ロンギヌス

 幼い頃から空が好きだった。澄みきった深淵の青、光を浴びて泳ぐ雲、そして何より一面を覆い隠す音速の雷鳴に胸が踊った。

 どこからともなく現れて、滑るように空を切り裂き、一瞬にして消えていく。一筋の飛行機雲が涼しく網膜に焼きついて、置き去りにされた余韻が脳みそをいつまでも震わせて、電気を食らったみたいに呆然と見送ることしか出来なかった。

 いつからだろう、あの突き抜ける爽快感を身体の芯から味わいたいと願うようになったんだ。


 そうして僕は今、音速の中にいる。


 キャノピーいっぱいの蒼天は、どんな宝石にも敵わないほど美しかった。機首を下げれば大地が丸く広がって、山がそびえ草木が茂り、緩やかな川が大海原を満たしている。何と豊かな星だろうと、ただ暮らしているだけなのに誇らしく思えてならなかった。

 背後や眼下で火を吹いているエンジンからは、どんな擬音も当てはまらない轟きをところ構わず撒き散らし、僕の周りのすべてから音を奪った。


 今の僕は、音より速く飛んでいる。だから独りぼっちのコックピットは、宇宙より静かなんだ。


 そんな静寂を切り裂いたのは僕を助けてくれる地上の仲間、スピーカーを介したくぐもった声で貴重な情報を教えてくれる。

『十一時の方向に滑走路が見えるか?』

「ああ、見えるよ」

『よし、狙いはわかっているな?』

「丸屋根の倉庫だろ?」

『健闘を祈る』

『オーバー』


 操縦桿を少しだけゆっくり倒し、目標めがけて機首を下げる。あの倉庫まっしぐらには飛ばないさ、突っ込むなんて馬鹿げたことはしたくない。相棒の平らな腹を、倉庫を狙うラインに載せる。

 両翼から下がった白い槍、こいつの最強装備のミサイルが倉庫を真っ直ぐ睨みつけた。僕は親指をそっと浮かせて、操縦桿の上部ボタンを押し込んだ。


 真空の音がした。僕の進路をまばたきするより遥かに速く、真っ白なミサイルが駆けていく。次の瞬間、狙った倉庫から火柱が上がり幾重も幾重も誘爆し、それは辺り一面を呑み込んでいった。

 操縦桿を引き寄せて機首を上げ、果てしない青の世界へと飛び込んでいく。爆発音が遠ざかり、そのうちそれは追いつけなくなり、再び僕は音のない世界へと吸い込まれた。


『どうだ、やったか』

 僕だけの世界に緊迫した無線が割り込む。僕はやや不機嫌そうに、それでもやっぱり嬉しそうに返してやった。

「成功だ、やっぱり弾薬庫だった」

『おめでとう、飛行場を制圧したな。鎮火したら滑走路に降りるといい、天使のように優雅にな』


 その指示を快く受け入れて、火薬が尽きた頃を見計らって滑走路へと舞い降りた。すると輸送機が着陸し、カマキリの子のように歩兵部隊を吐き出していった。そのうちひとりが歩み寄り、友達のように肩を叩いた。


「やぁ、君ひとりで正義の鉄槌を下したのかい? 凄いな、さすがエースパイロットだ」

 やめてくれ、僕は空が好きだった、空を泳いでみたかった、ただ単純にそれだけなんだ。

「僕じゃない。最低限の武装で最大の効果を発揮出来たのは、司令官が計画した綿密な作戦のお陰だよ。それに、今からは君たちが主役さ」

 聖人みたいなことを言いやがって、と小突いた彼は隊列に戻り、見えなくなるまで手を振った。


 彼らに遅れて、僕も燃え尽きた火薬と鉄の匂いが漂う中を歩いていった。ミサイルを撃ち込んだ弾薬庫は跡形もなく、細い煙を立ち上らせる黒い丘になっている。その向こうにはコピーのように建ち並ぶ兵舎がみっともなく崩れていた。

 残存兵がいるかも知れない、僕は拳銃を抜いてぺしゃんこになった弾薬庫を歩いて越えた。


 唐突に、ぬかるみにハマってもんどり打った。英雄の無様な姿に、下衆な笑いが巻き起こる。

「飛ぶのは得意だが、歩くのは苦手なようだな」

「おいおい、地面を忘れちまったのか」

「お前は鳥の仲間だったのか?」

 照れ笑いをして、立ち上がるため地面に触れると、抗うことを諦めた生温かい弾力がずるりと僕の手を引いた。


 その手を捕らえていたのは、腸だった。悲鳴を上げて手を振ると、血飛沫が飛び散り軍服を点々と染めていった。

 その拍子に引きずり出した下半身が、僕の膝にのしかかった。汚れなき青空の中、コックピットという殻に守られた僕のズボンは、血と脂と体液で彩られた。


 引きつり、後ずさり、金切り声をかすらせる僕を尻目に、さっき出来た友達がいそいそと寄る。力ない脚を引き上げ観察し、これ見よがしに落胆していた。

「何だ、男か。まぁ、弾薬庫だから軍人か」

 それを投げ捨て、僕の手を引き、冒険者のような期待感を露わにした。


「女だ、女がいるぞ」

 弾む声が瓦礫の山から連れ出したのは、年端も行かぬ少女だった。怯えるそれは、すぐさま上官に献上されて崩れた兵舎に消えていった。

 下っ端兵士は次なる女を探すため、獣のように瓦礫をほじくり返していた。そのうち彼らの手が止まり、髪を掴んで引っ張り出した。


「何だよ、上だけじゃあ使えないな」

「せめて、もっと残っていればなぁ」


 僕の友達が走り出し、瓦礫に乗って女の捜索に加わった。しばらくすると、瓦礫の隙間から細い足首がチラリと覗き、彼はそれを引き上げた。

 さっきの女の、もう半分だ。へその下が残っている……。

 いや、そうじゃない。そうじゃないんだ。


 ひとりで葛藤する僕などに構うことなく、彼は一切の迷いなく下半身からズボンを剥いで、彼も続いてズボンを下ろした。周りの男たちはベルトを緩め、自分の順番を待っている。

 そのとき、兵舎から一発の銃声が鳴り響き上官だけが外に出て、爽やかな青空を享受した。


 正義の鉄槌が招いた結果を目の当たりにして、僕はもう堪らなくなってしまい、投げ捨てられた下半身に反吐を撒き、拳銃もミサイルも滑走路に捨て、幼き頃に還るため広い空へと身を投げた。

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