3-5

 三人の大学生との話を終えたぼくとカシムは、口をつぐんだまま大学の出口に向かっていた。まだまだ日差しは明るいながら、漂う空気にはすでに一日の終わりの気配が混じり始めている。

 目の前を、アイボリー寄りの白い鳥が横切った。その勢いに目を奪われたまま、ぼくは二人の間に漂う沈黙を破る。

「なあ、カシム。ちょっと、ぼくに付き合ってくれない?」

「もちろん構いませんよ」

 彼の返事に頷き、ぼくは道から逸れて芝生に降りていった。道からやや死角になるあたりに腰を下ろすと、青年もまた関節の柔らかさを感じさせる動きでぼくの隣に座り込んだ。

「少し、ぼくと話をしよう」

「話って、何のです?」

「アランの」

 そう答えて、ぼくはそのまま芝生の上に仰向けになる。ちくちくと肌を押し返す柔らかな芝生の感触と、揺れる木の葉をすり抜けて瞬く太陽の光がぼくを心地よく刺激した。視界からは人が消え、どこまでも広がる青色と木の葉が取って代わった。

「ぼくが知っているアランのことを話すよ。ぼくが、君の四人目のインタビュイーになってやる」

 ぼくの提案に、カシムが目を見開いてぼくを見下ろした。彼の動きに合わせて焦茶色の柔らかな巻毛が日の光に照らし出され、毛先が緑がかった黄色ライムイエローにちかちかと輝く。

「……どういう心境の変化ですか。アランの話を、あなたはあまりしたがらなかったのに」

 そう呟いて、青年もまたぼくの隣に寝転んだ。そのしなやかな動きに、ぼくは思わず口を開く。

「前から思ってたんだけどさ。君、けっこう良い家で育った?」

 ぼくの言葉に、カシムが空を見上げながら、複雑そうな唸り声をあげる。

「どうしてそう思ったんです?」

「まあ、一番は話し方と動作かな」

 特に動作だ。むだがなくて、優雅な——秋の教室、夕日に照らされた十二歳のブライアンの姿がまたしても脳裏をよぎる。慣れ親しんだ胸の痛みに、ぼくはそっと目をつむった。

「……あとは、服装だね。生地の質とバランスがいい。身の丈に合わない高価なものでも、デザインだけの安っぽい生地でもない。値段と質の釣り合いが良すぎるから、ちょっと嫌な言い方すると、大学生にしてはそつがないかな」

