8-4
ねえルーク。ぼくが自分の人生で最も自分で自分を哀れだと思うことはね。それでも父がぼくのことを愛しているのだとわかってしまうことなんだ。
これほどぼくを踏みにじるあの人が、それでもぼくへの愛を、本人すら気づいていないその愛を確かに持っていて、ぼくはそれから目をそらせることができない。
ぼくとつながりを持ちたいと望む彼の願いを、どうしても無視できないんだ。
子供って哀れだよな。
気づけなければよかったのに、わかってしまう。垣間見てしまった愛情に気がついて、期待してしまう。
彼自身が、その愛に気がついてくれるのを。
一度でいい。
あの愛を、支配ではなく信頼で、暴力ではなく抱擁で、心を引き裂くような怒鳴り声ではなくて優しい言葉で表現してくれたなら、ぼくは今まで全てを、ただ一度のその優しさで全てを許してしまえるんだ。
でも、それは叶わないんだよ、ルーク。
ぼくは、父のような方法でしか愛する人と繋がれない人生なんて嫌だ。あなたのいう、優しい方法で、ぼくは人と繋がっていけるだろうか。
彼と、向き合っていけるだろうか。
本当に、そう思う?
……あなたは、ぼくを信頼して見守っていてくれる?
ありがとう、ルーク。約束だよ……
空間が捩れるように、場面が切り替わる。
頭上から、笑いを含んだアランの声がした。
『あなたはいつも、酔っ払ったら同じ人の話をするんだね、ルーク』
『……してないよ、ブライアンの話なんか』
テーブルに突っ伏したまま漏らす間抜けなぼくの言葉に、青年が呆れたようにため息をつく。
『やれやれ。ぼくに対してはいかにも大人って感じの言葉ばかりを口にするくせに、自分では自分のために行動を起こせないんだから。それってよくない見本じゃないかなあ』
『ぼくは、行動を起こさないという行動を起こしてるんだ』
『いったい何を言ってるんだか』
そう言ってアランが、ぼくの巻き毛を興味深そうに引っ張った。まるで懐かない猫が急にそばにやってきたような気がして、ぼくは少しの間息を止める。
ぼくが寝てしまったと勘違いしたのか、青年が声を落とした。
『あなたがその幼なじみにちゃんと連絡ができるように、暗示をかけておきますね。若者にアドバイスするばかりじゃなくて、大人だって時にはきちんと行動しなきゃ。そうでしょう?』
ほおを流れる、冷たい感触で目が覚めた。
予感がした。彼の死と、向き合う時がきたんだ。
ぼくは小さくため息をついて起き上がり、ちらりと隣に視線を向ける。視線の先では、ブライアンが見たことのないような無防備な顔ですやすやと寝息を立てている。カーテンの隙間から差し込んだ光が、彼の肌の上できらきらと踊っていた。
ぼくは彼の寝顔に小さく笑いを落とすと、そっとベッドを抜け出して、そのまま静かに浴室へと向かう。
ガラス戸を開けてシャワー室に足を踏み入れ、ぼくは思い切り蛇口をひねった。すぐに冷たい水が降り注ぎ始めたが、構わず水を浴び続ける。
やがて降り注ぐ水に温かさが混じり始め、そして、少し熱めの水がぼくの肌を叩いた瞬間、それまで霞がかかったようにぼんやりしていたアランの姿が突然、ぼくの脳裏に鮮やかに蘇ってぼくに笑いかけた。同時に、目の奥から堪えきれなくなった涙が吹き出して、ほおを流れていく。
日焼けして輝くブロンズの肌、そばかすの浮いた明るいほお、時々見え隠れする、少年の名残。彼の笑顔はあまり見たことがなかったはずなのに、浮かんでくるのはぼくに笑いかける彼の嬉しそうな表情ばかりだった。
まだ青年になったばかりの若々しい声が、ぼくの名前を呼ぶ。ルーク、ルーク、ルーク、と。
自分を隠そうとするあまり、変装というにはあまりにお粗末な地味でださい服ばかり着ていたアラン。けれど彼の奥にとぐろを巻く、若々しい可能性に満ちたエネルギーは少しも隠せていなかった。
初めは暗い印象だった黒い瞳の奥には、未来を見据える希望に満ちた光が、確かに輝いていた。誰にも打ち消すことのできない——打ち消すことができなかったはずのあの光。あの光を、直前まで彼と一緒にいたぼくが消してしまったんじゃないのか。
彼の死を知った時から胸を苛み続ける問いが、再び頭をもたげる。
ぼくが少しでも、何かもっと違う言葉を彼に与えられていたら、彼はまだ、生きてこの世界にいてくれたかもしれないのに。
嗚咽を必死に咬み殺すぼくの頭の中に、その時、聞き慣れた懐かしい声がこだました。
——ルーク。あなたがくれたものは、ぼくの人生にとってかけがえのないものばかりだったよ。
思わず目を見開いて顔を上げる。そこにはいつもの見慣れたシャワー室のタイルがあるだけだった。
それは、ぼく自身が作り出した、都合のいい幻聴だったのかもしれない。それでも、その衝撃はなかなか引かず、いつまでもぼくの胸を震わせ続けた。涙がひとりでに暖かいものへと変わっていく。
アラン、君の背負っていた苦しみが、今はもう全て安らぎへと変わっていますように。ばあちゃん、もしまだ近くにいたら、アランのそばにいてやってよ。短い付き合いだったけど、弟みたいなやつなんだ。
ぼくのこの願いは、きっと聞き届けられるだろう。だってばあちゃんは本当にすごい人なんだ。それに、これは彼女の愛する孫が、彼女に頼む人生最後の願いなのだから。
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