第8話 お別れの時

 スマホの着信音で目が覚めた。

 シングルベッドで僕の腕にリオ。その隣にこちらに体を向けて眠る先輩。


「先輩……、先輩……、電話鳴ってます」


 僕はリオを腕に乗せたまま、先輩を揺する。


「ん……」


 先輩は辛そうに目を開け、ヘッドボードの携帯を取り上げ、目の前にかざす。

 着信の相手を確認し、バっと飛び起きた。


「もしもし……」


 誰だろう? 僕は布団の中で耳を澄ます。


「うん……うん……。……うん、わかった」


 はぁっとため息の後、先輩はベッドに体を沈めた。


「何ですか? どうしたんですか?」


 不穏な空気を察した僕は、体を起こした。


「元嫁」


「リオのママ?」


「うん」


 鼓動が早くなる。


「リオ、迎えに来るって」


 寂しそうだが、先輩は冷静だ。


「リオ、渡すんですか?」


 僕は、飛び起きた。


「うん」


「なんで?」


「あいつの実家の親がサポートするらしい」


「はぁ?」


「お前には言えなかったけど、昨日、昼頃あいつから連絡あったんだ。すぐに迎えに来るって言ったけど、今日まで待ってもらった」


 昨日の昼頃といえば、リオとスーパーに買い物に行ってた時だ。リオがようやく泣き止んで、僕を保護者と認めてくれた頃。


 リオは何も知らずに、スヤスヤと眠っている。


「親権は母親だから仕方ない。俺は裁判する気もない」


「どうして?」


「勝ち目ないからだよ。片親で育てるにはサポートがある方が強いんだ。あいつの実家、町田だから」


「サポートなら……」僕が……。言いかけて止めた。


 僕だって身の程を弁わきまえていないわけじゃない。傍から見たら僕はただの後輩。祖父母のサポートに敵うはずがない。


「でも、どうして今までは24時間保育利用してたんですか? 実家に預けずに」


「あいつの家、けっこう親が厳しいんだよ。親にも隠れて遊んでたんだろう」


「パパ……」


 リオは目を覚まし、不安そうに先輩の腕を掴んだ。

 短すぎる。リオに選んでもらえる親になるには、僕たちは一緒に過ごした時間が短すぎるし、リオは幼な過ぎる。


 僕は膝を抱え顔を埋めた。


「ナツ、どしたの」


 リオが僕の背中を撫でてくれた。

 僕は顔を上げ、リオを抱きしめた。


「ううーーーーー」


 泣き声を上げたのは僕だった。


「ナツ、お腹いたい? ママに会いたいの? ないちゃだーめ」


 リオが優しく背中を撫でる度、僕の涙は止まらなくなった。


「ナツ……。ごめん」


 先輩の声が鼓膜を震わせる。僕より先輩の方が辛いはずなのに。


「パパ、だーーめ!」


 リオは、先輩のスウェットを強く握り、怒った顔で荒々しく揺さぶる。

 先輩が僕をいじめたと思っているに違いない。ごめんって言ったから。


「違うよ、僕が勝手に泣いているだけなんだ。パパは悪くないよ」とリオを抱き締めた。


 今日は三人で暮らせる新居を探しに行く日だったのに、なんでこんな日になるんだよ。

 リオはまだ三歳。

 このまま別れてしまったら、パパはおろか僕の事なんて記憶の片隅にも残らないだろう。

 そう思うと涙が後から後から溢れて来る。


「うっ、うっ……。リオ……」


「よしよし」


 リオは小さな柔らかい手で、僕の頭を何度も撫でる。


「週に1回は必ず会わせてもらえるようにするよ」


 先輩は元々、そういう予定だったのだ。

 予定が狂ったのは僕だけ。僕だけが舞い上がって、勝手に夢を見ていただけなのだ。


「だから、引っ越しはしよう。俺、いい物件いくつかチェックしといた」


 先輩はそう言って僕の背中を摩った。

 リオは人差し指を咥え、ちゅっちゅとしながら僕の顔を覗き込んだ。

 そんな姿を見る度に、僕の胸はどうしようもないぐらい締め付けられて、また涙が溢れた。


「二度と会えないわけじゃないんだから、もう泣くなよ」


 先輩は少しうんざりした口ぶりで、僕の背中を叩いた。

 僕は、涙を拭った。

 泣いている時間なんてもったいない。僕はまだリオのママだ。


「何時にお迎えくるんですか?」


「10時に、新宿駅で待ち合わせ」


 2時間後か。


「飯作りますね」


 僕は起き上がり洗面所へ向かった。顔を洗い歯磨きを済ませ、冷蔵庫を開けた。


「ナツ」

 先輩が僕を呼ぶ。


「何ですか?」


「普通の朝飯がいい。みそ汁と卵焼きが食べたい」


 切実な声だった。昨日のクレープは重かったらしい。たしかにベタベタして、後片づけも大変だった。僕はふふっと笑いが込み上げた。


「わかりました」




 米を洗い、炊飯器のスイッチを押し、ベッドで先輩のスマホを弄るリオの元に行った。


「リオ、よかったね。ママに会えるよ」


 僕は精いっぱいの笑顔を作り、頭を撫でた。

 リオは「うん」と大きく頷き、嬉しそうに僕の顔を見上げた。

 今まで見たどんな笑顔よりも嬉しそうだった。


「俺、朝飯作るよ。お前、リオ頼む」

 ベッドの横に立ったまま僕の様子を見ていた先輩がキッチンへ向かった。


「できるんですか?」


「みそ汁と卵焼きぐらいなんとかなるだろう」


「出汁だけ取りましょうか?」


「大丈夫大丈夫! 家庭科の授業でやった事ある」


 先輩はしばらくキッチンの前に立ち尽くし、「えーっと……」とキョロキョロしている。


「鍋は下の引き戸です。鰹節は冷蔵庫」


「わかってる! 何も言うな!」と言いながら、冷蔵庫を開けた。


 先輩も父親として、リオに何かしてあげたいのかも知れない。或いは僕にリオとの時間を作ってくれたのか。どちらにしても先輩は少しずつ変わり始めているような気がした。

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