坂の上の本屋の娘は三軒隣にいる

@ihcikuYoK

坂の上の本屋の娘は三軒隣にいる

***


 今日はロクな日じゃない。


 夏の雨日の湿度で、前髪が変な形のまま丸一日直らなかった(-1)

 予習でひとつだけわからなかった数学の問題を、よりによって当てられた(-1)

 学校を帰る頃にはバケツをひっくり返したような豪雨となっており、持っていたお気に入りの折り畳み傘が強風で壊れた(-2)


 ほうほうの体で父のいる本屋へ辿り着き、傘を借りようと思ったらビニール傘がなかった(もう-1にしたいところだが、『お父さんのを使いなさい』と可愛くはないものの大きめの傘を貸してくれたお父さんの優しさに免じて+1とする)。


 そしてもうすぐ家だ……というところで、わざと速度をあげたとしか思えないドライバーに、茶色く濁った水たまりの水を思いきりかけられた(-3)


 今日は本当に、ロクな日じゃない。結局全身ズブ濡れになった。


 引き戸の玄関を開け、傘を畳む。

 傘の先端と私から滴った雨水で、玄関の中にまで小さな水たまりができてしまった。

「……ただいま」

母が顔を覗かせた。

「お姉ちゃんおかえり、すごい雨だねぇ。あれ、お父さんの傘だ。折り畳みは?」

「……持ってたけど途中で壊れた」

「そっか。? スカートまでそんなに濡れ、ん? 汚れてる?」

と続き、声が震えた。

「……車に水かけられた」

「そっか……。タオル取ってくるから待ってて」

絞るからいいよ、と声を掛けるが、絞ったら皺になっちゃうでしょ、と母はパタパタとスリッパの音を立てて背を向けてしまった。

 俯いてスカートを絞ると、雑巾みたいに汚い水が滴り私は顔を顰めた。絞る手と同じだけ、グッと歯を食い縛った。最悪。


「……私、なんか今日すごくついてないみたい。早めに寝ちゃうね」

全身を軽く払って水滴を落とし靴を脱ぐと、軋む階段を駆け上がる。

「お姉ちゃん、タオルは、」

「今日ごはんいらないから」

お腹減っちゃうよ成長期なのに、と投げかけられた声は聞こえていない振りをして、音を立てて自分の部屋の戸を閉めた。

 思いのほか大きな音が家の中に響いてしまい、途端に自己嫌悪した。


 ――あぁ最悪、最悪!

 お母さんに八つ当たりした、最悪!


 苛立ちと共に濡れそぼった制服を脱ぎ捨てると、ベチャリと湿った音が立った。あとで床も拭かなきゃいけない。

 部屋着に着替える前に下着まで濡れていることに気が付き、内心舌打ちをした。


 ――どんな運転してるのよ。普通、傘挿してる上半身まで濡れないでしょ。

 ヘタクソな運転するくらいなら乗らないでよね、とイラつき、途端に胸がむしゃくしゃした。

 あ~~、ぜんぶあの車のせいだ。今日の雨も前髪がきまらなかったのも折り畳み傘が壊れたのも、ぜんぶあの車だ。絶対あの車のせいだ。

 心の底からムシャクシャした。大声で叫びたい。


 控えめなノックの音がした。

「お姉ちゃん? いまお風呂入れてるから、沸いたらすぐ入っちゃいなさいね」

体、冷えたでしょう、大丈夫? との母の穏やかな声に改めて反省した。

「……。うん」

「洗面所に袋置いておいたから、濡れちゃったぶんはそっちに入れてね。スカートも乾くから大丈夫だよ」

今日が金曜日でよかったよと続き、その言葉にカッと苛立ちを覚え無視をした。

 なにがいいのか、私がこんなにズブ濡れにされたのに。あの折り畳み傘だって、お気に入りだったのに壊れてしまった。

「プリーツにアイロンあてる時間もあるし、月曜は綺麗な状態で登校できるからね」

と言われ、うん……、と口から漏れた。

 スカートのプリーツが緩んでいると、広がって見えてカッコ悪いしぜんぜん可愛くない。自分ではアイロンをあてもしないのに、頑固に持ち続けている私の面倒なこだわりを母は熟知していた。


