「指定席」 – 筋肉 [KAC20235]

蒼井アリス

「指定席」 – 筋肉 [KAC20235]


 水曜日の夜、猛はジムに通う。


 探偵という仕事柄、体力勝負や肉弾戦になることも少なくない。自分の身を守るためにも身体を鍛えていて損はない。若い頃は一夜の相手を引き寄せるために見せる筋肉、すなわち「きん」を鍛えていたが、今は身体を効率的に動かすための筋肉を鍛えている。もちろん筋肉だけでなく持久力をつけるためのトレーニングも怠らない。


 愛するものを守るため。

 猛が身体を鍛える本当の理由はそれなのかもしれない。

 猛の恋人である洋介がある男に怪我を負わされた事件以来猛は一層熱心に身体を鍛えている。

 あの男がもう一度洋介を襲ってきたときにきっちり対処できるように。


「こんばんは」


 ジムの受付スタッフが猛の姿を見つけるとにこやかに挨拶をしてきた。

 猛も片手を上げて「よお」と言い、「今日、いてる?」と聞く。

「ランニングマシンもウエイトマシンも比較的空いてますよ」

 スタッフのその言葉に猛は軽く手を上げてロッカー室へと急いだ。


 ロッカー室でトレーニングウェアに着替えフロアに出てみると、受付スタッフの言うとおり今夜はいつもより人が少ない。これなら長い時間マシンを占領しても大丈夫そうだ。

 早速ランニングマシンで身体を温める。音楽を聞きながら小一時間ほど走った後、ストレッチをして少し身体を休ませる。


 毎週水曜日に顔を見かける人たちが時折猛に声をかけてくる。

 身長が190cm近くあり、形の良い筋肉を纏っている猛はどこにいても目立つ。特に身体を鍛えている者にとって猛の体躯は目標にするほど理想的だ。

 猛は身体だけでなく顔立ちも男らしく精悍で人目を引く。猛の姿を見たくて水曜日の夜にジムに通っているメンバーもいると聞く。


 ウエイトマシンでトレーニングを始めてしばらく経った頃、猛は一人の青年が自分をじっと見つめていることに気づいた。今まで何度か見かけたことのある美しい青年だ。

 以前の猛であればすぐに自分から声をかけ、一夜の愛を交わしていただろうが、今は操を誓った恋人がいる。己の命よりも大切に思う恋人が。

 猛は全身の筋肉が悲鳴を上げるまでトレーニングに集中した。


 額や首筋から汗が流れ落ちる。

 タオルをロッカーに忘れてきてしまった猛は、頬や首を伝う汗を持ち上げたシャツの裾で拭った。

 すると、持ち上がったシャツの隙間からきれいに6つに割れた腹筋が現れる。

 フロアでトレーニングをしていた誰もが猛の腹筋に目を奪われ、トレーニングの手を止めてしまっていた。

 実践で使い込まれた猛の筋肉には無駄がない。服の上からでは想像できなかった筋肉を目の当たりにした人たちは思わず声を上げて称えそうになっていたが、猛がシャツを下ろしてロッカー室へ歩き始めた瞬間に一斉に視線をそらす。ただ、あの青年だけは猛を目で追っていた。


 シャワーを浴び終わり濡れた髪をタオルでゴシゴシと拭いていたら、突然誰かに後ろから抱きつかれた。

 猛は咄嗟に「しまった! 油断した」と思いその人物に反撃する体勢を取ろうとした瞬間、予想外の言葉が聞こえてきた。


「好きです」


 あの青年だった。


 その青年は今にも泣き出しそうな顔をして猛を見つめていた。猛が返事に困っていると、その青年はもう一度「好きです」と声に出した。


「ありがとう。でもごめんな。俺がこの腕に抱くのはただ一人と決めてる。俺の腕の中はあいつの指定席で予約済みなんだ」

 この台詞を吐いた後、猛は途端に恥ずかしくなった。まるで少女漫画に出てくるような台詞が自分の口から出てきたことに自分自身が一番驚いていた。出来ることなら今の台詞を撤回したい、なかったことにしたい、そう思ったがその青年はくさいセリフに呆れることなくただ微笑んでいた。


「分かっています。あなた程の人に恋人がいないわけがないと思っていました。でもどうしても自分の気持ちを伝えたくて……今ここで玉砕しておかないと次の恋に進めない気がして」

 その青年は泣き顔を優しい微笑みで隠していた。


 猛は何と声をかけていいのか分からず、首にかけていたタオルを強く握りしめる。


「困らせるつもりはなかったんです。ですから気にしないでください」

 そう言うと、青年は軽く会釈をしてからロッカー室を出ていった。


 猛は青年が出ていったロッカー室のドアをしばらく見つめていたが、無意識にこんな言葉が口をついて出た。


「洋介に会いてぇな」

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「指定席」 – 筋肉 [KAC20235] 蒼井アリス @kaoruholly

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