8月14日(日)#3


 この場所に座るのは何年ぶりだろう。

 私がここで友達とアイスを食べていた数年前と変わらず、太い根っこがボコボコと地面に突き出しては絡み、齢を重ねたこの巨木を支えている。

「意外と涼しいと思わない?太陽の真下より」

「まあ……多少?は」

 同意を求められ、正直に答える。

 前述のとおり、ここの快適さはよく知っている。しかしあの頃よりも年々気温は上がっているのだ。

 私のこめかみを、背中を、膝裏を、何筋も汗が伝う。その軌道を撫でるように風がそよそよと吹いて、確かに扇風機が回っているような心地よさは変わらずあるけれど、葉の間をくぐり抜けてきた陽の光がチラチラと目に当たるし、真上で蝉たちが大合唱しているし、足元には名前も知らない小さな虫も彷徨いている。

 正直、何時間もいられるような場所でもないような…。

「毎日ずっと座ってるんですか?」

 彼の領域に、そっと足を踏み入れるように問いかけた。

 不思議な空気を纏ったその人を近くで見てみると、顔にも首筋にも一切汗をかいておらず、暑そうなそぶりを全く見せない。

 そしてその横顔を間近で見て、昨日までの印象と少し変わったように感じた。そんなに年齢が変わらなそうだと思っていたけれど、恐らく私より年上だ。

 だらんと脱力した姿勢も、何にも興味が無さそうに見える瞳も、何かを諦めたようなそれではなく。私が見えない景色が見えていそうな、どこか達観しているような何かを感じた。昨日、畏れのようなものを感じたのはそのせいかもしれない。

 その整った色白な横顔はただ綺麗なだけではなく、まるで長い時間を生きてきたような重々しさがある。

 それなのに、「うん」と頷く姿は、子どものように素直。

「いつもここにいるわけじゃないけど」

「あ、そうなんですか?」

「気分次第」

「へえ……」

 いかにも気分で、ふらふらと動きそうな感じがする。

「涼しいからここが好きなんですか?」

「んー」

「あ、田舎の風景が好きとか?」

「んー……」

「じゃあもしかして普段はもっと街の方に住んでたりします?お盆だから帰省中とか」

「……」

「それだったら私と一緒だ。でもさすがにここにずっといるのは暑くないで…」

 そこまで言いかけたとき、彼が突然「ふはっ!」と吹き出した。

 口をつぐんで彼を見ると、目元に笑い皺ができている。身体を木の幹から離して前に倒すと、私の顔を覗き込んだ。

「質問ばっかだね」

 くく、と可笑しそうに笑いながら穏やかに目尻が下がる。

「……」

 初めて見た。笑った表情。

 さきほどまでの大人びた表情は消え去り、無邪気ともいえる笑顔。

―― あれ、やっぱり私と同い年ぐらい…?

 笑った途端、私とそんなに年の変わらない男の子、という感じがした。親しみやすさが増したからか少しホッとする。

「……失礼しました」

「いいけど。大事なことは聞かないんだ」

「大事なこと?」

「名前とか」

「あ…えっと、お名前は?」

―― そういえば聞いてなかったっけ。

 言われるまで気づかなかった。改めて尋ねると「テンポいいねー」とまた笑われる。

「聞いてもいいのかなって分かんなくて」

「はくび」

「はい?」

「名前。はくび」

―― あ、名前。

 苗字は?と思ったけれど、言わなかったことを詮索しない方がいいかもしれないと口には出さなかった。ただ「はくび」と彼の名乗ったそれが、苗字である可能性もある。それとも、下の名前だろうか。

