8-3

 一瞬だけ、意識が遠のいていた気がした。

 いつの間にか夜は静けさを纏っており、昼であれば十五階まで届く車が行き交う気配も、繁華街の喧騒も、今は聞こえてこない。

 生ぬるい水滴がぼくの肌を流れていく。この水分が自分のものなのか、ぼくの上でぐったりと力を失っている男のもなのか、いまいち判断がつかなかった。重くてだるい体はベッドに吸い込まれそうなほどに力が抜けきっているのに、頭はどこまでも冴え渡っていた。

 これほど夢中で体を動かした後でさえ、睡魔はぼくの元には訪れないんだな。

 それもまあ、今は悪くなかった。不快なはずの人の体液と温もりが、今はただ心地よい。

 絡み合った体の温かさと、薄く開いた窓から吹き込む涼やかな風の感触をただぼんやりと楽しんでいると、寝たのかと思っていたブライアンがぼくの耳元でくぐもった呻き声をあげた。

「まだゆっくりしてていいよ」

 もう少しまどろんでいたそうだ、と思ってそう声をかけてみたけれど、ブライアンは子供のような仕草で首を横に振って、ゆっくりとぼくから体を起こした。その動きに合わせて、さらさらだと思っていた硬い黒髪がぼくの首をくすぐる。思わず小さく笑いを落とすと、男が茫洋とした表情でぼくを見下ろし、そのままぼくの唇にキスをした。その表情が徐々にはっきりとした輪郭を取り戻していき——自分がまだぼくの中にいることに気がついたのだろう、うろたえた様子でぼくの頬をなでた。

「——今抜く」

 いたわりに満ちた掠れ声に、思いがけなくぼくのほおが熱くなる。

「ああ、うん」

 短くそう返し、ぼくは少しだけ上半身を持ち上げた。何だか間抜けだな、なんて思えたのは一瞬で、ただの異物感はブライアンの動きに合わせて、すぐに甘い感覚にすり替わっていった。その甘さに目と口をぎゅっと閉じて耐える。ブライアンの体もまた、ぼくの体に呼応するようにこわばり、熱を帯びたため息がその口から漏れた。

 どさっとスプリングを軋ませて、ブライアンがぼくの隣に仰向けで横たわる。まるで一仕事を終えた後のように二人して息を弾ませていたが、その息を飲み込んで、ブライアンがぼくの方へと頭を向けた。

「……眠れないのか」

「まあ、ちょっとね」

「いつから」

 さらりと投げられた彼の質問に、ぼくは少しの間絶句してしまった。

「……気づいてたんだ」

「まあな」

「先に寝てていいよ。たぶんしばらくは起きてるから」

「いや」ブライアンが眠そうに目をしばたかせつつ、両手を首の後ろで組む。「つきあうよ。お前とゆっくり話をしたい気分だ」

「無理しちゃって」

 笑いながらぼくもまた、ブライアンの真似をして手のひらを枕にする。途端に、遊び疲れて芝生で寝そべった思い出がよみがった。今となってはもう、ただ幸せな思い出だ。

「いったいどんな話をお望みで?」

「この間お前の事務所で会った、あの若い男は誰だ」

「今その話を持ち出すのかよ!」

「…………」

「あらら、意外と気にしてたんだね」

「……まあな」

「といわれてもなあ」

 これが果たしてピロートークとして適切なのか悩みながら、ぼくは二人の青年の姿を思い浮かべた。

「事務所に押しかけてきた、大学生の四人組の話をしただろう。彼らはその内二人で、アランの死に苦しんでた。一人は恋愛ごとにはからっきしで、もう一人はたぶん、本人は気づいていないけれど最近出会った女の子に魅かれつつある。どう、安心した?」

「別に、心配していたわけじゃない」

「まあ、ぼくとお前はもう、あの頃にはキスをする仲だったしね」

 あの頃の浮き足だった自分を思い出して、思わずぼくは苦笑した。そういえばあの時、こいつが突然ぼくにキスしてきたのは、やはり世にいう牽制というやつなのだろうか。

 その推測ににやにやするぼくに向かって、ブライアンが気まずそうに口を開く。

「あのな、そのことでもおれはひとつ、お前に言わなければならないことがあるんだ。お前は、その、事務所でのキスを特別だと言ってくれたんだが……」

「何? 実はファーストキスの相手は別だとか?」

 まぜっ返すつもりで言った言葉は、思ったより笑えなかった。気にしないよ、とは続けられないぼくに向かって、ブライアンが組んでいた手をほどいて自分の顔をごしごしと擦る。

「いや、ファーストキスの相手はお前なんだ。つまりな、実は昔、おれはお前にキスをしたことがある」

「何だって?!」

 仰天するぼくに、ブライアンが「すまん」と気まずげに詫びの言葉を口にする。

小学校プライマリー五年の時、二人揃ってサマーキャンプに放り込まれたことがあっただろう」

「ああ、よく覚えてるよ。たしか十歳くらいの頃だったよな」

「ああ」

 と言うことは、ぼくが恋の苦しみを知る前の、最後の夏だ。ただただ大好きな友だちだったブライアンと、ぼくは夢中で走り回っていた。

「でもそんな幼い頃の話なんてカウントする必要ある? 事故か好奇心じゃないか?」

 戸惑うぼくに、ブライアンが剥き出しの肩を竦めた。

「好奇心と呼ぶには、下心があり過ぎるキスだったんでな」

 下心。ローティーンの少年にはあまりに似つかわしくない言葉に、ぼくはやや呆れつつその頃の自分を振り返る。後先考えずに飛び出しては怒られていた記憶しかない。

「……つまり、あの頃からぼくのことが好きだったってことか? 自分で言うのもなんだけど、あの頃のぼくに、何か魅力的な要素なんてあったかな。対等に扱ってくれた、くらいじゃキスには結びつかないだろ」