 反省しきりである。

 中学に上がった去年くらいから、なんだかすごくむしゃくしゃするのだ。自分でも自分がおかしいことはわかっているのだが、コントロールできないのであった。

 なにかあるとパチンと勝手にスイッチが入り、いつまでも苛立ちが収まらなくなってしまう。


 まだ両親が一緒にいて祖母とも同居していなかった去年、祖母に顔を見せにこの家に来た際に、私は虫の居所が悪くそれは愛想が悪かった。そんな私を見て祖母は怒りもせず苦笑し、

「まぁ、ハルちゃんは反抗期かしら? 思春期なのねぇ」

と言った。

 ちょっとボケているくせに、わかったような顔をしてそんなこと言われるなんて、と私はまた腹が立ってしまい、滞在中ずっと態度が悪かった。

 私たちが来るからと祖母が買っておいてくれたアイスも、

「別に。そんな子供っぽいのもう好きじゃないし」

と、嘯き頑として食べなかった(なんであんなことを述べたのか自分でもよくわからない、普通に今でも好きなのに、その時はどうしても皆と一緒になんて食べたくなかったのだ)。

 千夏にまで「……お姉ちゃんどしたの。せっかくおばあちゃんが買ってくれたのに。皆で食べようよ」と言われ、でもその手にはいつも私と奪い合いになるストロベリー味がしっかりと握られており、妹のそのちゃっかり加減にまたイライラし「いらない」と突っぱねた。


 さすがに見かねたのか、あの温厚な母が、

「千春。嫌なことがあるならツンケンしてないでちゃんと話しなさい」

と咎めるようなことを言ってきて、でも私はそれすら腹が立ってしまい、

「お母さんは黙っててよ、私のことなんてなにもわかんないくせに」

と言った。

 そしてお父さんにまで「お母さんに八つ当たりするな。うちで一番、お前のことを考えてくれてる人だよ」と叱られた。

 そんなことは、言われなくたってわかっていた。でもその時の私は、なぜかわからないがその場にいる全員から自分を責められているような気がして、意地になって謝りもしなかった。


 両親が離婚してしまったのは、私がそんなだったせいもあるのかもしれない。

 いつもニコニコとした穏やかな人だが、あの頃、母はずっと変だった。

 ときどき誰もいない廊下でひとり張り詰めた顔をして立っていたり、私たちが家に帰ると、電池が切れたおもちゃみたいに、ぼんやりとした顔をして床に倒れ伏していることがあった。

 ちょっとずつ会話がちぐはぐになってゆくおばあちゃん、それに伴い進む同居の話、仕事が忙しすぎてろくに話しもできずにいたお父さん、そして突然反抗期が爆発し会話を拒否しだした長女の私、能天気すぎて相談相手にできない次女千夏。

 母も限界だったのだろう。


 父と母が喧嘩をした日、母にとって家族として一番マシな存在は千夏だったのだと思う。

 千夏は一番に母の味方をした。取り乱し、泣いてしまった母に寄り添い「いまのはお父さんがよくないと思う」と言った。

 私が母に引っ付いたのは、なにも大層な理由ではない。千夏に母をとられたくないからだった。ここでお父さんの味方をしたら、お母さんは私のことを嫌いになるかもしれないと馬鹿なことを思ってしまった。これ以上、私は悪者になりたくなかった。

 でもその結果、父をひとり悪者にしてしまったのだった。

 私がしっかりしていればよかったのに。せめてもうちょっと家族に、お母さんに優しくできていればよかったのに。

 話くらい聞いていたら、いや、せめてあんな嫌な態度ばかりとっていなければ、うちの両親は離婚なんてしなかったのかもしれない。

 なにもかもが、取り返しのつかないことだった。


 ああいう想定外の事態に、妹はいつも強かった。

 なんにも考えていないような顔をして普段はヘラヘラしているくせに、土壇場で根拠のない頼りがいをみせて周りを落ち着かせる子だった。だいたいそういう時の私は戸惑っているばかりで、慌ててマシな方について行くだけだった。