 ぼくの解説に青年が黙り込む。ぼくの『アドバイス』を取り入れて、チープなTシャツの一つでも買うつもりなのかもしれない。

「誤解のないように言っておきますけれど、わたしの家は特別に裕福というわけではありません。不自由なく育ちましたから、恵まれていたことは否定しませんが」

 そう言って、カシムが付け加える。

「……ただ、両親がともに教育者だからか、時々家柄について聞かれます」

「教育者って、大学の教授とか?」

「母は高校教師です。父は、オーストラリアに住むムスリムとこの国の文化の、橋渡しのような役割を担っています」

「わお」

 ぼくの素直な賞賛に、カシムが一瞬だけ柔らかな笑顔を見せた。

「学問が好きな家系なんでしょう。曽祖父も、古今東西の思想を学び過ぎてオーストラリアに流れ着いた人だそうですから」

「なるほどなあ」

 憧れと、遠い昔に乗り越えたはずの劣等感未満の感情が懐かしくぼくを揺さぶる。この青年もまた、家庭で必要な教育と教養を身につけさせてもらえた子供なのだ。

 ——彼はさ、完璧なんだ。

 カシムのことを語る、アランの声が再びよみがえった。

 ——全身に光をまとっているような人間だった。キラキラしていて……

 アランが覚えた眩しさを理解できた気がして、ぼくは目を細める。

「……ぼくやアランのようなタイプは、けっこう胸を打たれるよ。君みたいな人には」

「それ、流行ってるんですか? イーサンもあなたも、アランと同じタイプには見えませんよ」

「べつにぼくとアランが似ているとは言わないけど——ただ、ぼく達はほんの少しだけれど、家庭環境が似てるところあって」

 その何気ないぼくの一言に、カシムがばねのように勢いよく上半身を起こした。狼狽に見開かれた目、青ざめた顔。

「そうか、君やっぱり……」

 カシムの顔に、一瞬だけ怯えたような表情が走る。

「君は、本当は気づいていたんだな。アランに暴力を振るったのが誰なのか」

「確信はなくて」青年の声が冷たくひび割れる。「……あなたは、アランから何か聞いていたんですね。彼は、アランは——」

 続く言葉を、なかなか口にできないようだった。ためらった末に、青年がなんとか続ける。

「——彼の家族から、虐待を受けていたんでしょうか」

 ぼくは目を伏せて、アランから聞いた彼の父親の話を反芻した。本を焼いたり、部屋を荒らしたり、彼の人格を踏み躙るような言葉を日々投げ続けたりしたという。

「……受けてたみたい。暴力について語ったことはなかったけれど、ぼくがアランから聞いた話だけでも、彼が受けている仕打ちはひどいものだった」

「そうですか……」

 ぽつりと呟いて、青年が頭を下げる。

「傷跡は、明らかに古いものが多かった。でも彼があまりにも普通の高校生だったから、自分の憶測が正しいとは思えなかったんです。葬式で挨拶をする彼の両親も、まともな大人に見えたのに」

「——まさか、アランの両親の姿を確認するために葬式に出席した?」

 うなだれる青年に、ぼくはなんとも言えない気持ちになった。

 アランは、カシムのことを朗らかで穏やかな青年だと言っていたけれど、ぼくの目に映る彼は余裕がなくて、今にも『朗らか』のメッキが剥がれそうな危うさがあった。この危うさは、やはり同級生の死がきっかけなのだろうか。

「なあ、カシム。やっぱり君、アランの死に筋違いな罪悪感を抱いてない?」

 それまでもややこわばりがちだった青年の顔が、完全に凍てつくような無表情に固まった。明るいはずのブルーアイズに影が落ち昏い光をまとう。

「……本当に、筋違いなんでしょうか」

「カシム」

「高校時代に、アランが虐待を受けている可能性に気づいた人はいませんでした。ヴィクトールもクロエもイーサンも、大学での彼の友人たちですら何も知らなかった。わたしだけだ。彼の状況に気づく、ヒントを与えられたのは」

 君のせいじゃないという陳腐な言葉を、さすがのぼくでもこの状況で言える気がしない。ただ黙って、彼の凍りついた表情を見上げる。

「もしわたしが、あの時与えられた役割をきちんと果たせていたのなら、彼は今も生きていたのではないですか? ルーク、あなたは彼が——」

 そのまま、彼の言葉は消えてしまった。無表情なはずなのに、その顔からは今にも何かが決壊してあふれ出しそうに見えた。

 アランは、なぜぼくに自分が受けていた暴力について語らなかったんだろう。ぼくにはその答えがわかる気がした。暴力があまりに日常的だと、それはわざわざ人に語るような特別なことではなくなってしまうんだ。少なくとも、ぼくはそうだった。

 それなら、どうして父親の抑圧には耐えられなくなったのだろう。簡単なことだ。この目の前の青年に恋をしたからだ。『あの光に気づかなければよかったのかもしれない』とアランは言ったけれど、それでも彼は出会ってしまった。

 だからきっと、苦しくても自分自身を取り戻そうともがき始めた。

 消えてしまったカシムの言葉を掬い上げ、ぼくは口を開く。

「ぼくは、アランは自殺じゃないと思う」

 自殺の可能性を仄めかされた時から、心のどこかでそんな確信があった。

「当てにしてもらっちゃ困るっていうのは、今でも本音だけどさ。アランは、自分の傷を気にかけてくれた同級生への感謝がきっかけで、自分を取り戻し始めていたよ。人生の舵を取り戻そうともがき始めてた。君は彼の人生を変えたんだ。もし、人に与えられた役割というものがあるのなら、君は誰よりも完璧に、アランの人生の中での役割を果たしたと思う」