「当時のおれの目には、お前が一番強くて大きくてかっこよかった」

「そうだったっけ?」

「おれはまだその頃、小さかったからな。だから対等に扱ってくれたのは、お前くらいだった」

 男の言葉に、朧げながら昔のことを思い出した。そういえば、昔はブライアンの方がずっと小さかったのだ。やんちゃなぼくにくっついて回っては泣いていた、黒髪の華奢な男の子。大人たちは揃ってこの小さな幼なじみをかまい倒し、かわいがったものだった。

 少女とみまごう少年の泣き顔を微笑ましく思い出していたぼくに、美少年の成れの果てがとんでもないことを口にする。

「こいつを押し倒すのは骨が折れそうだ、とかそんなことを考えていた」

「お前、嘘だろ……」

 あまりの言葉に絶句するぼくに、ブライアンが淡々と続ける。

「あの頃までは、おれも純粋だったんだ。お前に相応しい男になろうと間違った努力を続けて、いつの間にか寄せられるようになった周りの人間からの期待に答え続けているうちに、自分を見失って変に捻れてしまった」

「うんうん。周りの期待に応えてばかりいると自分の望みもわかんなくなることってある——なあ、それより「純粋ピュア」の定義について、ちょっと話し合っておかないか」

 呆れるぼくの言葉に被さるように、無機質な着信音が鳴り響いた。ぼくの電話は音を切ったままだから、ブライアンへの電話だろう。床に放り出された嫌味のように丈の長いズボンのポケットの部分が、ぴかぴか光っている。

 電話に出るかどうか悩んでいるらしい恋人が、問うように視線を向けてくる。早朝——おそらく三時ごろ——の電話だ。ぼくがやつでも気になるだろう。ぼくがひらひら手を振ると、やや迷いを見せつつも、ブライアンはそのままベッドから抜け出した。途端にぼくの目が、男の一糸まとわぬ完璧な裸体に吸い寄せられる。

「サムからだ」

「やっぱりな。相変わらず無粋なやつ」

 視線をなんとか男の体から引き離して、ぼくは上の空で答えた。全く、惚れ惚れするような筋肉だ。今までこいつの魅力と言うやつから目を逸らしていたけれど、たしかにまあ、修道服か甲冑でも準備したくなる体だった。この体を隠すには、Tシャツ一枚なんかじゃあまりに心許ない。

 そんなことを考えていたぼくの目の前で、ブライアンの声に徐々に戸惑いが滲んでいく。そして、何事だろうかと視線を男に戻したぼくの方へ歩み寄り、ベットに腰かけて口を開いた。

「お前の友人に手をかけた人間が、自首したらしい」

「自首した?!」

 思わず飛び上がろうとして、ぼくはそのままベッドに沈没する。

「くそ、足にちっとも力が入らない! お前が無茶するから」

 ぼくの言葉にエロティックな表情でにやりと笑うと、ブライアンは無造作に前髪をかき上げながら顎をしゃくった。

「サムが、お前と話がしたいそうなんだが」

「無理って言って。お前のせいで動けないって」

 文句を言うぼくの唇に再びキスを落とし、ブライアンはそのまま立ち上がって寝室の扉の向こうへと姿を消した。それを見送ってから、ぼくは引き上げていた表情筋から力を抜いてため息をつく。

「……そうか、自首したのか」

 それは、不思議な感覚だった。事件にケリがついてほっとした気持ちも確かにあるのに、同時に、ひどく追い詰められた気分になる。

 アラン、君はもう本当にこの世界にいないんだな。

 今のぼくなら、今度こそきちんと君の助けになれるかもしれないのに。

 浮かんでは消えていく泡のように、ぼくの心に次々と青年を惜しむ言葉が浮かんでくる。——それなのにどうして、ここにきてもなお、ぼくは彼の顔を思い出せずにいるのだろう。

 ガチャリとドアノブがなり、扉の向こうから再びブライアンが顔を出した。反射的に彼に向かって口角を上げたぼくをしばらく見つめたあと、ブライアンはゆっくりとぼくの方へと歩いてきて、そのままベッドに腰を下ろした。

 そして、彼を見上げるぼくの髪の毛に手を絡ませ、口を開く。

「いいか、ルーク——」

「分かってる」

 ぼくの言葉に、ブライアンが口を閉じる。

「ちゃんと分かってるから」

 そう言って力なく笑ったぼくを、ブライアンがその熱くて大きい体で覆いかぶさるようにして抱きしめた。その体にふさわしい、大きくて熱い手のひらが、ぼくの少し湿った巻き毛を撫でる。何度も、何度も。——彼のゴツゴツした体の感触は、確かにぼくたちの間にある境界線の存在をぼくに意識させたけれど、それでもぼくは、自分の魂がじかに彼の腕に抱きしめられたように思えた。

 その絶対的な安心感で心と体が満たされた次の瞬間、ふっと自分の心と体から、あらゆる力が抜けたのがわかった。

 なんだこれ、と思う間もなく意識が遠のいていき、約一週間ぶりに、ぼくは深い深い眠りへと引きずり込まれていた。泥の中に潜るような——まさにそう表現するのがぴったりの、深くて重い闇の世界に。

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