 どちらにしても、珍しいなと思った。もしかしてニックネームとか?とこの一瞬で色々と考えを巡らせる。

―― まあ…別に呼び方さえ分かればフルネームで知る必要ないか。

 必要ないか?と一瞬首を傾げたけれど、少なくとも今この場では必要なさそうだ。

「私は、穂花です」

 なんとなく相手に合わせて、私も下の名前だけ名乗る。

「ほのか」

「はい」

「穂花はこの辺に住んでるの?」

 おお、と思った。二度目ましてなのに呼び捨て。

 ただ不思議と不快な感じはしなかった。彼の雰囲気がカジュアルな距離感を作り出しているのか、あまりにも自然で。

 私に尋ねながら、彼は色白なその手で虫でも付いたのか自分の髪を払うように触る。その、柔らかそうな黒髪を。

 私よりもずっときめ細かで、鼻筋がスッと通った透明感抜群の肌。手を伸ばしたら通り抜けそう、とわりと本気で思ってしまう。

「あ、実家はこの近くなんですけど、今は大学の寮にいて。夏休みだから帰ってきてて……」

「へえ」

「やる事なくて暇です、こっち」

 彼をここぞとばかりに観察しながら、その話しやすい雰囲気に気づけばいつの間にか心を開いている自分がいる。

「じゃあ向こうでは忙しいの?」

「それはもう…部活部活部活ばっかです」

「へえ、ぶかつ」

「バスケ部なんですけど、ほぼ毎日練習で……」

 屋内部活でも私はこんなにこんがりと日焼けしているのに、彼は外にいてなぜ全く日に焼けていないのだろう。

 でも、細身なのに、白シャツに隠されてはいるけれど肩まわりは意外としっかりしているように見える。それに、先ほど自らの髪を梳いた手もぶあつくて大きい。

 見れば見るほど、吸い寄せられる。見れば見るほど、魅せられる。

 視線は彼の輪郭に沿って進み、少しでも分析しようとする一方。口では、ストレッチ、走り込み、筋トレ、食事、睡眠と時間をしっかり管理されているために持て余す暇がないことをつらつらと話していた。

 部活だけでもくたくたになる毎日、課題なんて正直やる時間もないのに、部の方針では文武両道を掲げているために手を抜けない。スポーツ推薦だろうと学業も大切に、がモットーのため、単位なんて落とそうものなら叱り飛ばされる。

 かといってそちらに引っ張られすぎて大会で結果を出さないと、それはそれで…。

 と、出会って間もない人にペラペラとしゃべっている私。

 聞いている向こうも、「へえ~!」なんて大げさな反応は一切無い。たまに頷くだけなのに、むしろあまり興味なさそうなのに。何故か聞いてくれていると感じる。

「でも久しぶりにこんな自然いっぱいのところに戻って、少し肩の力が抜けました」

「そんな向こうで煮詰まってたの?」

「そう……ですね、結構疲れちゃってたみたい」

 話し始めると、特に考えずとも次から次へと言葉が溢れ出て、昨日あんなに暑いなか道端で話し込んでいた女性たちのことを言えないぐらい。

 いつのまにか身を乗り出して夢中になって話していたら、ポケットでピロンと音がしてハッと肩が揺れた。

「……ちょっと失礼します」

 断りを入れてスマホを見たら、画面に浮かび上がった1件の通知。

 母から『まだスーパー?ついでに食パンも買ってきて!』と追加要望の連絡が来ていた。

「あー……」

「ん?」

「用事あったの、完全に忘れてました」

 買い物に出たこと、すっかり抜け落ちていた。長居をしすぎたと気づくと同時に、本来の目的を思い出す。

 ちょっとだけ、のつもりがもう何分経ったのだろう。しかも私ばかり一方的に捲し立てるように話していた。

「ごめんなさい!私行きますね」

 話したいことを話すだけ話して、相手の話は聞かずに一方的に切り上げる自分に呆れつつ。

 ぺこりと頭を下げ「ありがとうございました」と立ち上がろうとしたら、くいっと隣から手首を引かれる。

「へっ」

「葉っぱついてる」

 そう言って私の手首を持ったまま、もう片方の手がくっと伸びる。その指先をまだ追うように半分身体を捻ったら、服の裾に緑の葉がついていた。

 どうやら、座った時にくっついたらしい。

 それを摘むように取ってくれた彼は、「ほら」と顔の前に掲げた。

「あ……りがとう、ございます」

「うん」

 ひら、と緑の小さな葉を離すと、私の足元に舞って落ちた。

 掴まれたままの手首が、ジン、と熱い。

 彼のてのひらはヒンヤリしていた。汗ばんでもいない、サラリとした感触。

 対照的に、ドクッドクッと脈打っている私の手首から温度が上昇していく様が伝わりそうで。

「じゃあ……また」

 曖昧に微笑んだら、自然と離れた手。

「うん、またね」

 ふ、とゆるく口の端を上げた顔。

 何の約束もしていないのに、次があるような言葉が自然と口をついて出たことに驚く。そして同じように「またね」と返してくれるその人懐っこさが、そう思わせるのか。

 彼の手形が焼き付いているのではと思うぐらいに熱い手首。その温度を確かめるように、私は無意識に、自分の手をそっと重ねた。

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