8月18日(木)#3


「ごちそうさまでしたー!」

 18時過ぎには閉店してしまう喫茶店。

 ルンルンと楽しげな彼女に続いてお店を出た私の口からは、プシュー……と煙が出ていた気がする。

「無事に付き合えたら報告してね。じゃあまた!」

 そう笑った彼女に、付き合えたら、の部分に返答はせず私も「うん、またね」と笑ってお店の前で別れた。

 自転車に乗り、颯爽と手を振って去っていった背中を見送って、足をくるりと逆方向へ向ける。

 久しぶりの再会だったけれど、別れ際は高校生の頃と同じさっぱりとしたもの。無駄に「じゃあ……」とタイミングを見計らう時間が一切ない、こういうところが心地よかったのだと思い出す。

 またね、と自然にお互い言い合えたのだから、きっと彼女とはこの先も何度も会うのだろう。

 家までの帰り道、顔を上げた先にある、夕日に変わりつつある太陽は未だ夏の勢いが衰えず眩しかった。

「好きなところ……か」

 つい先ほどの会話を思い出す。ぽてぽてと歩きながら呟いて、はあ、とため息をついた。

 はくびの、好きなところ。「好きなところかあ」ともう一度呟いて、再び深いため息を吐いた。

 好きなのだ、私は。彼のことが。何者なのかと聞かれても、何も答えられないのに。

 いくつもある家までの帰り道。選択肢がある中で、私が通るのはやはりあの木の前を通るそれ。

 わざとらしくならない程度に大木に近付いたら、幹に隠れた向こう側にまるい頭が見えた。それから、だぼっとしたシャツに半分隠れた指先。

 いつもの彼が、いつもの場所にいる。それだけで安心する。

「あ」

 覗き込んだ私がいつもみたいに声をかける前に、それより早く彼が声を上げる。

「まーた会った」

 顔を合わせ、「またお前かい」と言葉だけは強く、柔和な顔で親しげに笑ってくれる。

 この言葉が聞きたくて会いに行っている私は、間違いなく彼に特別な感情を抱いているのだ。あと2日しか、ここにないのに。

「どっか行ってたの?」

「うん、喫茶店」

「喫茶店?」

「友達とばったり会ってカキ氷食べてた」

「ほー」

 どうぞ、とは一言も言われてないのに、当たり前のように隣に座った。数日前は恐る恐る近づいていたというのに。

 触れないぐらいの距離感に座って、後ろのポケットに入れていたスマホが痛くて取り出してもう一度座り直したら。

 目線が下がって、山の向こうに飲まれていく夕日とちょうど同じ。

「綺麗……」

 ここに帰ってきてから、素直に自然を綺麗だと思えるようになった。

 ずっとこの環境にいる時は、街の方へ出ようと思うと車がなければ移動できず不便な上に、どこか閉鎖的な空間に窮屈さを感じていたけれど。

 森の緑も、透き通るような星空も、この神々しいほどに赤い夕焼けも、高層ビルが並ぶ街の中では見るのが難しい。結局、ないものねだりなのだと気づいた。

「綺麗だねー」

 ぽそりとした呟きに対しても、答えてくれる声はきちんとある。

 この声のトーンが好きだ。どこか心地よくて、なぜか寂しくなるようで、それでいて心にストンと落ちる。

 ちら、と隣を見たら後ろに体重をかけて手をついたまま、ボーッと夕陽を見ていた。

「あの……昨日はありがとね」

 何か考える前に、自然と口から出ていた。

 そう、そうだ。会ったらお礼を言おうと思っていたのだ。

 昨日、初めて口に出して言葉にできたおかげか、起きた時どこか清々しい気分だった。ひと晩経って、寝ているうちに頭が整理されたのだろうか。1週間前には見えていなかった視点が、私の中に芽生えた。