 もし、カシムがアランの人生に現れなかったら、ぼくは果たしてアランと出会えていただろうか。

「ぼくは、君がアランに出会ってくれてことが嬉しい」

 その瞬間、カシムが勢いよくぼくに覆い被さってきた。受け止めてもらえるのだと信じて疑わないこの真っ直ぐさが、やはり少し、うらやましいかも知れない。

「……自分が、彼にとって特別な人間だったなんて言うつもりはありません。でも、苦しい……悲しくてどうしようもない。どうしてわたしは、あれほど傷だらけだった優しい同級生を、見て見ぬ振りになんてできたんだ……!」

 ぼくにしがみつく青年の手に力が入る。

「もう大丈夫だと思っていた。大丈夫だと自分に言い聞かせていた。もう、彼の傷のこともあまり思い出さなくなっていたんです——アラン、まさか、君が死んでしまうなんて」

 ぼくはそれに答えず、黙って彼の背を撫で続けていた。

 アランの死がカシムのせいであるはずがなかった。カシムだって、そんなことは言われなくたって分かっているだろう。でも人は、自分にできることがあったんじゃないかという思いだけで、自分自身を苛むことができる。

 やがて小さく「すみません」と呟いて、カシムが体を起こした。ぼくのシャツに少しだけ涙の跡があったけれど、ぼくへの被害はそれだけのようだった。器用なことだ。

「……あなたも、ご両親に暴力をふるわれていたんですか」

「まあ、少しね」

「どうして、そんなことが起こるんだろう」

 どうして、か。昔はその理由が、暴力を振るう側にあるとすら思っていなかった。

 ざわざわと踊る木の葉の音に耳を傾けたまま、ぼくは口を開く。

「エネルギーを摂取するためだ」

「え?」

 ぼくを振り返るその無防備な顔に、同じ表情でぼくを見つめるアランの顔が重なった。そういえばどこかで、同じ話をアランにしたんだっけ。

「殴ることで、ちょっと元気になるんだよ。自分が本当にほしいものがわからなくなっている人や、自分で自分を大事にしない人は、エネルギー足りないんだ。自分でもどうしようもないんだよ。だから、それを人から奪おうとする。相手に怒りをぶつけたり、言い負かしたり、殴ったりして——自分のエネルギーは、枯れ果てているから」

 童話のような話に、けれどカシムは素直に眉を曇らせる。

「なるほど。アランは……食料にされていたんですね」

 思わず黙り込んだ。的確な表現すぎて一ミリも笑えない。

「とにかく。少なくともぼくはアランは自殺じゃないと思ってる。あくまで個人の意見だけど、アランと事件の当日に会った人間の言うことだから、少しは——」

「待ってください」

 目の端を赤くしたカシムが、片手をあげてぼくの言葉を遮った。

 顔をタオルできれいに拭き上げ、カバンから取り出したアイスカフェオレを一口を飲み、深呼吸をしてぼくを振り返る。

「——事件の当日に、アランと会っていたんですか?!」

「言ってなかったっけ?」

「言ってませんよ! どういうことですか。一体どこで会っていたんですか。それから、さっきヴィックと話していた手紙っていったいどういうことですか? きちんと全部説明してください!」

「手紙のこと聞いてたの⁈」

「ええ。ヴィクトールが色々聞き出してくれたので手間が省けました」

 平然と言うカシムに、ぼくは押し黙った。アランの言葉が、ぼくの頭でリフレインする。

 朗らかで、全身に光を纏ってて、全校生徒の人気者で、いつも人の話に耳を傾けている頼りになるリーダーだって?

 全く、憧れに目が眩んだ人の言葉を、素直に受け止めちゃいけない。

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