 これではどっちが姉なのだかわからなかった。情けない。


 俯いた。床が濡れていた。

 雨の日は嫌いだ。お父さんとお母さんが、離婚すると決めたあの日も雨だった。雨も嫌いだが、私は最近の私のことが嫌いだ。

「……さっき。戸、閉めるときなんかすごい大きい音出ちゃった……」

どうしてひとこと「ごめん」と言えないのか、自分でもわからない。

 戸の向こうから、落ち着いた声が戻ってきた。

「……そうだっけ? 雨の音がおっきくて、お母さん気づかなかったよ」

と言われ、(なんてできた人なの……)と思うと同時に、私はさらに自己嫌悪した。

 私は母似で優しげな顔をしているが、妹曰く母と違って性格がキツいそうである(あんたがどのツラ下げて言うのかと思ったものだが)。

 実際、「その顔でその性格?」と、学校で見ず知らずの男子によくガッカリされている(失礼な話だ)。普段は元気なので、

「は? だからこその私なんだけど? なんか文句あるわけ??」

と堂々と思えるが、落ち込んでいる今日はなにもかもがダメだった。

 こんな性格だから、ヘタクソなドライバーに水なんか掛けられたのかもしれない……。こんなものは絶対に自分の被害妄想だとわかっていても、どうも今日は後ろ向きになってしまい落ち込んだ。


 後ろ向きなときの自分は嫌いだ。

 また、なんにもできない気分になるから。


 いま、入っても大丈夫? と戸越しに声がした。

「えっ! ちょっと待って!」

慌てて部屋着に袖を通そうとしたが、体が濡れておりモタついている間に、カチャリとドアノブを回す音がした。

「!! ちょっと! 私まだ着替え終わってない……!」

そっと腕だけ伸びた。バスタオルが乗っていた。

「さっき結構濡れてたし、まだ濡れてるかなと思ったの。風邪引くといけないから」

必要なら使ってね、と言われ、震えた。


「……。……お母さぁん」


 タオルごと腕に取りついた。

 戸が開いてしまい、まだほぼ下着姿の私に母は目を丸くした。

「、風邪引いちゃうよ」

 なんてできた人だろう。

 お父さんは本当に馬鹿だ、こんなに優しいお母さんを怒らせるなんて。珍しく怒り狂う母の迫力にあの日の父は固まってしまい、謝罪で精一杯という感じだった。

 私は、たぶんお父さんに似ている。きっと同じようなことがあれば同じように固まってしまい、そしていつか皆に見限られてひとりになってしまうような気がしてならない。


 腕から離れない私を、母はちょちょいとつついた。

「お姉ちゃん? ……千春ー? ハルちゃん……? ……そっか。今日はそんなに元気がなかったかぁ……」

「……今日、湿度すごくて朝からずっと前髪が変で嫌だった……」

 そっと前髪に触れられる感覚があった。恥ずかしくて顔は上げられなかった。私は腕に取りついたまま、柔軟剤の甘い香りがするタオルに顔を突っ伏していた。

「そう? 千春は美人だから、髪の毛がどんなでも似合うと思うけど……」

「……。これはない。ぐちゃぐちゃだもん……」

そうかなぁ? むしろちょっとオシャレじゃない? と、やや上方から声がした。まだ身長は母のほうが高い。


 あーぁ。駄目だ、甘やかしモードだと思う。

 母は私が落ち込むと、めちゃくちゃに甘やかすのだ。

 千春は昔から千夏に遠慮しちゃってなかなか甘えてこなかったから、気づいたときは甘やかすって決めてるの、と前に母は言っていた。

 それは私が反抗期になる前、お父さんと離婚する前、まだおばあちゃんもしっかりしていた頃の話だ。


 もういいや、全部言ってしまえ、と思った。

「……あと、数学で一個だけ解けなかったやつがよりによってあてられて」

恥ずかしかった、などとモゾモゾと続けるのを、母はふんふん頷きながら聞き、

「わかんないのはそのひとつだけだったの?」

他は全部できてたんだ、千春はすごいね、と言った。

「っそういう話じゃないのー……」

と言いながら、照れ半分で私はタオルの中で頬を膨らませた。


 母も祖母も褒め上手で、私たち姉妹はデロデロに甘やかされてきた。

 もちろん躾に関しては別だったが、他に関してはコンプレックスを抱く隙もないほど褒めそやされ、妹も私も自分のことを宇宙一可愛いと思えるおめでたい姉妹に育った。

 あわよくば、このままずっとお母さんに甘やかされて死んでいきたい。お母さんにはなんとかして、私よりも長生きしてほしい。

 でも、お母さんがいつかおばあちゃんみたいにボケちゃったら。会話もちぐはぐになっちゃったら。いや、それならまだいい、いや全然よくないし今だって大変だけどそれはまだいいとして。

