8月20日(土)#2


 母の言葉に、持ち上げたボストンバッグを落としかけた。

 のを、寸前で堪えた。

「……あー」

 普通なら、背筋がヒヤリとするところなのかもしれない。

 しかし「ああ、やっぱり」と冷静に思っている自分もどこかにいた。

 脳裏にふっと浮かぶ横顔。今にも消えていきそうだった。ほんとうの名前さえ知らないのに、昔から知り合いだったみたいに一緒にいたこの7日間。

 最後に花火をした時の、あの感覚を思い出す。もう会えない人かな、と何の根拠もなく感じた頼りない直感は、どうやら当たっていたようだ。

「……えーと」

 あ、はは、と乾いた笑いで咄嗟に誤魔化した。

「もしかしたら、あの、帰省してる子だったのかも。ほら!今夏休みだしさ」

 訝しげな顔をしている母に急いでそう言うと、「じゃあ行ってきます!」と切り替えるように笑顔をつくった。

 怪しい人と会っていたのではないかと、下手に突っ込まれるのを避けるように引き戸をガラッと開けて外に出る。

 しかし足を踏み出したとき、パッと目に入ってきたものに思わずピタリと足を止めた。

「え――」

 引き戸の横に立てかけられた、どこか見覚えのあるもの。

 引き寄せられるように近づくと、そこにあったのは子供用の傘だった。見間違えようのない、ひまわりのような鮮やかな黄色。

「……」

 カタン、と風に揺れ、扉と触れ合って音を立てるそれを恐る恐る手に取る。ベリ、とマジックテープを剥がしてグッと手元の出っ張りを押すと、バサッ!とジャンプするように勢いよく開いた。

 昔、使っていた感触が手に馴染むようで懐かしい。最後に見たのはもう何年も前のはずなのに。

 つい最近まで使われていたような滑りの良さ。内側の金属も錆びついていないし、乾かしたばかりのようにハリがある。

「どうしたの穂花……あれ?」

 玄関を出たところから動かない私を見て、不思議そうに母が家から出てくる。

「その傘、昔あんたが使ってたやつに似てない?」

「うん……」

 数日前。晴れた日にビニール傘を持っていた私に、どこか懐かしそうに目を細めた顔を思い出した。

 彼は、一体何者だったのか。得体が知れないと思いつつ、みるみるうちに惹かれていた。そして暗く沈んでいた私の心に安らぎをくれた。私を……助けてくれた、あの人。

 母は似ているというけれど、これは。

「あの傘、昔たしか柏火はくびさんで失くしたのよねー」

 その言葉に、弾かれたように顔を上げる。

 〝はくび〟。聞き間違いようのない響きに母を見上げる。

「ねえ、はくびさんって?」

「え?神社のことだけど……昔よくおばあちゃんとかがそう呼んでたんだけど覚えてない?」

「神社……。それって、何で」

「え?だってあの神社、本当は柏火はくび神社って名前でしょ。文字が掠れちゃってて柏の部分しか見えなくなってるけど」

「はく、び……」

「まあちょうど境内に大きな柏の木もあるからね。みんなかしわ神社って呼んでるし、今ではそっちのほうが有名だけど」

 呆気に取られた私の顔を見て「あれ、知らなかったの?」と母が目を見開く。

―― 知らなかった。初耳だ。

 確かに祖父母はよく、色々なものを◯◯さんと愛称のような形で口にしていた。伊勢神宮のことを「お伊勢さん」と呼ぶのと同じ。

 でも、あの場所はこの町唯一のもの。「神社」の一言で通じてしまうからか、名前で呼んでいた記憶は無い。

「そうかあ。私の年代までなのかなあ、柏火はくびさんで通じるのは」

 ぼやく母の言葉が耳を通り抜ける。

 〝はくび〟神社。

 花火をした昨日の夜、まるでずっとあの場所にいたかのように、境内の階段で寝そべっていた彼。まるで、火を意のままに操るかのように見えた、あの幻想的な一瞬。

 この7日間、彼と会ったのは神社と、それから

「お母さん……」

「ん?」

「あの、でっかい木、あるじゃん。あれって神社と何か関係ある?」

 突然の質問に、母が目をぱちくりさせる。

「昔あそこに神社があったっていうのはおばあちゃんに聞いたことあるけど……老朽化か何かで今のところにうつしたけど、あの木だけは大きくて動かせなかったからそのままだって、確か言ってたよ」

「……」

 彼と出会ったあの場所。

 初めて会った時、ざわりと肌が粟立ったあの不思議な感覚。

 同時に思い出すのは、祖母によく聞いた――良いことをすると困った時に神様が助けてくれる、というどこにでもあるようなありきたりな伝承。

「まあそのおばあちゃんも子どもの頃に、昔話的な感じで当時の大人に聞いたみたいだったから。あそこに神社があったのは相当前の話だと思うよ」

 そう言った母は、「それにしてもその傘、どこにあったの?」と私の手にある傘を指差した。

 尋ねられて、手元でヒラヒラと揺れる傘を見下ろす。

 似ていると母は言うけれど、これはあの時と同じものだと直感が告げる。

 私が小学生の時に使っていた、雨傘。確か誕生日に買ってもらって、たいそう気に入ってどこに行くにも持って歩いていた。雨であろうと晴れであろうと関係なく。

 それなのに、大雨が降った日。最も使うべき日に神社に置いてきて、中に誰かいるなら濡れちゃうと寒いかな?と純粋な子ども心から失くしてしまった傘。

 当時は、自分がずぶ濡れなのに本殿に傘を置いてきたなんて、なんでかバカみたいで言えなくて。母や祖母には、神社で風に飛ばされたと嘘をついていた。

「返してもらった」

「え?」

 傘をカチャッと閉じると、今の私にはあまりにも小さすぎる大きさ。

 小柄な私でも、今こんなサイズ感なんだから。「これじゃ俺にはちっちゃすぎるかな」と呆れたように笑う顔が見えた気がした。

「返してもらったって……その傘、あの時の?誰かに貸してたの?」

「うん。そういうことみたい」

 貸したつもりはなかったけれど。どうやら向こうには借りていた意識があったらしい。

 だからきっと、私が帰る最後の日に返してくれた。

「誰に貸してたのこんな子ども用の」

「かみさま」

「は?」

 ポカンと口を開く母に傘を手渡して、「これ、捨てないでね」と念を押す。

 鳩が豆鉄砲をくらったような顔に少し笑って、「じゃあ行ってきます!」と今度こそ手を振って玄関を出た。

 ボストンバッグを手に父が待ってくれている車庫に向かうと、ちょうど門の向こう、遠い目線の先にあの木が見える。

 そういえば、蝉の声がずいぶんと弱くなった。

 夏の気配を押し出すように、ざあっと風が吹いて大きなあの木が揺れたように見える。

―― はくび。

 過ごした時間は確かに記憶にあるのに、少しずつ砂のようにサラサラと流れ落ちていくようで。

 名前を忘れてしまうのが怖くて、頭の中で何度も繰り返した。それに応えるように、目を細めないと見えないほど遥か先。

 あの巨木の下に、微かにひらっと白いものが見えた気がする。

 いつも着ていた大きめのシャツを思い出して、一度瞬きをしたら、幻だったように見えなくなった。


 たった7日、されど7日。

 ふたりだけの淡い思い出を攫うように、晩夏を思わせる風が吹く。

 永い時の中で、彼にとっては瞬きにも満たない、そして私にとっては何よりも尊い、淡いひと夏の物語。


 あなたと私の、やさしい話。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ひまわり色の夏詣 朝凪 みこと @yu_maru_s

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