって来るが、息災だったかと息子を気遣う言葉はなく、いい魚が釣れる穴場を見つけただの、王都は人が多くて困るだの自分の事しか言わず、さっさと阿倍野に帰っていく。

 最初は元服前の息子を人に預け、阿倍野に帰った薄情な父と思っていたが、彼が時折やってくるは彼なりに、息子を案じているからだろう。

 わかりづらい父の愛情表現を、彼――晴明がそうだろうと理解したのは二十歳を超えてからだが、この日も臥せる息子の傍らで黙々と土器を傾け、再び晴明が目を覚ました時には帰った後だった。

 しかも、目覚めて最初に目に入ったのが冬真だっただけに、晴明は渋面になった。

「お前なぁ……」

 冬真曰く――、晴明はここ三日眠り続けていたという。

 目の据わった冬真を見てふっと笑い、晴明は茵から躯を起こした。

小波令範との対決はそんなに刻がかかっていないにも関わらず、晴明が負った躯の負担はかなりのものだった。

 三日経っているとはいえ、躯を起こすのもしんどい。

 月神を招喚すると決めたときに覚悟していたとはいえ、晴明もその銀光に炙られた。それが月神の意図しないことだったにせよ、ごっそりと削がれた体力の回復はまだ時間がかかりそうである。

