雪の日の温もり

香居

私は困り果てていた。

 膝に乗る小さな命が、その存在を主張し続けている。かれこれ一刻(30分)ほどになるだろうか。


「そろそろ、支度をせねばならぬのだが……」


 背中を撫でながら声をかけるが、嫌だというように小さく鳴き、床へ降りようとしない。


「少し留守にするだけだ。用が済めば、すぐに戻る」


 説得を試みる。だが、ちらりとこちらを見ただけで、すぐに拗ねたように顔をそむけた。


「帰ったら、そなたが満足するまで遊んでやろう。それで手を打たぬか?」


 交渉を試みる。だが、やはり小さく鳴くばかりで、拗ねたような様子は改善せぬ。

 ……はて困った。私事ならばともかく、お相手のいる約束事──信頼のぶより様の御邸へ伺い、朝廷儀式についての講義を受けることとなっているのだ。

 基礎は、玄斎げんさいせんせいから『西宮記』にて教えていただいている。だが、この度皇后宮へ配属されるにあたり、信頼様がより詳しく教えてくださることとなったのだ。ありがたくも信頼様からお声がけいただいた。仮親とはいえ、ここまで親身になってくださることに感謝が尽きぬ。

 この話が決まった際、玄斎師にご報告申し上げると、


『それは良きことですな。時代とともに変化しているところもございましょう。現職の方から教えていただけるのは貴重なことです。存分に学ばれませ』


 と、にこやかに背中を押していただいた。

 そして本日がその日なのだが……


「みゃう」


 2週間預かっているお隣の小猫は、いまやすっかり我が家の一員のようになってしまった。

 こうしている間も、刻一刻と約束の時刻が迫ってくる。膝上を満たす小さな温もりに和んでいる場合ではない……のだが、いかなる説得にも応じぬ姿は、へそを曲げた時の妹のようだ……と、つい顔がほころんでしまう。


「まぁ、若様。お支度をなさいませんと」


 御簾を上げて入ってきた近江が、いまだ座ったままの私に目を見開いた。


「私も、そうしたいのだが……」


 私は苦笑し、健気で愛らしい存在に目をやる。


「これ、もち丸。若様を困らせるものではありませんよ」


 近江は静かに手を伸ばしたかと思うと、あっという間に抱き上げてしまった。もち丸が私の袴に爪を立てる間もない、わずか数秒の技だった。


「みゃあ!」


 近江の腕の中で、抗議の声を上げるもち丸。


「そのような顔をしても、だめなものはだめなのです。若様のお支度を邪魔することは許しません」


 口調は柔らかいが、言い聞かせるような言葉がけをする近江。躾とはかくあるべきか、と思わせるような光景だ。


「若様は、お支度を始められませ。わたくしは、もち丸を女房部屋へ連れて行って参ります」

「すまぬな。よろしく頼む」


 私の言葉に近江は了承の意を示し、退出していった。

 みゃあみゃあ、と抗議の声が次第に遠ざかっていく。かわいそうに思うが、今ばかりは致し方ない。

 もち丸の滞在は、あと数日。ころころと走り回る存在がいなくなった後の私室は、どこか寂しく、もの足りなく映るやもしれぬ。その時に向けて心づもりをしておかねば……

 そのようなことを考えつつ、近江が用意してくれた装束に着替え始めた。






【言ひ分く】

他動詞カ行下二段活用

活用{け/け/く/くる/くれ/けよ}

意味:説得して、手もとから離して行かせる。

(学研全訳古語辞典より)


  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

雪の日の温もり 香居 @k-cuento

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