 もしいつか私のことを忘れちゃったらどうしよう、と時々思う。


「……あのドライバーひどいんだよ、絶対わざと私に水かけた。私の横通るときだけ速度上げたし」

信じらんない……と怒ると、母はバスタオルを広げ私をくるみ、キュッと抱き締めてくれた。あたたかかった。優しく数度背中を叩かれた。

「冷えるとね、なんでもマイナスに考えちゃうからよくないんだって」

「……冷えたからじゃないもの。あれは絶対そうだった」

「じゃあきっと、よっぽど急いでたんだよ。んー……お腹壊してたのかなぁ」

思わぬ一言に思わず顔を上げると、運転しながらトイレ探してたのかも……と、母があんまり真面目な顔で言うので吹いてしまった。

 なにそれー、と口から漏れた。

「……それはちょっと可哀想かも」

水掛けたことは許さないけどね、というと、母はいつものごとく穏やかに小首をかしげ微笑んだ。

 こういったしぐさが近所のおじさんたちを狂わせているのだと、母に自覚はない。自覚がないから直らない。お父さんがいれば防波堤になったのだが、離婚してしまったいまはどうしようもなかった。

 お父さんと元鞘に戻るまで、なんとか私が守ってあげないと、と思う。

「困るねぇ? うちの千春をこんなに濡らしてくれちゃって」

風邪引いたらどうしてくれるんだろう、と頭をなぜられた。


 私もう中学生なんだけどな、と思いつつ、まぁいっかと素直に目を瞑った。

 こんな日でもないと、母に甘えようなんて思わない。珍しく千夏もまだ帰っていない。せっかくだから素直に甘やかされようと思った。

 なされるがまま頭を撫ぜられていると、拾われたての子猫にでもなった気分だ。


「……私、お母さんみたいなお婿さん探そうかな」

「あれ。千春はお父さんのお嫁さんになるんじゃなかったの?」

「やだそれ幼稚園の時の話でしょ。それに、お父さんは結婚しなくたって私のこと大事にしてくれるもの」

私はバリバリのキャリアウーマンになって、オートロック付きのマンションにお母さんとおばあちゃんを住まわせてあげるのだ。

 母は、ふいに私を見つめた。

「……。お母さんは、結婚しないと相手を大事にできない人かなぁ……?」

「?」

首を振った。

「お父さんは形式上のことは興味がないしあんまり気にしない人だけど、お母さんはそのいうのあった方が嬉しい人でしょ?

 なんでもいいって人と、こっちが嬉しいって人がいるなら、嬉しいことがある人にあわせた方が楽しいと思うの」

……千春はお父さんみたいなこというねぇ、優しいし賢いし、と言われこそばゆい気持ちになった。母は父のことが、別れたいまでも好きなのだ。一番の褒め言葉に違いなかった。

 年頃の娘は父親に似ていると言われると嫌らしいのだが、私は父も好きなのでなんでもなかった。早くお父さんと再婚すればいいのに、と思う。


 父と離婚してから、うちには母目当ての来客が明らかに増えた。

 用もなく訪れインターフォンを押すので、私たちはいつも辟易していた。とはいえ無視するわけにもいかない、宅配物がくることもある。インターフォン越しに対応すればいいか、ということになった。

 だがそういう手合いには外で行き会うこともあり、それは鬱陶しいものだった。

 やれ「旦那さんいないと大変だろう」とか、やれ「男手が必要ならいつでも呼んでくれていい」と母に声をかけるのはもちろん、「お父さんいなくなって寂しいだろう、おじさんがなってやろうか」なんて私たちにまで愛想を振りだしたのだ。

