第5話 天使か悪魔か・・・

 フライパンの上で、ジューーーーと甘いバターの匂いを立たせながら、ペールイエローの液体が薄く広がる。

 手早くフライパンから引きはがしてひっくり返すと、絶妙な焦げ目が成功を物語っていた。

 生クリームを電動ミキサーで泡立てる暴力的な音で、先輩が起きたようだ。


「おはよう。何これ? すげぇな」


「おはようございます。クレープです。リオが喜ぶ顔が見たくて」


「何か手伝おうか?」


「いや、もう大体終わりなんでリオ起こしてください」


 先輩はスウェットのズボンに手を突っ込み、だらしなくお腹辺りを掻きながらベッドの方へ歩く。


「リオ! 起きろ!」

雑にリオを揺する。


 僕は、甘味を抑えたクレープ皮と、昨夜の残りのツナサラダ。ハムと目玉焼き。トマトとレタス。リンゴと梨のコンポートと生クリームをテーブルに並べた。


 リオはぐずる事なく、すくっと起きて来て、喜びと言うよりは、驚きと興味に満ち溢れた顔でテーブルを見回している。

 そしてテーブルの前にちょこんと正座した。

 早速、食べる気満々だ。


「顔洗うぞ。ご飯はそれから」


 先輩はリオをひょいと立たせ、おむつを確認し、トイレへ連れて行き洗面所へと移動する。


 おねしょはしていなかったみたいだ。

 先輩にはブラックコーヒー。リオにはホットミルクを準備した。


「このクレープに、好きな具材を乗せて、食べてくださいね」


 リオは嬉々とした顔でテーブルの前に正座し、パチンと両手を顔の前に合わせた。


「いたらきます!」と昨日より激しくヘッドバンキングした直後、くしゃっとリンゴのコンポートを素手で握った。


「ばかばか!」と先輩が慌ててティッシュでリオの手を拭き、クレープにリンゴのコンポートと生クリームを包んでやる。


「じぶんで、じぶんで。リオがやーる」と先輩に向かって紅葉のような手を握ったり広げたりしている。

 やらせてあげればいいのに、先輩は結局最後まで自分で包み、リオの口を塞ぐように食べさせた。


「美味しい?」と僕が訊くと、大きく頷いた。


「あれ? まいうーって言わないの?」と訊くと、あ、忘れてたとでも言いたそうな顔をして、「まいうー」と口を尖らせた。

 かわいいいいい!!!と、悶絶したいのを必死でこらえ、僕は甘いコーヒーを啜る。


 先輩はツナサラダを包み、頬張ると「うまーっ!」と天を仰いだ。

 時間を気にしながらコーヒーで流し込み「ごちそう様」と着替えモードに入る。


「今日、朝から会議で、早めに出るわ」

「そうだったんですか。言っといてくれたらもっと早く起こしたのに」

「うん。ごめん、忘れてた」


 僕も急いで立ち上がり、いつものように手伝おうとすると「いい」とてのひらをこちらに向けて、リオに目線を移した。

 そうか。まだ3歳の子供とはいえ、僕たちの関係は秘密にしなきゃいけないのだ。リオにとって僕はパパのお友達なのだから。ただの友達。



「行ってきます」と先輩が部屋を出ようとしたその時、急にリオは不安いっぱいの顔で先輩の足元にぎゅっとしがみついた。

 僕にとっては予想外の出来事だった。


「リオ、パパに行ってらっしゃいしようか」と、リオの脇を両側から掴むと、大きく体を捩り、「いやーー」と小さな声で言った。


「ほら、お仕事行けないだろう。離せ。ナツと遊んどいて」


 先輩もリオを引き離そうとするが、強固にしがみついて離れない。


「リオ、ボールで遊ぼうか。サッカーしよう」と、リオの腕を引く。


「いやーーーーー!!!」


 今度は大きな声と共に、つぶらな瞳から大粒の涙を溢れさせた。


「パパといくーー。パパといくーーーーー」


「離せ」「いやーーー」「離せって」


 親子の攻防戦が暫く続き、いよいよ出勤しなくてはいけないタイムリミットがやって来た。


 僕は最終手段に出る。リオを後ろからひょいと抱き上げ、スーツをがっしりとつかんでいる手を無理やり引き離した。足をバタバタさせ、全身で拒絶するリオ。


「いやーーーー、ナツいやーー、ナツきらーーーーい」


「ごめんね。パパお仕事行かなきゃいけないんだ。ごめんね、リオ」


 その時だった。


「ママーーーーーーーーーーー!!! 助けてーーー」


 リオのママになりたかった僕の心は、一瞬にして握りつぶされそう。

 今すぐ僕も大声で泣きたい気分だ。

 そんな僕の顔を、先輩が心配そうに見た。


 僕は奥歯を食いしばった。先輩の目を見て、首を横に振る。大丈夫!


「いってらっしゃい」

 と、大きな声で事務的に告げた。


 先輩はうんと頷き「行ってきます」と背を向けた。


 バタンと、扉が閉まる。

 リオは、観念したように床に座り込むと、ぎゅっと目を閉じて「うわーーーーーーーーーーーーん」と大声で泣き始めた。


 いつも託児所で、お迎えに来るか来ないかわからないママを待ち続けていたリオは、また置いて行かれると思っているんだ。

 大好きなパパがどこかへ行ってしまうんじゃないかと、不安でたまらないんだ。もう帰って来ないかも知れない。一生会えないかも知れない。そんな不安と闘っている。


「大丈夫だよ。パパは必ず帰って来るよ。時々寄り道したりもするけど、いつも必ずここに帰って来るんだ。だからいい子で待ってよう」


 それは僕がいつも、自分自身に言い聞かせるおまじないだった。


 そんな僕の呟きは、悲鳴にも似た泣き声に虚しくかき消される。


 断末魔のごとく泣き叫ぶリオの前に室内用のサッカーボールを転がしてみたり、携帯でアンパンマンのマーチを流してみたり、リフティングをして見せたり、ブリッジをして見せたり、逆立ちをして見せたり、どれも効果はなく、リオは全身全霊で泣き叫ぶ。


「パパーーーーーーーー、ママーーーーーーーーー」



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