山桃の木

ナツメ

山桃の木

 山桃の木にぶら下がった女の屍体したいが、風にゆらゆら揺れている。

 憂子ゆうこはそれを見上げて、ああ、そうだ、妹はこんな顔だった、と思った。浅黒い肌。小さく、切れ上がった目元。生白い憂子とは正反対の、元気で溌溂はつらつとした娘だった。

 ――姉さん。

 屍体の、いやに瑞々みずみずしい唇がそう動いた。

 ――久しぶりね、姉さん。あたしが死んでから一度も来てくれないんだから。

「何言ってるの、月ちゃん。貴女今朝だって早くから店でレコードをかけてたでしょ」

 桃色の唇が三日月を描いた。

 ――まあ、少し話しましょうよ、憂子姉さん。


 山桃の木にぶら下がった女の屍体が、風にゆらゆらと揺れている。

 憂子はその木の幹に背を預け、屍体と並んで空に浮かぶ入道雲を見ていた。もっとも、屍体は、月子つきこは首をくくられているのだから上を見ることはできない。がくりと落ちた頭で、白茶けた瞳だけが睨むように上に向けられている。まばたきをしないそれはかさかさと乾ききっているように見える。

 ――姉さん、あたし死んだのよ。もう六年も前になるわ。本当に憶えてないの?

「六年前に死んだのは貴女の婚約者でしょう。それで貴女、ひどく落ち込んでいたじゃない」

 ――あのひとは生きていたじゃない。姉さん、さっき見たでしょ。

「あれは」

 憂子の視線が地に落ちる。

「あれは、幽霊よ」

 ――救いようがないわね。

「月ちゃんだって、あの男の幽霊が店に来たって言ってたじゃない。夜中にこっそり出ていって、あの幽霊と話してるのだって、私、本当は全部知っているのよ」

 ふ、とわらう声がした。憂子はそう思ったが、ただ風が拝殿の鈴をわずかに鳴らしただけかもしれない。

 ――それは全部姉さんが見たこと、姉さんが話したことよ。あたしは知らないわ。

「だって」

 と口にして、憂子は言いよどんだ。脳裏に一つの情景が浮かんだのだ。カラカラと下駄を鳴らして月子が夜道を歩いている。その後ろをひたひたと追う足音は、憂子の記憶のどこを探しても。瞼の裏に映る月子の横顔が、青白い憂子の顔へと溶けるように変わってゆく。

 ――姉さんは弱いひとだと思ってたけど、違ったわね。むしろあたしよりもずっと強かだわ。

 再び目を上げると、ぶら下がった女の顔は土色に黒ずんで膨れている。その中に一点、唇だけが鮮やかに色づき、蛇のようにぐにぐにと蠢く。

 ――たった一人の妹の、男も命も奪っておいて、それをぜぇんぶ忘れっちまって空想の中で生きてるんだから。

 憂子は掌に痛みを感じた。よくよく見れば、両手に擦れたような痕がある。まるでひどく重いものを括りつけた縄を力いっぱい引いたようだ。その縄の感触、結んだその先が芯のある柔らかいものにぐう、と沈み込む感覚まで、憂子はまざまざと思い出している。

「うそ、嘘よ、月ちゃん、嘘ばっかり。だって私たち、二人っきりの姉妹じゃないの」

 ぼた、と何か赤いものが落ちた。

 それは月子の脚だった。

 ――姉さんこそ嘘ばっかり。あのひとが死んだだなんて、あたしが姉さんのことを好きだなんて、そんなことあるわけがないでしょう。

 ぼた、ぼたと身体を零しながら月子は嗤う。憂子は地面に這ってそれをかき集める。土が付いたら月ちゃんが汚れてしまう、持って帰って洗わなければ。

 ――でも姉さん、嘘から出た真ね。自分の手でそれを全部本当にしちゃったんだから。

 すごいわ、と言った月子の首が、ぼたりと落ちた。



 山桃の木に、女が背を預けて坐り込んでいる。熟れて落ちた真っ赤な山桃の実を両腕いっぱいに抱えている。

 真っ赤な実に覆われた地面の、ところどころがぽつぽつと白い。その白を辿った先に、男が一人倒れている。

 白い菊の花びらに囲まれて、男は死んでいた。胸から流れる赤い血は花びらを染めたが、赤い実に混じってすぐにわからなくなる。

 夕暮れ時の恵比寿神社には、女と、赤い実と、白い花と、男の屍体だけがあった。

「だからあたし、姉さんを赦すわ」

 やたら幼げな声色で女は呟く。

 その言葉が、己に対する言い訳なのかどうか、誰も知る由はない。

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山桃の木 ナツメ @frogfrogfrosch

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