 そのたび私と妹はゾッとして、「なにいまの!?」「キッモ~~!!」と悲鳴を上げるのだった。


 だいたい、父はうちの3軒隣の本屋にいるのである。

 よくわからないおじさんより、電話一本で大好きな父に来てもらった方が良いに決まっている。

「ていうか、お父さん頼めばうちの電球だって替えに来てくれるのに! お父さん以外のお父さんなんか絶対いらないし!!」

「つか離婚とか関係ないし! お父さんもお母さんも仲良しだし!」

「なんなの!? 自分がそうしたいだけの癖に、良かれと思ってみたいな言い方してくるのほんとウザい!!」

お母さんに相手されるわけないじゃん!! と、妹とふたりいつもキレまくっていた。下心が見え見えで本当に嫌だったし、いっそ心象はその辺を歩く見知らぬおじさん以下になった。


 声掛けだけでは無理と悟ったのか、そのうち母がパートで不在の日に「家に入れろ、せっかく来てやったんだから茶くらい出せ」としつこく食い下がってくる人間が現れた。私たちがドン引きながらもインターフォン越しに押し問答をしていると、うるさかったのかまだ寝ぼけ眼の祖母が起きてきた。

「どうしたのー、ハルちゃんナッちゃん随分長いことお話してるのねー」

「違うよ! なんか変なおじさんが家に入れろってしつこくて、」

「帰ってって言ってるのに……、なんかこわい……」

と半泣きで経緯を説明すると、祖母はインターフォンのカメラに映るおじさんを見つめ鬼の形相になり、

「ボケた婆さんと娘っ子しかいないからって舐めてんじゃないわよ!!

 よくもあたしの孫を怖がらせたわね!! うちの敷居跨いだらたたじゃおかないわよ!! おととい来なさいってのよ!!!」

二度と来るな警察呼ぶわよ!! と、怒鳴り散らして追い返してくれた。

 見たこともない祖母の迫力に後ろで震え上がっていると、すぐにいつものケロッとした顔になり、何食わぬ声で、

「女所帯とわかってて、約束もなしに来る男なんて大抵ロクなもんじゃないわよ。居留守してやったらいいの」

あんたたちなんかそれこそ危ないからね、と私たちに言った。


 そういえば、この人もシングルマザーで娘を育てあげた人だった。肝の座りかたが違う。私はもうあまり覚えていないが、昔はきっと、祖母も頼りがいのある人だったのだろう。

 お父さんは、おばあちゃんに信頼されている数少ない男性だった。

 うちの家に入れる男の人は、お父さんとお父さんお母さんの友達と、点検修理に訪れる業者の人くらいだ。

 他の男の人なんて、おばあちゃんはきっと赦さないだろう。母の自由を奪っているようで罪悪感はあるが、それでもいつも私はホッとするのだった。お父さん以外のお父さんなんて嫌だ。


「……お父さんてばほんと馬鹿。離婚なんか受け入れちゃってさ。お母さんみたいな人、他にいないのに」

「……。馬鹿はお母さんなの。約束破ったのはお母さんのほうだから」

お父さんのこと悪くいわないで……、と母は俯いてしまった。

「? 約束ってなに? どんな約束?」

と問うと、少し困ったような顔をした。


 ふとピロピロと間の抜けた音がし、抑揚のない女性の声が風呂が沸いたと告げた。

「あ、ほらもう入っちゃいなさい。その恰好じゃほんとに風邪引いちゃう」

「えー……? やだーぁ……」

「なぁに、急に甘えん坊になって」

ハルちゃんお風呂に入っちゃってくださーい、と被されたバスタオルで髪を拭かれ、私の口からはようやくご機嫌な笑い声が漏れた。


 ふいに一階からヤケクソのように玄関扉が開く音と、ドタバタと騒々しい音がした。

「んもーーーっ!! 最悪なんだけど!!

 聞いてよあのね車がね!! あっお母さぁん! タオルーー!!」

あっお姉ちゃんも帰ってる!? お姉ちゃんも聞いてよひどいんだよ! と叫ぶ妹の声が聞こえてきて、私は溜め息を飲み込んだ。

 ――千夏……。騒々しいんだから……。

 母はその声に「大変、玄関びちょびちょかな」と慌てた。


 タオルタオル、と言いながら母は去っていってしまった(-1)


「さっむ……」

 かけられたバスタオルの裾を掴んだ。母の体温が離れると、途端に体に震えが走った。本当に風邪をひきそうだ。

 少しむくれつつ、妹に先を越されないよう、部屋着を抱えて風呂場へと急いだ。


Fin.

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