 隣を見ると、夕陽を切り取ったような橙色の瞳がこちらを見ていて思わず息を呑む。

 黄昏の光に、透けそうな白い肌。そんなわけないのにスゥッと消えていきそうで、触れたら脆く崩れ去ってしまいそう。

「はくび……?」

「悩みは解決しそう?」

 私の呼びかけに重なるように問われ、一拍置いて頷いた。

「あ、うん。なんか、話し合いの場を設けたりとか、何か対策を部長とか先生とかと考えてみようかなって思って」

 今朝ふと思いついたことを、そのまま口にする。

「解決になるかは分かんないけど、私も我関せずだったから。それを見直さなきゃなって思ったの」

 彼に話してみて、今まで「当の本人たちが悪い」「それに乗っかる皆が悪い」と完全に他責思考でいた自分をようやく直視することができた。

 一度トラブルを起こした者同士が仲良しこよしになるのは難しい。それも、もともと性格が合わないと反発していた2人だから。

 それでも、何かアクションを起こして少しでも好転するきっかけが出来たら、と考えられるようになった。1人で鬱々として他人にばかり変化を求めていた時には、絶対に見えてこなかった道だ。

 そう答えるとはくびは私の方を見たまま穏やかに微笑んだ。

「そ。ならよかった」

 優しい笑顔にぎゅうっと心臓が潰されるように痛くなって、視線の置き所に迷う。柔らかな髪が微かな風に揺れて、彼はそのまま木の幹にぺたんと凭れかかった。

「穂花、いつまでこっちにいるんだっけ」

 名前を呼ばれて、ドキッとする。

 もうすでに何度も呼ばれているのに、先ほど紗代と話している時に自分の感情と改めて向き合ったからかやけに頬が熱くなった。

 誤魔化すように視線を落とすと、昨日私の頭を撫でてくれた手が目に入る。これまた心臓に悪い。

「明後日の朝一で帰るから……休みは明日までかな」

「そっか」

「うん」

 それきり、沈黙。不思議と気まずくはないけれど、〝明日まで〟と自分で口にして急に寂しくなった。

「……ねえはくび、花火しない?」

 思いもしていなかった。こんなにさらりと、自分から彼を誘うとは。

「え?」

 彼が私の方を見た同じタイミングで自分でも驚く。言った当の私が驚いているのだから向こうはもっと驚いていて、「はなび?」と不思議そうに目を瞬かせた。

「あ、いや、え」

 えっと!と自分で言った言葉に慌てた。

「あ、そう花火がね、手持ちのやつ!親戚で集まった時にやろうと思って買ったやつがあって」

 雨降ってできなかったの、一昨日すごい豪雨だったでしょ?その時やるつもりだったんだけどね!だからその、勿体無いなって、ほら、来年まで持ち越したら湿気っちゃうし。

 ……なんて、言い訳ばっかり。「別にわざわざ用意してたわけじゃないよ!余ったからだよ!」とそんなに強調しなくてもいいのに、照れ隠しか口が勝手に動いてしまう。

 しどろもどろになって、息継ぎもまともにしないまま不自然なほど理由を並べる私。

 とは対照的に、彼は驚くほどあっさり「いいよ」と答えた。

「え?いいの?」

「え?」

 え?とお互いに顔を見合わせる。

「あ、えと……じゃあ明日の夜?でいい?」

「うん」

 私が構えていることなんてまるで気にしていない。あっさりしすぎて、何言ったか分かってるかな?と不安になるぐらい。

「時間はいつでもいいよ」

 のんびりとそう言うと「最後の夜だもんねえ」と目をこすりながら眠そうに欠伸をした。

「そう、だね」

 最後の夜。言われると、〝最後〟なのだと実感する。

 1週間前、モヤモヤしたまま帰ってきたのがはるか遠い昔のことのようだ。ほぼ毎日、顔を合わせていた濃密な1週間。楽しい時間はあっという間だとよく言うけれど、本当に瞬きするように過ぎていった。

 こんな時間も明日で終わり。

 長くて短い休みの終焉が、静かに、すぐそこまで迫っていた。

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