「都の被害は?」

「五条のほうはかなり焼けたが、大規模な延焼にはならなかったよ。まさか、月蝕の最中に雨が降り出すとは思わなかったが」

 冬真の口ぶりから察するに、小波令範はあれから仕掛けて来なかったようだ。

 ――逃がしたか。

 あの場にいた三柱の天将は、晴明の命令がなければ動けない。その晴明が意識を失ったことで彼らは令範を見逃す結果となったのだろう。

 彼らを責めるつもりはないが、青龍は倒れた晴明を「為体」と罵倒するだろうが。

「それで、だ」

 髪を掻き上げていた晴明は瞠目した。

冬真の手には、土器かわらけへいがあったからだ。

 肴も用意したぞと笑う冬真に呆れつつ、晴明は嘆息した。


                     ★★★


 ――人は身勝手。これからも人は変わらぬ。闇はいつでも生まれるのだ。


 小波令範は、そう言った。

 闇を生むのは人だと、人の負の感情が闇を作るのだと。

 確かに、彼の言う通りかもしれない。

 だが人は、誰しもその闇に飲まれるわけではない。苦しみ、抗いながらも、必死に生きている。

 晴明もかつて、闇に飲まれそうになったことがあった。

 半妖ゆえに、奇異の目で見ている人間が憎かった。

 ならば堕ちてしまえと誘ってくる闇の声が、怖ろしかった。

 怖くて怖くて、なのに異界のモノが視えてしまう。声が聞こえてしまう。

 堕ちてしまえば、もう怖くはなくなるだろうか。

 今も油断すれば、冥がりは突然現れる。

 普通の人より闇に近い晴明だが、もはや闇は畏れるものではない。小波令範のいうように、全ての人を救えぬかも知れない。

 陰陽寮に属する一人として、国を護るのが晴明の使命。

「これから静かになるといいが……」

 晴明邸の釣殿にて、冬真が土器かわらけを傾けながら呟く。

「それは、無理だな」

「おい……」

 冬真の目が、半眼になる。

「向こうの奴らは、こちらの都合などお構いなしだからな」

「そこをなんとかするのが、陰陽師おまえたちの仕事だろうが」

 平らに万民が和なりし都――、遷都した桓武帝の願い虚しく平安王都は魑魅魍魎がばつする。もちろん放置するつもりはないが、妖たちはあの手この手と人を翻弄する。

 結界を強固なものにすればいいが、人が作り出す闇によって異界の門は容易く結界内で開く。

 人々に相手を恨むな憎むなというのは、無理だろう。  

初夏の風が池の上をさらさらと渡り、蓮の花を揺らし、まるで誰かの指先のように、晴明の頬を撫でた。

 そんな池では水面に映った月が砕けて、宝石のようにきらめいていた。

「陰陽師だからと何でもできると思うな」

「その台詞、まさか他の誰かに言っていないだろうな?」

「――北家の使いに、似たような事は言ったが?」

 今朝の事だ。

 霊符が欲しいという主の命とかで、北家の舎人がやって来た。

 妖は人の都合などお構いなしにやって来るが、人間の中にも人の都合も聞かずにやって来るものがいた。しかも権力にものを云わせてごり押ししてくるから質が悪い。

「どおりで、関白さまが不機嫌な筈だ……」

 冬真が額を押さえる。

 冬真曰く、内裏に参内すると関白・藤原頼房に思いっきり睨まれたという。冬真としては頼房に睨まれるような事をした覚えはなかったようだ。

 北家といえば、藤原宗家である関白家を指す。晴明に霊符を依頼してきたのは、頼房の北の方だったが、晴明は己の調子が万全でない今は無理だと断った。

 

 陰陽師とは――。


 晴明が師・賀茂忠行の弟子となった頃のことだ。

 まだ安倍童子と呼ばれていた彼に、忠行は語った。

「陰陽師とは、陰に陽に力になるもの」

 陰は陰、陽は光。

 あるときはひそかに、あるときは公然と、陰かげになり日向になり力を注ぐ存在。ゆえに陰陽師というのだと。

 ある意味、晴明も陰と陽の狭間で生きている。

 妖である陰と、人である陽。半々の存在だが、陰に大きく傾くことはない。

 何れ、小波令範とは決着をつけねばならない。

 殺生石は消えたが、あの男が王都を狙うことを諦めたとは到底思えない。

その時はその時である。

 躯が癒えれば、また忙しない日常が戻ってくる。

 妖と人に振り回されながら。


                      ◆


「くそっ……」

 絞り出すような男の呻きに、傍らて灯る燈台の灯りが揺れる。

 あともう少し――、そうあともう少しで、男の目的は達成されたのだ。ただ、彼の野望を阻んでくるだけの呪力者がいたとは計算外であった。もちろん、呪力を持った人間は昔からいたが、彼の前に現れたその男の能力はその非ではなかった。

「安倍晴明……、貴様の名、刻みつけておくぞっ」

 男は拳を握りしめ、歯を食いしばった。

 戦いに破れ、傷ついた躯は消耗が激しい。

 いつもならすぐに再生する傷が、今回はなかなか癒えぬ。

 陰陽師・安倍晴明――、妖の血を半分引くという男。

 彼がいなければ、彼――小波令範の思惑のままに、王都は闇に沈み、妖たちの楽土となる筈だった。

拳を握りしめ、咳き込めば赤黒い血反吐が口から零れた。

 安倍晴明――、彼を斃さない限り、野望が果たされないことが今回でよく理解わかった。

 令範は、王都内にある邸に逃げ込んでいた。

 住人は主らしき翁と、仕える女房一人。

 鏡には、悍ましく変化した己が映る。

 濡れ羽色の羽毛に覆われた体躯、背から生える翼、異形と化した己を嗤い、令範は鋭い牙を覗かせる。

 人としての躯を差し出した時から人の躯に未練はないが、さすがにこの姿では人目につく。今は癒やさねばならぬ。

  

――喰えばいい。


 ああ、私は飢えていたのか。

 誰のものとも知れぬ声に、令範は嗤った。

「法師さま――」

 衣擦れに女の声が重なる。

 主に使えている、女房だろう。

「傷が痛むのでございますか?」

 二人の間には御簾、女房からは異形となった令範は見えてはいないだろう。

「――手当をお願いできるか? 女房どの」

 女房は、令範の求めに応じた。

 そして二度と、そこから出ることはなかった。

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