いつものカフェで

しほ

遥花の住む国




 一カ月ほど前、僕は十五年ぶりに日本の地に降り立った。


 大学生の頃アメリカに留学して以来だ。卒業後もそのまま現地の考古学博物館に就職した。


 僕にとって日本は遥花はるかの住む国で、僕が戻るべき国ではないと思っていた。しかし、父親の体調がすぐれないと姉から連絡があった。


 これには迷う余裕もなく日本に帰る決断をした。そして、この春から実家にほど近い博物館の学芸員として迎えられることとなったのだ。



「岡崎さんは結婚してるんですか」


「結婚?」


 僕は若い研究員の何げない質問にひどく心が乱れた。なにせ一番触れらたくない部分だったからだ。


 僕の心に残る遠い記憶の彼女、それは遥花はるか


「そうだね、一度もしたことないよ」


 うつむき加減で答えると、若い研究員はにやりと微笑んだ。


「じゃあ私にもチャンスがあるってことですね」


「えっ、おじさんをからかわないでくれ」


 ずいぶんと日本の女性も変わったものだとカルチャーショックを受けた。


「三十代は全然アリですよ」


 彼女はスキップをしながら展示室を出た。


 僕は誰もいない展示室のベンチに腰掛けた。目の前には千年以上も前のマヤ文明の仮面が展示されている。


「僕は間違っていたのかな……、間違ってしまったよね」


 仮面は無表情で僕を見ている。




 遥花はるかとは、大学生の頃に付き合っていた彼女のことだ。


 いつかは結婚できると思っていた。しかし僕の留学が決まり、卒業が迫る一月。遥花は突如会ってくれなくなった。


 体調が悪いだの、会うと寂しくなるなど、もっともらしいいことを言うのだ。その間に僕のアメリカ留学の準備は、着々と進んで行く。


 留学は四年間だ。


 寂しいけれど僕は遥花はるかのためにも頑張ろうと思っていた。だって遥花は僕の留学を一番に応援してくれた人だから。


 卒業式の数日前、久しぶりに遥花から連絡があった。


「もうチケット取ったの?」


 遥花が震える声で電話をしてきた。


「今どこ」


 僕はいつでも走り出せる準備をした。


「いつものカフェだよ」


「わかったすぐ行く」


 久しぶりに見る彼女のシルエット。少しやせたように見える。


 自分の留学の準備が忙しいことを理由に遥花を放って置いたことに後悔の念が押し寄せた。


「ごめん、遥花。本当は寂しかったんだろう?」


「うん、寂しかった。だけど我慢した」


「何で我慢するんだよ」


 遥花はコーヒーを飲もうとしたがテーブルに戻した。


「アメリカに遊びに来てくれるよね」


 僕が尋ねても遥花は何も答えない。


「私たち別れよう。寂しいのは嫌なの」


 そう遥花は言うと、お金を置いて店を出た。


 僕は突然のことに気持ちの整理がつかず、返す言葉も見当たらなかった。


 遥花が別れようなんて言ったのは初めてのことだ。ケンカをしたわけでもない、浮気もしていない、原因は留学か……。


 僕の留学は遥花の夢でもあった。それなのにどうしたらいいのだろう。僕はテーブルに残されたコーヒーを見つめるしかできなかった。



 そうして十五年が経ったのだ。僕はまだ、あの日のカフェに取り残されたままだ。




 仮面に向かって僕は呟く。


「どうして僕はふられたのだろう」


 仮面は我関われかんせずと遠くを見ている。




 六月の始め、数名の高校生がインターシップでやって来た。館内の仕事について学生たちに指導をした若い職員が嬉しそうに僕に寄って来る。


「本田洸希こうき君って、岡崎さんに似てますよね」


「そうなのか。明日見てみるよ」


「もしかして、隠し子だったりして!」


「そんなわけない……だろう……」


 隠し子と言うワードがなぜか気になった。


 次の日、僕は玄関でインターシップの学生を迎えた。職員たちが噂していた学生は少しだるそうに現れ頭を下げた。


 確かに僕と似ている。だけれど……。そんなはずはないと思いながらも提出されている保護者の承諾書を確かめることにした。

(何を僕は確かめるのだろう)


 自分の行動に不信感を抱きながらも一枚目、二枚目と保護者欄をチェックする。そして三枚目、震える指先に本田遥花はるかと言う名前が見えた。苗字が変わっていない。


「嘘だろ」


 遥花の子どもなのか。名前は、「本田洸希こうき

僕の名前を一文字使ったのか! じゃああの日、別れを告げられたのは僕の子どもを妊娠していたからなのか?


 急に当時の状況のつじつまが合っていく。保護者の連絡先に書かれた遥花の携帯に急いで電話をした。


 仕事中だったのか、見慣れぬ番号からの通知だったからか、遥花はよそいきの声で電話に出た。


 僕は十五年ぶりに遥花の声を聞いた。


「あの、岡崎洸平こうへいです。覚えてますか」


 少しの沈黙の後、懐かしい声がした。


「覚えてますよ」


「どうしてこの番号が分かったんですか」


 遥花がたどたどしく聞く。


「今、手元に洸希こうき君のインターシップの資料があるもので、つい電話してしまいました」


 電話の向こうから、遥花のすすり泣く声が聞こえる。


「あの、僕からも質問いいですか」


「はい」


「あの日、僕がふられた本当の理由は何ですか」


「本当の理由……、赤ちゃんがいたの。洸平こうへいの赤ちゃんを妊娠していたの」


「そんな言い訳、通用しませんよ! 僕がどれだけ君を好きだったことか」


 僕はつい声を荒げてしまった。そして、あの日の遥花を思い出した。


 大好きなコーヒーに手をつけず、やつれた遥花を。


 寂しいのが嫌だと言った遥花を。


 あの時一人で赤ちゃんを育てる覚悟をしたなんて夢にも思わなかった。


「ごめんね」


 二人は同時に謝った。


「実はね、最近洸平こうへいを見たの。だから、もしかしたらまた会えるかもって思ってた」


「それは、きっと僕だったかもしれないよ」


 僕は別れてからも、僕のことを考えてくれていた遥花を愛おしく思った。


「いつか会ってもらえますか」


 僕は思い切って聞いてみた。


「はい、いつものカフェで」


 遥花の透き通る声が僕の全身にしみ込んだ。

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